八章

第35話



 見知らぬ貴族の邸宅が見える。田舎領主の城というよりは、皇都または州都の邸宅街にあるらしき洒落た造りだ。周囲のふんいきから言っても、皇都ではないかと思う。


 ワレスが立っているのは前庭だ。新芽の伸びかけた植えこみも、花の時期がすぎてまだほっとかれている花壇も、どことなく手をかけられずに放置されているふうだ。瀟洒しょうしゃな館にはそぐわない。最近に家の主人が変わったか、あるいは急に主人の財産が傾いてきたか、そんな気配を匂わせていた。


 ワレスは館にむかって歩いた。窓から見えるなかのようすは、思ったとおり、妙にガランとしている。壁紙にうっすらついた日焼けのあとは、そこにあった絵を外したからだろう。飾り台の上にも本来なら彫像や花瓶が置かれているはずだ。こういう屋敷はたまに見る。おそらく、生活に困って、家財道具を売っているのだ。


 いくつかの窓の前を通りすぎたあと、ワレスは人影を見つけた。書斎に四十がらみの男と十三、四の少年がデスクをはさんでむきあっている。


「父上! ひどいじゃありませんか。約束が違いますよ。ぼく、もう、みんなに言ったのに。次の春休みには初狩りの儀式をするって」


 父親は息子に責められても、ため息ばかりをついている。


「わかってくれ。今度また、マレーヌが大きな手術をするのだ。これさえ成功すれば、ふつうの子どものように歩けるようになると、医者が言うのだ」

「でも、ぼくの狩りは——」

「これが最後だ。今度の手術さえうまくいけば……」

「父上はズルイ! 去年だってそう言ったよ。ぼく、成人してもう二年もたつのに。クラスで初狩りをしてないのなんて、ぼくだけだ。だから、狩りに誘われても、ぼくは行けないんだ。ぼくらの年で狩りに行けないなんて、誰とも遊べないってことだよ」


 これを聞くと、父親は急に語調を変えた。


「遊び? マレーヌは遊びたくても遊べないんだぞ。小さなころから寝たきりで。おまえは自分の弟がかわいそうじゃないのか?」

「そりゃ、マレーヌはかわいそうだよ。でも、ぼくだって、子どもどうしのつきあいがある。いつだって、ぼくは我慢、我慢。父上はぼくのお願いを聞いてくれたこと、一回もない」

「だから、今度の手術が終わるまで待ちなさいと言ってるだろう。ワガママもたいがいにしなさい」

「ワガママ……」


 少年はショックを受けたようだ。


「……こんなに我慢してるのに、ワガママだなんて。父上がほんの一日……半日でいいから、ぼくと森へ行ってくれたら、それでいいんだ。狩りのあとの宴とか、そんなことはぜんぜんなくても。声変わりして二年もたつのに、まだ成人の儀式をしてもらってないなんて、ぼく、恥ずかしいよ」

「それはならん。おまえは由緒ある侯爵家の嫡男だ。初狩りの儀式は男子を正式に成人と認める、一生のうちでもとくに大事な儀式。やるなら相応の体面を整え、親族を招き、盛大にお祝いをしなければ。しかし、今度の手術はひじょうに難しい。今までの比ではないほど費用がかかるのだ」

「もういいよ! 父上のわからずや!」


 泣きながら少年は書斎をとびだす。父親はため息まじりに、わが子の背中を見送るばかりだ。どうやら金策に困っているらしい。


(あの少年。ミレインだな)


 まだ骨組みが変わる前で顔立ちは幼いが、見まちがうほどではない。それに、ミレインの弟の名前はマレーヌだった。

 まだマレーヌが生きているころのようだ。さっきの一件で、当時のミレイン家の内情はだいたいわかる。つまり、病弱なマレーヌの治療費で侯爵家の財政は逼迫ひっぱくしている。跡取り息子の成人の儀式すらできないほどに。


 ユイラ貴族は生まれてから死ぬまでのあいだに、かなりの儀式をおこなう。なかでも個人の三大儀式がある。成人を祝う儀式、結婚式、葬式だ。

 成人の儀式は男子の場合、初めて狩りへおもむき、獲物をしとめる。今では形式だけになっているが、戦乱の時代にはその子どもの戦士としての力量を示す大事な場だった。ユイラではこの儀式をする前は結婚もゆるされない。嫡男であれば、爵位を継げない。すませておかなければ、現実問題として障害になる儀式である。


(病気の息子をなんとかして助けたい親心もわかるが……)


 貴族の子弟にまじって皇都の騎士学校で学んだワレスには、一生を左右するといっても過言ではない初狩りの儀式を二年も延期されているミレインが、学校でどれほど肩身のせまい思いをしているのかもわかった。


 アウティグル伯爵はルーシサスがほかの子よりかなり遅れて十五で声変わりしたときには、それはもう有頂天だった。その日のためにルーシサスが生まれたときから、すでに支度が始められ、長い年月と手間をかけて作られた儀式用の馬具に、細工も刀身も極上の剣。遠くブラゴールからとりよせた名馬。親類はもとより、ルーシサスの学友全員や侍従たちの縁者など、ありとあらゆる知人が招かれたパーティー。

 貴族の親なら、それをしてやるのがあたりまえだ。愛情はもとより、跡継ぎが大人の男になり、婚姻できるということは、一族の繁栄を祝うのと同義なのだ。


 興味にかられて、ワレスは少年ミレインのあとを追った…そのために窓から書斎へ入りこまなければならなかったが、ため息ばかりついているミレインの父は、ワレスにまったく気づかない。姿が見えていないようだ。


「ミレイン? どこだ? おい?」


 いや、ミレインはファミリーネームだ。ミレインの家族は全員ミレインだから、ここで呼ぶならファーストネームでなければならない。


(なんといったかな? マレーヌは弟だから。たしか……カーク。カーク・ル・ミレインだったな)

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