遠くへ

篠崎亜猫

遠くへ

お夕飯を片付けに台所へ立ったら、変に咳いて、真っ赤な血がたらりと口からこぼれました。それを見てふと、ああ、遠くへ行きたいわ、と思いました。


私は元来、物事の飲み込みの遅い、また教育が十分に身についていない、くだらない女でございます。ですから、親に、年齢を理由にされて、生まれた町を追い出されるようにして、一人暮らすことになった時も、大層、心細い気がいたしました。知らない土地の、知らない家で私が生活するというので、申し訳なくて、気が狂いそうでした。親がいないのが嫌なのではなく、また、女の一人暮らしということで、不審な男性にいたずらされるかもしれないのが恐ろしいのでもなく、他人様が生活する場所で、他人様が住んでいた空間で、この私めが、そのすみっこであっても、生活させていただくというのが、もう、嫌なのです。

私は、学生の頃の野外活動やら、修学旅行すら嫌でした。こんなばかが、他人様の土地へ入って生活をするというのが、当時から、とんでもない冒涜に感ぜられたのです。

それでも私は、小説だけは好きでした。同い年の少女とかけっこして、追いつけなくて泣くよりかよほど、文字を追いかける方に夢中になっていれば、当時は、もう、それでようございました。級友に、「ヨウちゃん、遊ばないの?」と聞かれても、勝手に家の人のせいにして、のらくらと生きてまいりました。他人と関わることがきらいなのではないのです。ただそれは、このばかがこの人たちのプライベートの時間にまで一緒にいて、それで良いのかという、罪の意識からくるものでした。今思えば、おかしなものです。


私の両親が借りて私にあてがったのは、小さくて煤けた、鉄筋コンクリートのアパートでした。私はその3階の角部屋に、居を構えました。朝起きて、目に入るのはまぶしい朝日です。東向きの窓が大きくついているので、夏などは、とてもではないけれど、朝寝ができません。そうして、冴えぬままお台所で顔を洗って、冷ごはんと夕べの残りでぼそぼそ朝ご飯を済ませて、狭い玄関で靴を履き、大学へ行くのでした。

私は幼年時代と相も変わらず、ぱっとしない、ばかで、のろまな女のままでした。

講義で教授に、自分に自信のないものは永遠にばかのままであると教えていただきました。きっと昔の偉い方のお言葉でしょう。まさに私のことだと思いました。

お昼は学校の食堂で頂きます。きっと私の作るものより、美味しいご飯が出てきます。がやがやする食堂の机で、肩をすぼめるようにして、ラジオでも聞くように人々の会話を流しながら、お昼を頂くのが常でした。

そこで、私は正一郎さんと出会いました。

彼は立派で博識で、自身に満ち溢れた、つやつやしたお顔をしておられます。その日はかなり暑い日でしたが、その汗すら爽やかなのです。


「ここ、よろしいですか」

「は……」


無言に近い返事をした私の態度を肯定と受け取ったのか、正一郎さんは私の正面に座られました。そうしてしばらくお話になって、私のことを、そばにいると涼しいような心持がして良い子だと言ってくださいました。確かに私は体温が低いのですが、元来の、人を避けたがるたちなのを混ぜて、揶揄って雪女などと呼ばれていたので、これも自分自身、好きではなかったところでした。親も、なにせ不健康そうでよくないだと言って、あまり好みませんでした。それを褒めてくだすったのは、正一郎さんだけでしから、私はすっかり驚いてしまい、私たちが恋人の関係になるまで、そう長くはかかりませんでした。

それでも、私はやっぱり、正一郎さんの生活に割り込んでしまう自分が嫌で、デートなど誘えもしませんでしたが、正一郎さんはそれを知ってからは、無理やり自分の生活に私を割り込ませて、自信を付けさせようとしてくれました。映画館やら、レストランやら連れまわされて、今までの分、全部遊びつくしてやろうという勢いの正一郎さんのおかげで、私は、正一郎さんを自分からお食事に誘ったり、お家でお話をしたり、学校で声を掛けたりすることが出来るほどにもなりました。まったくあの方のおかげです。あの方は素晴らしい方です。

例えば、こんなことがありました。

私はそのころ、そろそろ自分に自信がついて、と言っても自分のことを美人だとか天才だとか己惚れる類のものでなく、ただ、他の人と対等にお話ししてもよいのだと思えるようになっておりました。

ですから私は思い切って、正一郎さんを映画に誘ったのです。流行りの、恋愛映画でした。上映が終わって劇場を出てみると、周りの観客は、家族連れや友人同士、カップルの分け隔てなく、皆涙しておりました。私の目はカラカラに乾いております。

カッと頬が火照って、咄嗟に、だめだ、と思いました。人と同じことが出来ない、劣等種だと、改めてその気持ちが起き上がってきたのです。しかし正一郎さんはそれを目ざとく見つけられて、「洋子さんは格好いい方ですね」とおっしゃいました。


「物事に動じることがなく、簡単に情に流されていくこともない。なんとも、いいではないですか」


その日私は改めて、正一郎さんに惚れ直したのです。

私のお家へ帰ってから、手製のお粗末なご飯を済ませて、正一郎さんが入れてくださったお茶をすすっていると、正一郎さんが私へ問いかけました。


「ねえ、君、ケイちゃんという子を知ってる」

「ケイちゃんですか」

「うん、きっと小学校の時代に、君と同じ級だった子だ」

「……ええと」


唐突な問いでしたので、私は困りました。あまり人と話してこなかったので、お顔も、お名前も覚えている人は、一握りしかいないのです。


「君はその子に、遊びに誘われたことがあるね。他の子は、君の人嫌いとでもいうような性質に呆れて、もう誰も話しかけやしなかったし、君は、それはそれで一人の読書ライフを満喫していたのに、元気に、ともすれば無遠慮に話しかけてきたのが、いたね」


私はハッといたしました。確かにそんな奇特な方がおりましたし、彼女は小学校時代の同級生でした。確かにあの日、私はケイちゃんという子に誘われて、ケイちゃんを含めた数人と遊びに行くことになっていました。私はいつもの通り、とてもではないけれど申し訳なくて、遊ぶのなんぞ嫌だったのですが、気の強い子が私の肩をがくがくゆすぶって、それで、「ヨウちゃんも来ますね」と聞きましたから私は思わず、「ウン、行きましょう」と答えてしまったにすぎません。ですから結局、行きませんでした。家へ帰って、やっぱり本を読んでおりました。

何故正一郎さんがそれを知っているのか不思議に思いつつ、私は、「ええ、ええ、おりました。可愛らしい子だったわ」と答えました。正一郎さんは満足した顔をして、何べんもうなずかれました。


「そう、ではお茶をどうぞ」

「ええ、ありがとう、いただきます。飲んだら、お皿を片付けますね」

「そうしてください。ありがとう。そうだ、君、今度旅行に行く気はありませんか」

「ええ、でも私、他人の生活に割り込むのは……」

「ね、極楽浄土へ行きましょうよ。何、あいつらは人を泊まらせるのが仕事で、それでお金をもらっているのだから、大いに割り込んでやればよいのです。そうしなきゃまんまを食えないんだから。うんと遠くへ行きましょう、ね、そうしよう」

「ええ、でも……」

「僕と一緒なのだから、楽しいはずです。君の、べらぼうに低い自己肯定感も、これで並ほども上がるでしょう」

「そうですか……では、よろしく」

「ええ、きっと行きましょうね」


そうして、私は血を吐いたのでした。


あの日、私が約束を破った日、遊びの場に集まったほかの子は、「またヨウちゃんがサボった」と笑っていたそうですが、ケイちゃんだけは諦めきれずに、うろうろと探していてくれたそうです。

ですから、ケイちゃんは車に撥ねられました。

その事故が起こったのはもう夕方の暗い時分でしたから、双方の不注意として片づけられました。幸い足の骨を折っただけでしたが、ケイちゃんはとても落ち込んだそうです。

私は次の日その話を学校で聞いて、びっくりして、涙も出ませんでした。


「お前が約束を破ったせいで、妹は車に撥ねられたんだ」


そうして正一郎さんは、私を恨み、私を探し、近づき、終いに、私のお茶へ薬を入れました。


「遠くなぞ行くのはお前一人だ。大事な妹を傷つけた罰だ。妹はあれ以来外を出歩くのすら怖がって、神経衰弱になっている。お前のせいだ。僕と一緒なんて、ありゃあ嘘だ。一人だ、一人であの世へ行っちまえ。極楽浄土だ、ははははは!」


これは、血を吐いて台所に立っている私を見た正一郎さんが、やあ、この女はもうじき死ぬぞと早合点して、嬉々として、ご自分の口から話してくれたことです。ああ、思い出しました。ケイちゃんは、山木恵子さんでしたし、確かに、正一郎さんも、山木正一郎さんでした。


しかし私はその時、今死ぬやれ死ぬと怯えていたのではありません。銀のシンクに垂れた真っ赤な血を眺めて、ああ、遠くへ行きたいわと思っていたのです。やはり正一郎さんのおかげでしょうか。あの方はやっぱり素晴らしい。なんだか、遠くへ行くことが、妙にわくわくしてまいりました。

でも、私一人じゃあつまらない。私はそのまま、正一郎さんの用意した薬をたくさん飲んでしまって、笑っている正一郎さんのたくましい胸に縋るようにして、彼の胸へ、シンクの脇にあった包丁を、差し入れました。

彼の胸は中身までたくましく、私の薄い手の内で、包丁は幾度もビクビク震えます。

私は、かつないほど、自信に満ち溢れておりました。きっと、あの日の正一郎さんぐらい、顔がつやつやしていたことだと思います。


結局、私たちはふたりで旅行へ行くことはかなわず、彼は遠くへ行ったきり、私は冷たい檻の中でこの手記を書いております。

やはり、ばかな女が旅行なぞ、願うものではなかったのでしょう。

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遠くへ 篠崎亜猫 @Abyo_Shinozaki

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