嫌な予感

 随分日暮れが早くなったものだと、裕人の農園からの帰り道アキは思った。今夜はまた、雪が降るらしい。


 女子旅の余韻がまだ胸に燻っている。心の垣根を少し低くして、普段出来ない話をした。自分はそこまで心を開けなかったけれど、二人にそっと一歩近付けた。そんな気がした。修学旅行って、こういうものなのだろうかと、ふと思う。


 健太と結婚しないのか、と、問われた。

 このままでいい、と、答えた。


 少し、嘘をついた。


 いつか、別れなければならないと、思っている。文子は自分の存在を認めない。それは、仕方のないことだ。元夫を一方的に頼ってきた女。身寄りがない人間。自分の何処どう切り取っても、胡散臭いと思われて当然だ。


 ましてや、もしも、過去の事件を知られたら。


 自分と別れても、健太ならすぐに素敵な女性を見つけるだろう。


 健太と別れて当別を離れ、どこかで住み込みの仕事を見つけたら良い。農家の仕事なら、それなりの稼ぎを貰える。どこでも雇ってもらえるように、大抵の事は出来るようになった。今、給料はほとんど貯蓄している。猛を大学に通わす位、何とかなりそうな程度はお金が貯まった。ただ、農家の手伝いをするならきっとそう便利な場所には住めないだろう。下宿生活を賄ってやるには、もう少し貯金が必要だ。


 もう少しだけ。

 アキは祈るように空を見上げる。折れそうな程細い月が、電信柱に隠れるくらい低い場所に、引っかかるように浮かんでいた。


 もう少しだけ、幸せを感じていたい。もう少しだけ。

 そしたら、残りの人生を猛の事だけ考えて、生きて行ける。

 

***


 ビニールハウスを覗いたアキは、瞬時に異変を察知した。既に日が暮れて気温が下がっているというのに、保温シートをかけていない。ほうれん草の栽培が自分の使命だと認識した伸也は、幸の散歩と同じくらい頻繁にほうれん草のハウスに足を運び、時間や温度をチェックして、必要な世話をする。それは過剰になることはあっても、欠かされることは無かった。


 そう言えば、今日は伸也の姿を見ていないような気がした。嫌な予感を抱きながら母屋の方を見ると、伸也の車がなかった。健太が何度も文子に、車の鍵を取り上げるよう進言したが、未だ伸也は車で出かける。この地域に住む者にとって、車は命綱だ。伸也も文子も現実を受け入れていないから、その命綱を手放す気など毛頭無い。


 胸騒ぎに突き動かされるように、小走りで自宅へ帰った。居間の座卓で健太は帳簿の整理をしていた。傍らのマグカップに三分の一ほど茶が残っている。それを見て、安堵の息を吐いた。まだ酒を口にしていないから、何かあったら伸也を探しに行ける。


 居間の入り口で立ちすくむアキに気付いた健太が、伸びをする。こういう事務仕事は性に合わないらしいが、まだ雪の少ないこの時期にやっておかないと痛い目に遭う。厳冬期に入ったら、昼夜無く除雪にかり出されるかもしれない。確定申告の時期になにも手を付けていなくて去年は悲鳴を上げていた。よっぽど懲りたようで、固い決意を胸に昼過ぎから机に向かっている。その偉業を褒めたい。


「なした?」

 首を回しながら、健太が問う。

「伸也さんが、車で出かけてるみたい。ほうれん草の保温シートかけるの、忘れちゃってる」

「ふうん」


 不思議そうな顔をしてから、健太はテレビを付けた。口に出してみると、そんなに大変な事態では無いと感じた。車で出かけるのはいつもの事で、たまたまそれがほうれん草の保温シートをかける時間と重なっただけのこと。大袈裟に考えた自分がおかしくなって、口の端を上げた。テレビではキャスターが火事の現場から火の元の注意を呼びかけていた。場面が切り替わり、古い校舎が映し出される。


『来春から札幌初の夜間中学が開校になります』

 先ほどまで深刻な声音だったキャスターが、晴れやかな口調でそう告げた。


「夜間中学」


 思わずキャスターの言葉を繰り返した。夜間高校や大学なら聞いたことがあるが、義務教育である中学課程を夜間行なうのは何故だろう。アキの抱いた疑問は、すぐにレポーターが解決してくれた。


『夜間中学は元々戦争の混乱によって義務教育を果たせなかった人々の為に作られた学校です。今では病気や家庭の事情など、中学を卒業していても実際に通学できなかった人や、不登校などの問題で学校へ通えない現役学生の学び直しの場として、期待されています』


 中学を卒業していても、実際に通うことが出来なかった人。その言葉にドキリと心臓が跳ねた。思わず画面に駆け寄る。


 自分の事だと、アキは思った。


 中学二年の十一月に家出をしてから、学校には通っていない。いや、中身を問えば小学校すらまともに行っていないのと同じだ。母は家に帰ってこず、時折投げ捨てるように置かれた千円札で餓えをしのがなければならなかった。命を繋ぐことしか、頭になかった。小学校で何を習ったのか覚えていないから、読めない漢字は沢山あるし、九九も怪しい。小五の息子よりもものを知らない事が恥ずかしくて仕方ない。学び直したい気持ちはあるが、実際にどうすればいいのか分からないでいた。


「アキ……」

 自分の名を呼ぶ健太の声に、携帯電話の着信音が重なる。健太はスマートフォンを手に取った。


 事務的な返答を数度繰り返した跡、健太の顔が険しく歪んだ。強張った声で「片桐伸也は自分の父です」と言った。心臓を雑巾のように絞られたような気がした。健太は眉間に皺を寄せたまま「はい、はい」と頷き、「分かりました」と答えて電話を切った。


 深い溜息をついた後、アキの方に顔を向けた。険しさも無い代わりに、蒼白になった顔から表情そのものが消えていた。


「アキ、悪いけど一緒に来てくんねぇか」

 抑揚の無い声で、健太は言った。


「三笠の交番に、親父を迎えに行く。車運転してて、迷子になったらしい」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る