九章

第38話



 翌朝。ワレスが気づいたときには、あたりはすっかり明るくなっていた。昨日はけっきょく、ハシェドになぐられて気絶してから、ずっと眠っていたらしい。


(たしかに連日寝不足で、疲れていたのは事実だった)


 しかし、もちろん、枕元にさしてあった針のあとや、カップに混入した毒は夢ではない。誰かが、ワレスを狙っている。


 ハシェドやクルウが朝の支度を始めていた。が、何かが変だ。どこがと言われても困るが、いつもとは何かが違っている。しいていえば、彼らの姿が水中にあるように、どこか遠い。


 しばらくすると、ミレインが起きてきた。

「小隊長はまだ眠っているのか」


 いえ、起きていますと言おうとして、おどろく。声が出ない。それどころか、体が動かない。金縛りだろうか? あせっているうちに、ミレインがハシェドに声をかける。


「分隊長」


 以前、ワレスがプレゼントしたおそろいの櫛で、もつれやすい巻毛をといていたハシェドが、ベッドからおりてくるミレインをふりかえる。つまり、ワレスの位置からはハシェドが背をむけた形になるのに、なぜか、その困惑した顔が真正面から見えた。


(なんなんだ? いったい、どうなってる?)


 ワレスの焦燥をよそに、下までおりたミレインは続ける。


「すまなかった」


 てれくさそうな彼の顔を、ハシェドがポカンと見る。急に謝られても見当がつかないのだろう。ますます、ミレインはバツが悪そうになっていく。


「……初めて会った日だ。どうも私はそなたに礼を欠いた態度をとったらしい。すまなかった」


 ハシェドはぼうぜんとしていたが、気をとりなおすと、人のいい笑顔になった。せっかくキレイにとかした髪をくしゃくしゃにかきまわす。


「そんなこと、忘れてましたよ」


 ハシェドの人なつっこい笑みは、いつもワレスをメロメロにとろけさせる。その効果はミレインにもあった。つられたように、ミレインも笑う。その微笑は彼が砦に来てから初めて見せる心からのものだった。


(なんだ。いい顔で笑えるんじゃないか)


 微笑ましい気持ちで和解した二人を見ていたが、そのとき、無作法にノックもなしで扉がひらき、アクビしながらロンドが入ってきた。


「おはようございまーす。一晩中、患者の看病で疲れましたよ……って、ワレスさん、まだ寝てるんですか? ご報告があるのに」


 ロンドはいつものフードを外している。だから、アクビも見えたのだ。ワレスより繊細で女性的なその素顔を見たとたん、ミレインがギョッとした。まじまじと凝視する視線に、ロンドは気づいていないのか、まっすぐワレスの寝台に近づいてくる。


「ふっふっ。わたくし、ワレスさんが起きてくるまで、ひと眠りしますので、どなたもジャマしないでくださいね」


 ワレスのベッドに入る気だ。冗談じゃないと思うが、なにぶん、声が出ない。金縛りにかかったまま、おぞましい亡者が近づいてくるのを見ているような恐怖にかられる。


「ダメだよ。ロンド。きっと隊長が怒る——」


 ハシェドがとめたときには、もうサンダルをぬいだロンドがいそいそとワレスのとなりにもぐりこんでいた。


「ああ……寝顔もステキ。ワレスさま」


 抵抗がないのをいいことに、ロンドはワレスの頭を両手ではさんで、そのまま口を近づけてくる。

 ワレスの声にならない悲鳴と、誰かの叫び声が重なった。ミレインだ。


「グ……グレウス・ル・ドラマーレ!」


 ギャッと魔物が日の光をあびてちりになっていく瞬間のような声をあげて、ロンドがワレスの頭を枕の上に落としたので、ハシェドやクルウも悲鳴をあげた。

 つかのま、ワレスの部屋は阿鼻叫喚に包まれる。


「わあっ、隊長! 大丈夫ですか?」

「いーやぁーッ。わたくし、グレウスなんて知らなーい!」

「しっかりしてください。隊長。なんで目をあけないんです!」

「打ちどころが悪かったんじゃないですか?」

「見間違えるものか! 第一校きっての秀才で、全校生徒の憧れの的だった。ドラマーレの少年伯爵。天使の歌声を持ち、武芸も堪能。かくいう私も憧れていたのに……あのドラマーレが、まさか、こんな姿に……」

「ドラマーレ、ドラマーレって連呼しないでくださいよ。イヤだ! おうちに帰りたくないー。ここにいるってバレたら、絶対、つれもどされてしまうぅー」

「ワレス隊長! 目をさましてください。こんなにさわいでるのに、なんで起きないんですか?」


 好きほうだいにわめいていたが、一人離れていたセザールが、遠慮がちに口をはさむ。

「小隊長のそれ、例の眠り病じゃないですか?」


 とたんに全員、蝋人形のようになって、室内は静まりかえった。


 ちょっと待て。おれは起きてるぞ。おまえたちのやってることも見えてるんだからな——と、ワレスは伝えようとして、ふと思う。


(いや、たしかに見えているが、声が出ない。体も動かない……)


 そういえば、さっきから感じていた違和。ワレスの視点はまるで空中を飛ぶように、そのへんをただよっている。眠っている自分の体が真下に見えていた。


《ロンドッ!》


 思念をこらして呼ぶ。

 顔をあげたロンドと目があった瞬間、彼はなんともなさけない声を出した。


「ああ……ワレスさまが亡霊に……」

《バカ! 勝手に殺すな!》


 しかし、思念での声は魔法使いではないロンド以外には聞こえない。ロンドのようすを見て、ハシェドが首をかしげた。


「ロンド? 隊長がどうしたんだ?」


 ロンドはワレスにとって目をそらしたかった現実を告げる。

「あそこに浮かんでます。精神体になって、ぷかぷかと……」


 そう。今朝からすべてが変だと思えば、ワレスは肉体と精神が分離してしまっているのだ。


 ハシェドが頭をかかえて、虚脱したような声をしぼりだす。

「う……嘘でしょう? 先月は小人。そして今日には幽霊……」


《死んだわけじゃない。夢を見ていたんだ。覚醒時に手違いがあったんだろうな。怖いくらい、どこまでも体がかるくなって——気づいたら、こうなってた》


 ロンドもこめかみを押さえている。


《おい、ロンド。おれは死んだんじゃないよな? なんで、こうなったんだ?》


 ロンドのことだから、どうせわからないと思いつつ聞いてみた。だが、今朝のロンドは一味違う。真顔になって、霊体と肉体のワレスを見くらべる。


「まさか、あなたが夢魔にやられるなんてね。それを伝えに来たっていうのに」

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