序章 1

 元旦の朝は晴れ渡り、キリリと空気が冷えていた。


 どこまでも続く雪原からはもやが上がり、朝の光を乳白色に滲ませる。雪原を切り取る防風林は、樹氷によって銀細工の柵と化し、遙か彼方まで連なっている。ぽつりぽつりと佇む家屋は幻影ように白く霞んでいる。手を繋いで歩く自分たちも、同じように見えているのだろうと、美葉みよは思った。


 クリーム色のダウンコートは冷気から身体を守ってくれる。琥珀色のストールを幾重にも首に巻けば尚更。黒髪を耳付きのニット帽で隠せば完璧である。マイナスの気温も二桁となれば寒いとは感じない。潔く冷えた空気が肌を刺してただただ痛い。


 東京育ちの正人まさとは美葉よりも寒さに強い。常に底冷えのする体育館で過ごしているからだろう。仕事に熱中するとTシャツ姿になり、汗を流すことさえある。キルトの裏地が付いたコートを纏えば充分らしく、マフラーも帽子も身につけようとしない。鋭敏な感覚にとって、毛羽立つ物はチクチクと肌を刺激し、心地悪いらしい。だから、美葉は右手だけ手袋を外している。正人と手を繋ぐために。


 小学校の裏にある神社は除雪が行き届いている。石造りの鳥居を抜け、本殿へと進む。参道脇の低木は、既に雪に覆われて姿を消していた。本殿の前に立つと、正人は右手でズボンのポケットをまさぐり、小銭を取り出した。小首を傾げて「ふむ」と呟いてから、美葉に視線を向ける。美葉が左の手の平を差し出すと、その上に五十円玉を乗せた。


「今年は奮発して五重の縁です」

「正人さんは?」

「僕も、同じです」


 にこりと微笑むと、穴あきの硬貨を額の前に捧げ持つ。そして、恭しく賽銭箱に投げた。美葉も慌ててそれにならう。


 本坪鈴を振って鐘を鳴らし、柏手を二度打って頭を下げる。


 美葉は無病息災を祈る。自分と正人と父の分。そして少し欲が出て、商売繁盛も付け加える。自分の設計事務所と正人の家具工房、父の万屋。五十円にしては欲張りすぎたかと思ったが、よろしくお願いしますねと唱えて頭を下げ、目を開ける。


 案の定正人はまだ、目を閉じていた。


 賽銭が庶民的な値段の癖に、正人は毎年長々と願い事をする。何を願っているのかは聞いたことは無いが、そんなに欲張ってはいないと言い張る。欲張っているつもりは無いのだろうが、これを願えばあれもと数珠つなぎに願い事が出てきてしまうのだろうと、美葉は思っている。


 右の指先がつきつきと痛み、息を吹きかける。息は白く広がり、指に辿り着く前に冷える。ポケットから手袋を取り出して、赤くなった手に被せた。吸気と共に鼻腔が凍って張り付くので、ストールで頬と鼻を隠す。


 完全防備を整えて、正人の横顔を眺める。


 彫りの深い顔立ちは、氷の世界でじっと目を閉じていると本物のギリシャ彫像のように見えてくる。長めに揃えた坊主頭の髪は柔らかい茶の色。正人の母は生粋の北海道民だから、どこかでロシアの血が混じっているのかも知れないと時々思う。


 切れ長の瞳を縁取る睫に呼気が当たり、樹氷のような氷が張るのでは無いかと心配になる。それくらい正人は長い間微動だにせず祈りを捧げていた。


 いつにも増して、長い。


 追加料金払うべきかしら。あ、財布持ってきてない。後払いでもいいですか、神様。そんなことを考えつつ、チラリと社に目をやる。


 再び正人に目を移すと、その唇が微かに動いていた。ブツブツ唱えるのは小学校の住所。郵便番号と自分のスマホの番号も唱えている。


 神様にお願い事をするのに、どこそこの何某と身分を名乗るのは神様への礼儀なのだそうだ。蛇足ながら、郵便番号も電話番号も必要ない。正人は「願い事を叶えようとしても居場所が分からないと神様が探し回らなければならない。それはとても失礼なこと」という見解を今でも譲らない。


 正人がゆっくりと目を開ける。睫が凍る前で良かったが、鼻先が赤くなっている。真剣な眼差しを社に向け、一つ大きく頷いてから、勢いよく美葉の方を振り向いた。


「美葉さん、結婚してください!」


 突拍子も無い言葉に、美葉は目を見開く。そして、前にもこんなことがあったと思い返しながら、沸き起こる喜びに唇が綻んでいった。


「はい!」


 二つ返事で頷く。三年前に一度同じシチュエーションでプロポーズされたことがある。その時は正人の仕事が上手く行っておらず、美葉に会社員の平均年収と同等の給料を払えるようになってからなどの条件を付けた「いつか」を想定したものだった。


 もうあの時付けた条件は全てクリアした。だからいい加減もう一度プロポーズしてくれないかな、と思っていた。


 正人はほうっと安堵の息を吐いた。


「……断られると、思ったの?」

 思わず問いかけると、正人は困り顔で首を横に傾けた。


「断られるとは思ってないですけど……。やっぱり勇気が要りました。色んなお客さんの家具を作っていると、家庭を持つって責任がいる事なんだって実感するでしょ。だんだん自信が無くなって来ちゃって。でも、悠人に言われたんですよ。結婚して今と何が変わるんだいって。言われてみれば、もう既に生活を共にしているわけですから……。なら、男としてけじめを付けるべきだと決意いたしまして」


 ふん、と胸を張ると鼻からほわっと白い煙が広がった。笑うところじゃないけれど、子供みたいな仕草が愛おしくて微笑んでしまう。


「そうだね。お父さんもちょっと心配してたみたいだし。これで不便な半同居生活から完全同居生活に移行できるね。住むところどうするかとか、考えなきゃ」

「結婚式もです。美葉さんに花嫁衣装を着せなければ。駒子さんに叱られます」

「結婚式に呼ばないとだね、駒子さん。お爺ちゃんとお婆ちゃんにも紹介しなきゃね。正人さんのお爺さんにもご挨拶しなきゃね。それと、お父さんにも」


 瞬時に、福福と綻んでいた正人の顔が凍り付いた。


「……父は、いいです」


 そう言って、ふい、と顔を背ける。絶縁状態なのは承知しているが、実の父に結婚することを伝えないつもりかと驚く。


「良くないよ。私のお義父さんになるんだよ。ちゃんと挨拶しておきたい」

「嫌です。僕はあの人の顔を見たくない」

 怒りを顔に滲ませて、正人は大股で歩き出した。美葉はその後を追う。

「そんな子供みたいな事言わないで! この機会にお父さんと向き合うべきだよ」


「美葉さんには関係ない!」


 尖った声に驚いて美葉の肩が震えた。正人が声を荒げたのは、初めてだった。だが、正人の言葉と声音は美葉の怒りに火を付けた。


「関係ないって何よ! プロポーズしたくせに関係ないって!」

「僕と父の事です! 美葉さんには関係ありません!」

「あるでしょ! 大ありでしょ! 何言ってんの!」


「人の心に土足で入り込むな!」


 だん、と地面をならして正人が振り返る。切れ長の瞳が吊り上がり、顔が真っ赤に染まっていた。硬く握った拳が、胸の前に持ち上がる。


 殴られる!?


 一瞬そう思い、身を固くして目を閉じた。だが正人はくるりと背を向けて、大股で歩き出した。美葉はその場に立ち尽くす。背中を追いかけることは、出来なかった。

 

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