二人三脚で森を彷徨っていた
錬の成功体験を聞いた健太は、自分もアキのカウンセラーになろうとした。しかし、アキには何故健太がいきなり過去の出来事を根掘り葉掘り聞こうとするのか理解できず、二人の関係が壊れそうになった。そこで健太と錬は佳音に泣き付いたのであった。
驚くことに、アキは問題が起きているという自覚がなかった。行為について記憶が無くなるのはいつもの事で、そう言うものだと思うようにしていたらしい。旭川でホステスをしていた頃、客の誘いを断ることが出来ず不特定多数の男性と関係を持っていた。断れば殴られると思い込んでいたからだが、いつも間の記憶がなく、気付けば家に帰っている。身体に残る感触は気持ちが悪いが、行為そのものを覚えていないから耐えることが出来たそうだ。
アキが「解離」という症状を呈することで、耐えられない事から身を守っているのだと佳音は気付いた。過去に受けたトラウマと似た状況になると、精神を正常に保つため、感覚や記憶を統合する力を一時的に失う。その現象が「解離」だ。危機的な状況は、意識から切り離されたところで起こるので、その間の記憶は残らない。
「解離」は誰にでも起こりえる事だが、アキの症状は病的だ。だから専門的な病院に通うなりカウンセリングを受けるなりするべきだと勧めたが、アキは拒んだ。恐らく文子に「頭がおかしい」というレッテルを貼られたくなかったのだろう。ただでさえ「どこの馬の骨か分からない親子」という偏見をべったりと貼り付けられているのに、「頭がおかしい」という一文がラベルに書き加えられる。そんなことをされたら、アキは健太の元を去ろうとするかも知れなかった。
自信は無かったが、佳音はアキと健太のために一肌脱ぐことにした。週に一度、嘗て錬にして貰ったように、アキの話を聞く。重大な決意の割に、出来ることは限られていたのだが。
アキは過去の事も現在のことも、自分の気持ちさえも口にするのが苦手だった。みんな未整理のまま抱え込んで不安に変えてしまう。
エピソードを語れば、それがどんな意味を持つことか客観的に捉えることができ、その時の気持ちを語ることで未消化なものを消化することが出来る。何度もそう伝えて、直近の何気ない出来事を語る事から始めた。牛歩のごとくゆっくりと記憶を遡り、やがて幼少期まで辿り着いた。
アキが旭川の市街地に母と二人でやって来たのが六歳の時。母親は男を作っていなくなり、育児放棄されていた。十四歳で家出するまでの時間は、常に飢餓との戦いだった。時系列は乱れていたが、次第に記憶の表面に現われたエピソードとその時の感情を、吐露できるようになった。
自分の感情を揺らさないように心がけながら、アキの感情の波を受け止める。二人三脚で暗い森を彷徨うようだった。進む方向も見えず、足元にどんな障害物があるかも分からない。アキが何かに躓く度に佳音は堪えて立ち、例え転んだとしても先に立ち上がってアキの手を取った。
幼少時代の出来事をある程度話し終えた頃、アキの口調は諦めに似た淡々としたものに変わった。そして解離は起こらなくなり、アキと健太はめでたく結ばれたのであった。
長いカウンセリングは、これで終わりだと思っていた。
「心の中にぐちゃぐちゃに押し込んでいるものを、一つ一つ取り出して、形を確かめて畳んで、名前を付けてしまうの。そうしないと、得体の知れないものは不安にしかならない。……もう、何度も実践してきたから、わかってるでしょう?」
佳音はアキに丁寧に言葉を伝えた。アキは顎先をふるわせるように小さく頷き、怯えに染まった視線を佳音に向けた。
「人形が見えたの」
意を決したように、アキが言った。佳音の背に冷たいものが走った。困惑するアキの顔を穏やかに見つめるよう努力しながら、アキが見たものの正体に思いを巡らせた。
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