第25話

 *



 その夜——

 時計がないので、正確な時間はわからない。ワレスたちが仕事を終えて一刻ほどのちだから、すでに真夜中だ。


「そろそろ寝るか」


 バルバスの件の報告書を書きおえたワレスは円卓の席を立った。まだクロスワードパズルをいじっていたハシェドは待ちかねたようすでペンをなげだす。


「寝ましょう。寝ましょう。明日になれば何か思いつくかも」

「まあ、そうだな」


 ワレスが中間報告書を棚にしまうために書机へ歩いていくと、一人離れてペンをにぎっていたミレインが、あわてて冊子を閉じた。皮表紙のキレイな装丁だが、タイトルの金文字が押されていないので、日記か何かだ。


 ミレインは怒ったような顔をしている。

「なんの用だ?」

「報告書をしまうのですよ」


 書棚はデスクのすぐよこにある。

 ミレインは不機嫌に眉をしかめた。よほど、ワレスに見られたくない内容を書いていたに違いない。

 ワレスは書棚の鍵をあけて報告書をしまいながら、さぐりを入れてみた。


「日記ですか? ミレイン卿」


 ミレインはペンを片づけ、インクつぼにフタをし、その上、日記を革のブックケースに入れて鍵をかけた。目をみはるような大粒の魔血珠デビュールを尻の部分に埋めこんだ蜘蛛のデザインだ。魔血珠は希少石だ。あの一粒でワレスの一年ぶんの稼ぎより高価に違いない。そう思うと、命をはって傭兵をしている自分がバカみたいに思える。まったく貴族ってヤツは……と、心中でつぶやく。


「まだお休みでないなら、明かりをつけておきますが?」

「いや、もういい。砦で見聞きしたことを忘れぬよう、その日のうちに書き記しているのだ」


 妙に言いわけくさい。ミレインはブックケースを持ったまま二段ベッドの上段へのぼっていった。寝るときも日記を離さないらしい。


(どうせ、おれの悪口でも書いてるんだろ?)


 それとも、いちおうほんとの視察らしく見せるために体裁をとりつくろっているだけなのか。


 ワレスは丸テーブルのランプだけを残して、すべての明かりを消す。そして、それとなく枕や布団の内側を確認してから寝具に入った。


 それぞれ、おやすみのあいさつをかわし、全員が布団にもぐりこむと、すぐに静かになった。傭兵は寝つきがいい。またたくまに、ハシェドやクルウの寝息が聞こえる。新米のセザールも疲れていたのか、まもなく眠りについた。


「……小隊長」


 小さな声で、ミレインが声をかけてくる。

 ワレスが半身を起こして、見ると、二段ベッドの上からミレインが見おろしていた。彼は戸惑ったような顔をしていたが、首をふってよこたわる。


「いや、なんでもない……」


 昨夜の夢をミレインも見たのだろうか?

 まさか、そんなはずはない。あれはほんのぐうぜんだ。夢を他人と共有するなんて、ありえない。

 そう思うのに、眠るのが怖かった。近ごろ毎晩、夢見が悪くて……。


 ところが、目を閉じたとたんに、ワレスは寝入っていた。とつぜん、あたりがまぶしくなって、夢のなかにいた。


「ワレサレス」

 遠くで自分を呼ぶ声がする。

「ワレサ。いるの?」

 アルシスだ。

 古い書物ばかりが保管された屋根裏部屋は、天窓からの光で意外なほど明るい。

 幼いワレサに夢中でくちづけていたエリアム神官は、その声に気づいて、残念そうにその手を離した。


「あなたを呼びにきたのですね。しかたありません」


 神官は未練げに長いため息をついた。が、ワレサはのんびりしていられない。アルシスが探しているということは、マイルーザが呼んでいるのだ。大急ぎで乱れた衣服を整え、古書室に続くハシゴをおりた。古書室は広く、書架がところせましとならんでいる。ワレサがハシゴをおりる姿は誰にも見られなかっただろう。もっとも、この第二書庫には、もともと、ほとんど人は来ない。


「アルシス? 呼んだ?」


 アルシスは古書室の扉を閉めて出ていくところだった。走りよるワレサにおどろいている。


「なんだ。いたの。ワレサ。すみにいたから気がつかなかったのかな? 第一書庫にもいなかったから、どうしようかと思った」


 二つ年上のアルシス。ワレサと同じ、神殿長に仕える近侍だ。ワレサが見つかって心底ホッとしている。もし見つからなければ、自分が罰を受けるかもしれないから、それは安堵もするだろう。


「習った古語のわからないところを調べていたんだよ」

「マイルーザさまがお呼びだよ。すぐに行かないと」

「うん」


 ワレサレスは八歳。先日、人さらいに捕まりそうになって、このレイグラ神殿へ逃げこんだ。ワレサはみなしごなので、そのまま保護され、神官見習いになった。ここなら大人になって他人よりいい仕事(できれば官吏がいいとワレサは思う)につくための勉強もできるし、食べ物の心配もいらない。何より、人さらいや無法者を恐れて、いつもビクビクすることもない。

 最初はこの幸運をとても喜んだ。が、今では後悔している。幸運どころではない。とんでもない不運だ。清潔そうに見えた神殿が、こんなに冷たい鎖でがんじがらめの牢獄だと知っていたら、ぬきさしならなくなる前に逃げだしていたのに。


 神官や聖職者が神聖だなんて幻影だ。彼らだって人間だし、人であるかぎり、食欲や睡眠や生理的欲求がある。ただ生涯を神にささげた神官や巫女は、異性にふれてはいけない。ふだんはその欲求を抑えているにすぎない。

 だから、神殿で養育されているワレサみたいな孤児は、禁欲のはけぐちにちょうどいいのだ。まあ、おかげでワレサにとっては、いい小遣いかせぎになるのだが。たいていの神官は甘いお菓子や銀貨をくれた上で、ちょっとワレサの体をなでさするだけで満足する。可愛いものだ。神殿の外の暴力的な男にくらべたら、ぜんぜん、へっちゃら。むしろ、大歓迎。


 しかし、問題は彼らではない。

 ワレサはアルシスと二人で神殿長のマイルーザの身のまわりの世話をしている。特別な儀式以外は、一日のうち数刻の勉強の時間だけが、ワレサにあたえられた自由時間だ。


「午後の勉強時間は終わったの?」

「うん。今、帰ろうと思ってたところ。神殿長はなんて?」

「聞いてないけど、大事なことみたいだよ」

「ふうん」


 あれこれ思いおこしてみても、今のところ、マイルーザに罰されるような規則違反をしている心あたりがなかった。とはいえ、さっきみたいな神官との情事がバレたら、マイルーザは怒り狂うだろう。


「まだ昼食には早いはずだけど、遅刻したのかな?」


 遅刻ぐらいなら、せいぜい棒で手のひらをたたかれるだけだ。恐れることはない。だが、アルシスは首をふった。

 二人は白大理石造りの荘厳な神殿のなかを、マイルーザの待つ奥の間へむかった。

 豪奢な牢獄。

 囚われの神殿長が暮らす、モグラ穴みたいに薄暗い……。


「遅かったな。ワレサレス」


 両扉をひらくと、室内にはしんきくさい薬香がたかれている。その匂いが空気ぬきの窓をおおうためにひかれた壁じゅうのビロードにしみついている。昼でも暗いの内から、白い悪魔がワレサを見ていた。

 レイグラ神の申し子。赤い目の、アルビノの悪魔。

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