十一章

第46話



 新たな事実を伝えるためにも、どうしても司書長に会わなければならない。ワレスはアトラーを帰すと、自ら文書室へむかう。


「待ってください。夜間に一人は危険ですよ」


 ハシェドが自分の分隊長のマントをつかみかける。が、思うところあって、それを制した。


「いや、ハシェドはおれの代理として残ってくれ。クルウ、来い」


 カークが来てから数日ぶりに、クルウと二人きりになった。数日どころか、あの不適切な関係があったあと、クルウをさけていたので、二人きりになるのは半月ぶりかもしれない。


 ひとけのない本丸の廊下まで来ると、クルウのほうから言いだした。


「お供が私でよかったのですか?」

「おまえに話がある」

「でしょうね。近ごろのあなたは、私と言葉をかわすことさえ、さけていた」


 クルウの語調にはトゲがある。やはり、ワレスを恨んでいるのだろうか?


「おまえ、あのときのこと、後悔しているんだろう?」


 クルウは皮肉に笑う。


「後悔しているのは、あなたでしょう?」

「もちろん。おれは悔やんでいるよ。おまえを敵にまわすべきじゃなかった」

「なぜ、私が敵だなどと思うのです?」


 薄暗い廊下。人影はない。壁ぎわに追いつめるように、クルウが迫ってくる。ワレスは用心深く、あとずさった。


「おまえ、自分で気づいていないのか? 近ごろのおまえの目つき、おれを殺したいほど憎んでるみたいだ」


 クルウはアルメラ大公家に仕える騎士だった。冤罪で身分を剥奪はくだつされ、故郷を追放された。だが、その原因となった恋人エンハートも死んだ今、ゆるされるならアルメラの宮中に戻りたいはずだ。

 もし、アルメラ大公を通じて皇帝から依頼を受ければ、免罪を条件にやりおおせる。それだけの力量がクルウにはある。ワレスの存在じたいが、うとましいだけのものになったなら……。


 すると、神殿のレリーフのように騎士らしく整ったクルウのおもてに、どこかさみしげな笑みが宿った。


「あなたは私に対しては、あいかわらず、とんまな疑いをかけてくれますね」


 誰がトンマだ——と、食ってかかるより早く、クルウの手がワレスの肩をつかみ、柱と出窓のすきまに押しこめられる。乱暴に抱きよせられて、本気で命の心配をしたのだから、たしかにクルウの言うとおり、トンマだったかもしれない。クルウはそのまま、いつもの彼らしくない荒っぽいキスをした。


「……あなたが妬かせるからだと、どうして思わないのです?」

「だって……おまえの愛してるのは、エンハートだろう? おれは彼の身代わりだった」

「そこが誤解の原因ですね」


 ふたたび、クルウは唇を押しつけてきた。今度のキスは洗練された、いつもの彼のものだ。


「もちろん、エンハートは最愛の恋人です。だからといって、あなたを愛さない理由にはならないでしょう?」

「エンハートのあとを追って自分も死ぬとまで言っていたくせに、ずいぶん切り替えが早いな」

「エンハートと再会する前に、すでにあなたを愛し始めていたのだと言えば?」

「それは……」

「あなたとエンハートは似ていますよ。人に言えない苦しみをかかえているところがね。そんなあなたに私が惹かれないわけがない」


 クルウは真剣だ。ワレスの体をかるがる抱きあげると、出窓のふちにすわらせる。窓からの月光がクルウのおもてに美しい青い陰翳をつける。


「あなたには分隊長さえいればいいのだとわかっているが、このごろは、胸苦しい。あなたがたがわかりあったように微笑みをかわすのを見るだけで」


 クルウの手がワレスの足をささげもち、革靴と衣服のあいだの素肌に接吻した。


「何年でも待ちます。あなたの心が私にむくまで。だから、少しだけでいい。私のことも必要としてください。そうすれば、私はあなたのために全力でつくします」


 クルウの気持ちが嬉しくないわけではない。見ためもキレイだし、思慮深く、芸術を解し、武術にも秀でている。どこをとっても一流の男だ。ハシェドがいなければ、彼を支えに思ったかもしれない。しかし、今のワレスには、自分の運命をつかさどる神からハシェドを隠すことで精一杯だ。この上、クルウの安全まで考えてはいられない。


(これまで、おれが本気でない相手は犠牲にならなかった。でも、ミスティやダディーのように、恋人ではなくても、おれが存在を受け入れたために死んだ人もいる)


 父のように慕ったダディー。ワレスのすべての過去をゆるし、特別な存在になったミスティ。二人ともだった。

 クルウといると、ときどき、彼らといたときのような安心感を得られたのではなかったか? クルウの落ちついたふんいきや、安定した精神。深い知識。統率力。頼りにしていたのはたしかだ。


 クルウの手が足の上をすべり、唇がふれあう。クルウの愛撫はたくみなので、そうされると、以前、重なりあったときの感覚がよみがえった。ワレスは彼に身をゆだねてもいい気になりつつある自分を叱咤して、押しかえす。窓枠をとびおりると、クルウとむきあった。


「いいか? これは命令だ。これから一ヶ月のうちに十人の恋人を作れ。そのなかで一番、愛しいと思うやつを選んで大事にするんだ」

「なぜひと月で、十人なんです。とうとつすぎやしませんか?」

「おまえはエンハートを失って、さみしいんだよ。だから、ちょっと似たところのあるおれに血迷っているだけだ」

「だからって、むりやり恋人を作っても、気持ちが変わるわけではないでしょう。そこまで浮ついた思いではありません」

「おまえのそういう冷静なところは嫌いじゃないが、それはあくまで部下としてだ。勘違いするな」

「さっき、力づくで犯してしまえばよかった。つれない人だ」

「いいから、言われたとおりにしろ」


 クルウは肩をすくめる。

「そこまでおっしゃるなら、従います」


 ちょっと怒ってはいるようだ。しかし、本人は何年でも待つなんて言ったが、新しい恋人ができれば、心持ちも変わるに違いない。


 そのあとは黙々と歩く。おそらく、クルウはワレスの背中へ静かに呪詛を送っている。その成果だったろうか? 文書室の扉をあけたワレスは絶句した。


 これはいったい、どうしたことか?

 文書室は誰一人いない無人だ。長卓にも、書架のあいだにも、司書たちの寝室にも、ネズミ色の集団は見えなくなっていた。

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