第36話
薄暗い廊下が続いている。
ワレスは大声で、ミレインを呼んだ。
「カーク! どこにいるんだ? カーク」
かたわらの扉が一つひらいて、少年ミレインが顔を出す。ずいぶん、迷惑そうな顔つきだ。
「こんな子ども時代の夢に出てくるなんて、反則じゃないか。小隊長」
さっきの父親のように、カークにもワレスが見えなければどうしようと考えたが、その心配はなかった。ふつうに話しかけてくる。
「なぜ来たのだ?」
「迷ったんだ。おれも来たくて来たわけじゃない」
ミレインは嘆息した。顔つきも体格も少年だが、口調は立派にミレインだ。
「あきれたろうな。いつも、いばりちらしている私の実態がコレなのだからな」
「別に、それぞれ事情はあるだろうさ」
「ふん。おまえはいいさ。平民なんだから。貴族に生まれて金のないことが、どれほど虚しいか。いつも父上は体面ばかり気にするが、あんなのは言いわけだ。ほんとは私のことなどどうでもいいのだ。父上も、母上も、愛しているのはマレーヌだけだから」
「ふうん」
「信じられるか? けっきょく私は今にいたるまで、正式には初狩りの儀式をしていないのだぞ。周囲には嘘をついて、十五のとき、内輪ですましたと言ってあるが……そのころには、父母はなんとかしてマレーヌを学校へ入れてやるのに手いっぱいだった」
「じゃあ、さっきの話の手術は成功したのか」
「そんなのは成功したって、たいした違いはない。どっちみち、マレーヌは十三で死んだ。もともと体じゅうに欠陥があったんだが、とくに問題なのは心臓で……十五までは生きられないと医者に言われていた」
「なるほど」
子どものミレインは居間の出窓に腰かける。両肘を自分の足に置いて、両手にあごをのせた。子どもっぽい仕草のせいか、今日のミレインにはイヤミも思いつかない。
「いつも私は父上や母上に好かれるよう、勉強もがんばった。ワガママも言わなかった。よその子のように誕生パーティーをひらけなくても、文句を言わないだけじゃない。うちにゆとりがないのは知っていたから、最初から友人を作らなかった。友人を作れば、パーティーをひらかないわけにはいかなくなるからな。貴族のつきあいというのは、たとえ子どもであっても、えらく金がかかるのだ」
「そうだな」
「……ああ、そうか。学校に行っていたんだったな」
「少年時代、貴族の家で養われていた。その家には同い年の息子がいたからな」
「では、そのころに見かけたのかもしれないな。なぜか、おまえの顔に見おぼえがある」
「おれにはない」
ミレインは首をふった。
「思いだせない。でも、どこかで」
「まあ、いいさ。これは夢だ」
「ああ、そうだな。夢だ」
夢だと思う安心感のせいか、ミレインは
「だから、私は友人を一人も作らなかったのに、ほんとはルームメイトとももっと話したかった。ほかの部屋の者たちがそうだったように、うちとけて、恋の悩みをうちあけたり、勉強を教えあったり。そなたみたいに恋文をもらうほどでなくていいから、クラスでも、もっと……」
ミレインの両目に涙が浮かんでくる。
「だから、あのとき、あなたは気分を害したのか。クラスメイトとキスの一つもしたことはないのかと、おれが言ったとき」
「あれは私には、そなたが人気者だったと自慢しているように聞こえたぞ」
「そんなつもりじゃなかった。気のない相手に追いまわされるのは、わずらわしいだけだし」
「友達を作りたくても作れなかった私とは反対の悩みだな。それでも、私は我慢したんだ。父上は度重なるマレーヌの手術代を工面するために、代々所有していた地所を売っていたからな。ばくだいな収益のあがる果樹園まで。それなのに、マレーヌときたら、学校に入った最初の年に、仲のよい友人を何人もつれてきて、あれほど私が我慢した狩りを……むろん、マレーヌは見ているだけだったが」
ワレスは気づいていた。ミレインは口先では初狩りの儀式についてしか言わない。が、貧乏を嘆いているわけじゃない。ほんとに嘆いているのは、両親に愛されない事実なのだ。
「弟が憎いのか?」
たずねると、ミレインはぼんやりと外をながめる。
「憎かった。どうせ死ぬマレーヌのためには、両親は莫大な金をかけるのに……クラス全員を招いての誕生会や、死ぬ前にやりたいことを、全部させてあげたいのだと……」
ミレインが少年の姿には不似合いな疲れた笑い声をこぼす。
「弟が死んでまで、父は神殿にマレーヌそっくりの像を寄付するつもりだったんだぞ。家宝の宝玉をすべて埋めこんで。私が使っているブックケース。あの石も渡してくれと父は言った。そのころには、私は学校を卒業して官職についていた。嫡男の権限で父のこの暴挙をとめさせた。そんな金があるなら、失った地所を買いもどすのが先決だからな。親族会議をひらき、私は父の侯爵家における決定権をとりあげた。今は侯爵の名だけ持って隠居暮らしをしている。父は今でも、あのときの件を恨んでいる」
ワレスはミレインのよこ顔を見つめた。
「あんたの両親は、なんでそこまで弟を可愛がったんだ? 病弱でかわいそうだったからとはいえ、いきすぎだな」
「見ためが愛らしかったからだろう。こんなふうに話していると、青白い顔のやせほそった亡者みたいな子どもを想像するだろうが、そうではなかった。母によく似た少女みたいな顔立ち。麦わら色の髪。空色の瞳。たいていの人はマレーヌに微笑みかけられるだけで、彼を好きになった」
ワレスの脳裏には、ルーシサスの姿が浮かんだ。まるで聖堂のフラスコ画の天使みたいだったルーシサス。その笑みには独特の魔法が存在していた。
ミレインは続ける。
「だが、私が悔やんでいるのは、それじゃない。どうせ彫像なんて形だけだ。寄付したからって、マレーヌがほんとに死後の世界で安息を得られるかどうかなんてわからない」
「その考えには、おれも賛成だな」
ミレインは笑った。
「今日の小隊長は話しやすいな。いつもこうだと、ありがたいのだが」
「それは、あんたの態度による。じっさい、あんたは必要以上に高飛車だよ。まあ、おれも
「私は友人も作れなかったし、人とのつきあいが不得手だ。少年時代の劣等感があるので、とりわけ人前では貴族のプライドをくずすまいと尊大な姿勢をとってしまう。しかし、それは私の弱い心の裏返しだ」
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