第6話

 一週間後。


 準備が整った。今夜、小宮山はあの計画を実行する。


 最近、よく眠れる夜を過ごしている小宮山は出勤する途中、仕事中……顔には無意識のうちに笑みが浮かんだ。リュックサックの中には、普段入れているファイルとは別に、ホームセンターで購入しておいたピアノ線と固定用のテープ、そして鍵屋に依頼し制作してもらった合い鍵を忍ばせてある。


 午後八時五十分。

 わざと残業をして、かなり良い時間帯になった。


 パソコンの電源を落とし、デスクの上を片付けていると、入口の方から視線を感じた。そちらに目を向けると――春野由奈が顔面に笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「今日、金を払う」

 昼休み。小宮山は、普段滅多に人の出入りのないオフィス内倉庫に由奈を呼び出して、七十万円をこの日に支払うことを伝えた。由奈は彼の想像通りの表情をした。


 消灯し小宮山は営業部の部屋を出た。エレベーターホールへ足を進める。少し後ろを由奈のヒールの音がついてくる。


 エレベーターホールで由奈が話しかけてきた。

「はやく! はやく! ねぇ、今、持っているんでしょ?」

 由奈は彼の肩を揺さぶった。その力はかなり強く、その証拠に小宮山のスーツに皺が付いてしまったほどだ。


 この女は金への執着心が強い。由奈の催促に小宮山は思った。常に欲求不満の状態にあり、目の前にある欲しい物を手に入れられないことがストレス。自分の欲を満たすことの出来る金を手に入れたい。しかし、危険なことには決して手を伸ばさない。由奈は慎重かつ計算高い女でもあった。犯罪には絶対に手は染めない。失敗するリスクが多いにある、株や博打はしない。それでも確実に金を手に入れるには、相手の弱みを握ることが一番。その条件に適した魚として、小宮山は見事に網に引っかかった。


「分かった、分かった。分かったよ。ただ……」

 揺さぶる手を止めた。「ここじゃ渡せない。会社の中だし、出来れば外の方がいい。そうだ、近くのファミリーレストランへ行かないか?」


「そこで金を渡してくれるのね」

 小宮山は頷いた。


 エレベーターが到着した。二人は乗り込み、一階へと下る。オフィス用ゲートを通過し、社外へ出て、左折。夏が近づいてきたため、生温い風が小宮山と由奈の身体を襲った。歩くこと七分。辿り着いたファミレスの店内は冷房がきいていて、涼しかった。


「ねぇ。わたし、我慢できないわ。はやくして」

 注文を承った店員が下がると、由奈はしびれを切らした。

 今の由奈は「金」のことで頭が一杯だ。—―この後、金をせびっている男に殺される運命にあるということも知らずに。


 料理が運ばれ、二人はそれを食した。食事は約三十分かかった。腕時計の時刻を確認すると、午後九時三十五分を示している。


 上手く事を進められている。

 いよいよ小宮山は鞄の中に仕舞っていた七十枚の壱万円が入った封筒を取り出した。


 由奈の表情が先程よりも明るいものになった。

「これでどうか!」

 小宮山は封筒を差し出して、更に頭を下げた。自分でもわざとらしい芝居だなと、心の中で笑った。しかし、由奈は金に意識が行っているため、そんなこと、一ミリたりとも気にしていないようだ。


 顔を上げると、彼女は札束を丁寧に確認していた。舐めるような眼差しである。由奈は完全に小宮山を支配しているつもりなのだろう。しかし、実際は違う。由奈が小宮山に支配されているのだ。今、彼は笑いをこらえるのに必死になっている。


「たしかに」

 封筒を由奈は鞄に仕舞う。「これからもよろしくね」

 会計を済まして、店を出た。


 すぐに由奈と別れ、小宮山は走る。近くにタクシー乗り場があるのだ。由奈は二路線を乗り継いで自宅へと帰って行く。時間は午後九時四十分。適当に選んだタクシーの後部座席に乗り込むと、初老の運転手に由奈の住んでるマンションの住所を伝えた。道は時間帯とあって空いている。


 小宮山は仕切りに腕時計を確認する。スマホで調べた最寄り駅の時刻表を見ると、丁度今、一本電車が発車したところだ。これに由奈が乗車しているとすると……、

「三分ほど早く着くことになるのか。ギリギリだな」

 自然と貧乏ゆすりをしてしまっていた。

 タクシー乗り場を出発してから五分が経過した。金は渡してしまっている。失敗すれば、徹夜で作成した計画がおじゃんになってしまう。そうなることは避けたかった。


 緊張感が伝わっていたのか、運転手が「スピード上げましょうか?」と、聞いてきた。


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