第3話
*
カーク・ミレインの日記
私は今、猛烈に腹を立てている。ワレス小隊長、あれはいったい、なんなのだ。この私を赤ん坊などと罵りおって。不愉快きわまりない。皇帝陛下のご下命でなければ、誰がこのような辺境に好きこのんで……いや、私情はよそう。
ともかく、地の月、アイサラ旬二日。予定より一日遅れて、ボイクド砦に到着。問題のワレス小隊長と接触した。
ワレス小隊長の第一印象は砦の傭兵というより、皇都劇場のホール正面を飾る『名優マリオルールの肖像』だ。マリオルールが
美男すぎるので、最初は物静かな男なのかと思ったが、これがとんでもないならず者だった。城主のランディの前では猫をかぶっているようだが、私に対する態度ときたら、山賊、海賊のたぐいだ。
肝心の仕事ぶりは、夕刻から二刻半の城内の見まわりに同行。可もなく不可もなし。立て続けに大事件を解決した敏腕兵士とは思われない。ランディは彼を買いかぶっているのではあるまいか。
それにしても、どこかで小隊長に会ったような気がする。
*
カラカラと何かのまわる、かすかな音がしている。どこか遠く、消えいりそうに。風がその音をのせてくる。眠りの意識に、もどかしく入りこんできた。
あれは……あの音はなんだったろう? どこかで聞いた……。
まあいい。私は満足している。ここの生活は快適だ。暑くもなく、寒くもなく、世界中が蜂蜜のなかに沈みこんだように、空気は濃密で甘美。
このまま、眠っていたい。眠って……。
眠って? 私は眠っていただろうか。いったい、いつから……。
いや、そんなことはいい。
誰か、あの音を止めてほしい。あの音。カラカラと耳ざわりな。眠れなくなるから。
もうじき、時が来る。わかっている。あの音が呼ぶ。約束の時だ。
だが、私はもう少しだけ眠っていたいのだ。このまま、ここで、安楽な日々を……あと少しだけ。
その願いをやぶるように、誰かが呼んでいた。遠くから名前を呼びながら手をふっている。
おーい。こっちだよ。君に会いたかった。
白いぼんやりした
ああ、おまえなんだね。おれも会いたかったよ。
おーい、おーいと呼ぶ声にこたえて、手をあげようとした。そのとき——
「……長。ワレス隊長!」
とつぜん、ハッキリ自分の名前を聞いて、ワレスは覚醒した。
あたりはまだ薄暗い。東の内塔宿舎。
昨夜は新米兵士セザールばかりか、おまけの見物人までつれて仕事したので、疲れたのだろうか? 見まわりを終えて帰ってすぐ、ベッドに沈みこんでしまった。
「……何か、あったのか?」
目の前にハシェドが立っていた。ワレスが頭をふりつつ半身を起こすと、ホッとしたように息をつく。
「隊長がうなされていたからです。なんともないならいいんですが」
「うなされて? そんなにひどく?」
「猛獣に襲われてかじられてるのかと思うほど」
「変だな。うなされるような夢ではなかったが」
しかし、ハシェドだけではない。二つの二段ベッドから、クルウやセザール、ミレインまで起きて、ワレスをながめている。よほど大きな声を出したのだろうか。
「迷惑をかけたようだな。すまん」
この薄暗さなら夜明け前だ。ワレスたち傭兵は勤務じたいは短い。朝はゆっくりしていられる。いつもなら、まだ就寝中の時間である。
「いえ、あやまる必要はありません。でも、もういいのですか? 水でも持ってきましょうか?」
「いや、いい。ぐあいが悪いわけじゃないんだ。夢のせい、かな?」
大丈夫そうだと思ったのか、ハシェドは笑顔になった。
「秋口とはいえ、まだ暑いですからね。寝苦しくて、変な夢を見たのでしょう」
「そうだな」
夜明け前の薄暮のなかに、ハシェドの両目と白い歯並みが健康的に浮き立って見えた。それを見るだけで愛しさがこみあげる。白い歯のならぶ唇にかみつきたくなって、ワレスは暗闇で一人、悶絶した。
「おやすみ。もう一度、寝なおすよ」
「おやすみなさい」
自分の寝台に帰っていくハシェドを、ワレスは見つめる。
あの運命にさえ囚われていなければ、今すぐにでもくちづけて、ハシェドをベッドにひきずりこんでやるのに。
そういう点では、ワレスはいつも奔放だった。ハシェドが同性だとか、仮想敵国との混血だとか、そんなのはどうでもいい。貞節も道徳も信仰も、ずいぶん幼いころにすててしまった。信じられるのは自分だけ。だから、愛にはいつも、まっすぐだった。この運命を知るまでは。
でも、一度だけ、素直になれなかったっけ……。
(ルーシィ。おれの天使)
遠くで呼んでいた
以前は夢で会うのすらつらかった。いや、今でも。
(あのとき、なぜ、おれはあんなことを言ってしまったんだろう)
とりかえしのつかない一瞬がある。ワレスにとっては、あのときがそれだった。自分の父を殺してさえ後悔しないワレスなのに、あの一瞬を悔いてやまない。できるなら、やりなおしたい。それが不可能なら、せめて……。
(せめて、おまえに伝えたい)
ため息をついて、ワレスは寝具に顔をうずめた。
(今さら、どうしようもないじゃないか? ルーシサスは死んでしまったんだ)
この十年、ずっとワレスの心を蝕み続けてきた。かたときも忘れてはいなかった。ワレスがジゴロに堕ちたのも、皇都では『不名誉をしでかした男が死ぬために行く場所』と言われる砦へ逃げてきたのも、根っこにあるのは、その思いだった。
ルーシサスを殺してしまった悔恨。
ワレスはほんとなら今ごろ、皇都でぬくぬくと暮らしていられたはずだった。
ワレスが人生でもっとも悲惨な数年間を神殿ですごしたあと、そこから救ってくれたのが、アウティグル伯爵だった。
伯爵のおかげで学校へ通い、住む家をあたえられ、もう一生、そこにいればいいはずだった。学校を卒業したあかつきには、伯爵のもとで役人になり、いずれは家名を継ぐルーシサスの側近として仕えて。その日暮らしのジゴロになる必要も、毎日、生命を危険にさらしつつ傭兵になる必要もなかった。ワレスの人生のなかで、おそらく、あのころが一番、高い水準にのぼりつめていた。
堅実で平穏な日々。愛する人との暮らし。
ワレスが夢にまで見た願いのすべてを手に入れていたはずだった。
(なぜ、今になって呼ぶんだ? ルーシィ)
目をとじると、ぼんやりと白い影がほのかに見える。
眠ろうとしたが、よく眠れなかった。
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