第3話 救世主 

「先生、プリント落としました」

 低い声だったけど、十分に先生に届いたようで、

「お。そうか」

 先生は近づいてきて、問題用紙を拾った。そして、声の主、井川蒼也いがわ そうやくんに、渡そうとする。

「あっち」 短く言って、井川くんが私を指さし、先生はあわてて、私に問題用紙を渡してくれた。

「すまんな。気ぃつくの遅れて」

「いえ。ありがとうございます」

 無事、問題用紙を受け取った私は、そこから、大急ぎで、問題に集中する。


 なんとかぎりぎり、チャイムまでに解答を書き込むことが出来た。

「ありがとう」

 私は、心を込めて、井川くんにお礼を言う。

「どういたしまして」

 彼は、クールに答える。

「救世主やわ」

「そんなたいそうな」

「いや、ほんまに。めっちゃ焦ったもん。助かった。おかげで、時間内になんとか出来た。ありがとう」

「そうか。そんならよかった」

 井川くんは、唇の端をほんの少しあげて、笑った。

 その瞬間、なんでだろう。胸が少しドキッとした。


 井川くんとは小学校が違うので、中学で初めて会った。

 出席番号の席順で隣になったときから、けっこう普通に話しかけてくるし、話しやすい。

 そう思っていたら、他の子たちから、「井川くんとよく話してるけど、平気? こわくない?」とか、「この間、河川敷で上級生を殴ってるのみた」とか、いろんなことを言われた。

 入学時に他市から引っ越して来たらしく、誰も小学校のときの彼を知らない。なので、本当のところは、ナゾだ。

 確かに、目つきは鋭い。でも、それは単に切れ長のシャープな目だから、って気もするし。それに、なにげに親切だったりする。今日みたいに。

 だから、私にとって、井川くんは、普通に親切なクラスメートの1人だ。


 無事、初日のテストを終えて帰宅すると、に~にが、玄関マットの上で、じ~っと待っていた。入ってきたのが私だと分かると、安心したようにジャンプして、

「おっかえり~」と言った。機嫌がいい。

「さあ、昼ご飯食べたら、また、がんばるで。明日は数学と社会やな?」

「うん」

「がんばるで」 

 に~には嬉しそうだ。

「なんで、に~にが、そんなに張り切ってるん?」

「え、なんか、テストって楽しみやん」

「ええ~。どこが~。……そや、今日、大変やってん」

「何があったん?」

そこで、私は、問題用紙落っことし事件のてんまつを話した。

「ああ。確かに、国語は問題用紙多いからな。そや、社会も多いぞ。明日、気をつけろ」

「うん」

「そいつ、その、井川ってやつ。ええやつやな」

「うん。みんな、こわい、っていうけどね。多分、目つきが悪いだけやな」

「そや。顔で決めたらあかん。ひとは、中身や。まあ、オレの場合は、外身も中身も、バッチリやったけどな」

「に~にってば」 私は笑う。

「へへ。ま、早よ、昼飯食え」

 笑って呆れた顔をして見せたけど、ほんとは、に~にの言う通りだった。

 お兄ちゃんは、とってもイケメンでカッコよく、勉強もスポーツも万能で、私の自慢のお兄ちゃんだった。いや、もちろん今も、自慢のお兄ちゃんだ。

 だから、お兄ちゃんが、事故で亡くなったという知らせが入ったとき、私は、胸が潰れるほどショックで、泣くことさえ忘れていた。ショックでつらかったのは、ママだけじゃない。パパも私も、みんな、ショックで、つらかった。つらすぎて、誰も言葉が出なかった。

  

 葬儀を終えて、帰ってきたとき、私は、自分の部屋にこもって、に~にを抱きしめて、そのとき初めて泣いた。全身の水分がなくなるんじゃないかと思うほど泣いた。

に~には、お兄ちゃんが、誕生日プレゼントにくれたコだったから、他の誰より、私のつらさ寂しさを分かってくれるような気がして、に~にを抱きしめて、泣いた。

 そのときだ。

「もう、泣くなって」

 お兄ちゃんの声だった。

「え?」

「オレは、ここにおるから」

「え? どこ?」

「ここ」

 私の腕の中から、抜け出して、に~にが、目の前で、両腕を振っている。

「お兄ちゃん? に~に?」

 驚く私に、に~には、くるっと回ってターンを決めると、闘牛士のようなポーズで、

「オ・レ」 と言った。


 びっくりしたけど、それ以上に嬉しかった。お兄ちゃんとは、もう話せないんだと思って、めちゃくちゃ悲しかったから。

それ以来、お兄ちゃんは、『に~に』に宿って、私のそばにいる。


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