母を捨てる

 食卓に座り、猛と共にホットミルクを啜った。


 風の音を聞きながら、アキは猛を見つめていた。頬にあった涙の跡は、消えている。


「怖い夢を見たの?」

 問うと、猛は小さく頷いた。マグカップから立ち上る湯気が猛の息で揺らいでいる。


「……お母さんが、僕を置いてどこかに行く夢を見たんだ。お母さんを探し回っていると、誰かに河に突き落とさるたんだ。凄く大きな河で、身体はどんどん流されて行くんだけど、河岸からお父さんは、腕を組んで黙って眺めているんだ。驚いている様子もなく、無表情で。伸也さんも、文子さんも、並んで僕が流れていくのを見ているんだ。流されながら、お母さんに捨てられたから、僕は邪魔になって河に流されたんだって思った。そしたら……」


 健太との話を聞いていたのだろうか。そう思い心臓がざわめいた。


「お母さんが猛を置いてどこかに行くわけがないでしょう」

 たとえ健太と別れたとしても、猛は自分が大人になるまでしっかりと育てるつもりでいる。その術も、身につけた。


 猛は、頼りなげに頷いた。

「分かってるよ。分かってるんだよ。だけどね……。急に不安になる事が、あるんだよ……」

 弱々しい声音に、息が止まりそうになった。


 猛を捨てようとしたことが、一度だけある。正人の元に置き去りにし、石狩川に身を投げようとした時だ。あの行為が未だに猛の心に残り、不安にさせているのだろうか。猛があの日の事を口に出したことは一度も無いから、忘れてしまったのだと思っていた。


「お父さんとお母さんがいる今が、消えて無くなるんじゃないかと思う時があって……。文子さんに嫌われてるのは知ってるけど、ここにいてもいいんだよね、僕達」

 縋るように猛はアキを見た。幼子のような視線に見下ろされ、アキは胸が潰れそうになる。


 猛の不安は、きっと自分のせいだ。不安定な母の心に繊細な猛が影響されているのだ。


 猛は答えを求めている。


 大丈夫だと言わなければならない。そう思い、唾を飲んだ。不安をたたえた瞳に、幼い頃の自分の姿が重なる。思わず胸に両手を当てる。


 お前は、母親と同様に、我が子を不安にさせているのではないか?


 問う声が、頭に響いた。その声に雷に打たれたような衝撃を感じ、息を詰める。


 そうかも知れないと、声に答えた。幼い頃に求めたのは安定した愛であり、生活であったと思う。気まぐれな愛情に翻弄され、見放される不安を常に感じていた。次に何時食べる物にありつけるか、飢えて死んでしまうのではないかといつも怯えていた。その原因は、一人の人間として軸を持たない母にあった。同じようになりたくなくて、一人でも生きていける力を身につけようとした。でもそれでは解決にならないのだと、本当は気付いていた。


 愛を知らない自分は、愛されることが怖かった。健太の愛情ですら、いつか手の平を返すように奪われてしまうと怯えていた。不安に耐えるのが辛くて、自ら断ち切ろうと思ったのだ。文子のことは、その理由付けに過ぎない。


 健太の愛が揺らぐはずは無いのに。


 母を捨てなければ。

 母の呪縛を捨てて、大地のような幸せに身を委ねればいいだけのことなのだから。


 アキは硬く瞑目した。

 黒く流れる河面から猛が顔を出し必死に手を伸ばしている姿が思い浮かぶ。アキは猛に向かって手を伸ばした。力の限り、身体を伸ばして。猛の手は遠く離れていて、届きそうにない。ならば飛び込んで猛のそばへ行き、一緒に泳いで川岸に戻ろう。

 そう思ったとき、アキの身体を何かが押さえた。

 健太が隣に立ち、アキを見つめて笑顔で頷いた。健太はグッと背を伸ばし、長い腕を猛に伸ばす。猛は安堵の表情を浮かべて、健太に向かってしっかりと腕を伸ばした。

 二人の指先が触れあい、手と手が触れあい、お互いにしっかりと握り合った。猛の身体は導かれるように河岸に向かう。猛の顔に笑顔が浮び、飛び上がるように河岸に姿を現した。健太は、猛と自分を大きな腕で抱え込むようにして、抱きしめた。


 ほんのつかの間に現われた空想は、アキの胸に熱を灯した。


 空想は、現実の象徴だとアキは思う。自分たちはいつも健太に支えられている。恐らく二人だけでいれば、急流のような現実の世界で溺れてしまうのだ。どんなに強くなろうとしても、この世界でしっかりと立っていることは容易ではない。健太という支えが居るから、自分も前を向いて生きてゆける。猛も安心して、成長してゆける。


 でもそれを、「依存」だと決めつける必要は無い。健太も自分を必要だと思ってくれている。自分の存在や、猛の存在が健太を支えても居る。その実感を日々感じているはずなのに、何を疑う必要があったのだろう。


 アキは猛の太ももに、両手を置いた。


「当たり前でしょう。お父さんとお母さんと猛は、家族なんだから」

 猛の太ももが弛緩した。緊張の糸を緩めたのだろう、頬の強ばりが解け口元が綻ぶ。良かった。そう呟いてミルクを啜る。その様子にアキも胸をなで下ろした。太ももから手を離すと、猛はモジモジと身体を捩り、背を丸める。


「おねしょのこと、お父さんには言わないで……」

 幼い子供のような仕草に、口元が綻ぶ。


「分かってる。二階に隠してあるから、大丈夫。明日コインランドリーで洗ってくるね」

「じゃあ僕、運ぶの手伝う」

「助かるわ。洗濯が終わるのを待っている間、どこかで美味しい物、食べようか」


 猛の顔が、ぱあっと華やいだ。


「お母さんと二人で外食するの、初めてだね」

 そうだったかなとアキは首を傾げる。外食した記憶を辿れば、いつもそこに健太がいる。二人で暮らしていた時にそんな贅沢は出来なかったし、悠人の農場で働き出してからも余分な出費は避けて来た。空手の昇級試験で札幌に出ることがあっても、お弁当を作って持っていく。


「じゃあ、ステーキでも食べよう。こう見えても、結構お母さんお金持ってるんだから」


 一人であなたを大学に通わせるつもりで貯金してきたけれど、そんな必要はないと気付いたから。目を丸くする猛を見ながら、心の中で呟いた。


 テーブルの上で、スマートフォンが震えた。


 健太からメッセージが入っていた。それを読み、思わず涙が出そうになる。

「お父さん、伸也さんを見付けて今樹々にいるって。二人とも無事だから安心してって!」

「良かった!」

 猛がはじけるような笑顔を見せた。

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