第23話
*
ワレスが自室に帰ると、ハシェドが一人で書きものをしていた。入口に背をむけ、頭をかいたり、ペンの軸をかんだり、だいぶ苦戦している。近づいてみると、ワレスがハシェドのために作ったクロスワードパズルを解いているのだ。
「調子はどうだ?」
声をかけると、ぐるりとふりかえり、泣きべそをかいた子どもみたいに笑う。
「難しすぎますよ。とても一人じゃ解けません」
「まちがいやすい似た単語ばかり使ったからな。だが、今のおまえなら、それくらいは解ける」
「そうですか?」
「ユイラ語とブラゴール語は文法も同じだし、スペルも似たものが多い。ブラゴール語はアルラ語の親戚みたいなものだからな」
「でも、おれ、アルラ語なんて知りませんよ」
「アルラは古代、ユイラの姉妹国だったんだ。だから、ユイラと共通する文化が多い。ブラゴール語はアルラ語から派生しているからな」
「隊長はなんでもご存じですね」
自信なさげにペン軸をくわえてブラブラさせているが、このところ目に見えて上達している。今まで仕事終わりから就寝までの数刻は、ハシェドにユイラ語を教えることについやしていた。まもなく、その時間があいてしまうと思えば、少しさみしい。
「ところで、おれがいないあいだ、何もなかったか?」
「とくにはありません。ミレイン卿が帰ってきたので、クルウが食事につれだしました。そのあと、誰もこの部屋に来ていません」
「それならいい」
昨夜、ワレスが眠っているときに刺さらなかったのだから、枕に仕込まれていた針はすでになくなっている。おそらく、不審に思ったバルバスがぬいてしまったのだろう。犯人がそれを回収に来ないかと、ハシェドを残しておいたのだが……。
(昨日のどさくさまぎれに処分されてしまったか)
ミレインは昨日、バルバスの遺体が見つかったとき、室内にいた。あのときなら、いくらでも人目につかず針を始末できた。
考えこんでいると、ハシェドがたずねてきた。
「隊長。いやに長かったですけど、本丸で何かあったんですか?」
「ああ」
近衛隊で起きた事件を説明する。
「それで、おれの用事どころではなくなってしまった。明日また、今日の件で司書のネイフィという少年に会う算段になっている」
「眠ったまま目がさめない奇病ですか。そんな話、初めて聞きますね」
「これまでウワサになっていないのなら、今朝、初めて起きたのだろう」
「近衛隊でだけなんですか?」
「まだわからないな。傭兵は棟が違うからだろう。同じ本丸で起居する正規隊でも同様の病人が出ていれば、空気感染の可能性が高いな」
ワレスはハシェドを見つめて不安になった。万が一、あれが空気感染する病気なら、ワレスを媒介して、ハシェドに伝染するかもしれない。じつのところ、ワレスは自分には絶対にうつらないという確信があった。今まで感染症にかかった経験が、きわめて少ないからだ。古代ユイラ人の特徴を色濃く残す特異な体質のせいらしい。しかし、ハシェドは違う。
「今日は一日、近衛隊にとどまっておくべきだった」
しかし、どういうわけか、ハシェドはやけに自信たっぷりに断言する。
「おれはそんな病気かかりませんよ」
「しかし……」
「だって、隊長みたいな危うい人、残して逝けません。心配で」
みんな、そう言っていても逝ったんだぞ?
愛した人を亡くしたあとのひどく切ない感情が、ふいに、うずくように胸にこみあげてくる。
これが、ワレスが告げられないでいる秘密そのものだと、ハシェドは気づいているのだろうか?
すると、こちらの気持ちを読んだように、ハシェドは急に真剣な面持ちになった。
「ルーシサスって、誰ですか?」
「え?」
ルーシサスについて、ハシェドには語っていない。知らないはずだ。
「なんで、おまえが知ってるんだ?」
ハシェドは複雑そうな顔をする。
「ああ……やっぱり、隊長の大切な人なんですね。この前、うなされていたとき、その人の名前を呼んでいたので」
それなら、たしかに納得がいく。寝言くらいは言ったかもしれない。
「それに」と言いかけて、ハシェドはためらった。
「それに、なんだ?」
「前に破傷風になったときも、うわごとでいろんな人を呼んでいましたが、その人が一番、多かった……」
「……」
長くそばにいると、なんとなく伝わってしまうものなのか。ハシェドが思いのほか核心に迫っていたので、ワレスは背筋が寒くなった。
(それ以上、近づくな。死ぬぞ)
ワレスが幽鬼のように青ざめていたのだろうか? ハシェドは息をつめて、一歩ふみだしてくる。ワレスの手をつかもうとするので、あわててさけた。
「……なんでもない。正規隊がどうなのか、サムウェイに聞いてくる。おまえは待っていてくれ」
ハシェドを置いて、自室から逃げだした。この秘密だけは、絶対に守りとおさなければならない。
*
ワレスが行ってしまったあと、ハシェドは一人、ふるえがとまらなかった。
今、たしかにつかんだ。一瞬だけだが、ワレスの秘密を。
おれには事情があって、本気で人を愛するわけにはいかないんだ……。
ルーシサスのことをたずねたのは、ただの嫉妬だった。学友だというジェイムズについては以前、ワレスからも聞いた。でも、ワレスがルーシサスを呼ぶときの顔は、ジェイムズの思い出を話すときよりずっと悲しげで、何かあるなと以前から思ってはいた。おそらくはかつて別れた恋人で、ジェイムズよりもさらに深く愛していた人なのだろうと。
(だって、あの名を呼びながら、いつも涙を流している。隊長は自分でおぼえてないだろうけど)
きっと今でも愛しているのだ。
(誰も本気で愛せないなんて嘘じゃないか。隊長は以前には、たくさん恋人がいた)
そう思うと、ひたすら待とうと決めていたのに、詰問しないではいられなかった。ハシェドは自分でもおどろいている。自分が思っていたより嫉妬深いのだと知って。
しかし、さっきのワレスの反応は……。
あれは昔の恋人を知られてまごついたというものではなかった。あの顔だ。ハシェドがワレスの秘密にふれそうになったときの、恐怖にも近い顔——
(よく考えろ。ハシェド。いったい、さっきの会話のどこがそれなんだ? 隊長がおれに隠してること。本気で人を愛してはならないと考えてしまうほど重大な秘密。何があの人を、あんなにおびえさせているのか)
そうだ。あの人はおびえている。今、わかった。
だから、あんなふうに壊れそうになる。あなたのなかのアンバランスの正体。
もし、その正体をつかめば、ワレスを救えるのだろうか?
ハシェドはさきほどのワレスとの会話をけんめいに頭のなかでくりかえした。
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