ソレダケデイイ

この時期にしては暖かい日が続いていた。一ヶ月ぶりにその扉を押し開けた先週から、再び毎日カウンターでコーヒーを飲んでいる。広げるものはテキストから書類に。持っていた荷物はリュックからショルダーバッグに。あと少しで制服を脱ぐ実感はないけれど、時間は過ぎる。息を吸って吐くだけで、前へ。


「マスター、眼鏡。すみませんでした。」


ドアを開けながら言えば、彼は口の端を上げた。眼鏡がないからかいつもより目が細められている。


「いいですよ、そんなに困りませんし。」

「ちょっと使わせてもらいました。見やすくてびっくりしましたけど。」

「その子はかけた人に合わせますからね。」


差し出された自分の眼鏡を受け取って、カウンターに腰を下ろす。まったく、眼鏡に意思があるような言葉を流せる程度にこの店に染まりきってしまった。


「これ、どこに置いてました?」

「横の机に。」


カウンターの奥の部屋を指さしながら彼は答えた。


「僕も並べておいたので、間違えたのでしょう。朝は時間が無くてバタバタしていましたし。」

「久々だったんで起きるのがしんどかったんですよ。」

「へぇ?」


楽しげなマスターを軽くはたいてから、鞄から書類を出す。


「ああそう言えば、改めておめでとうございます。結局落ちたのは一校ですか?」


受験は、終わった。報告は一週間前に済ませたが、しばらくぶりに他愛もない話に花を咲かせていたために、彼から祝福されたのはこれがはじめてだった。改めて、ああ終わったのだなと思う。


「はい。確定ガチャ、流石ですね。」

「結局もう少し難しいところにも受かれたのですから、あなたの力でしょう。そこに行くことに?」

「そうですねぇ、第一志望は落ちましたけど。」


先生は祝福とともに慰めの言葉をくれたが、むしろ彼女の方が悔しがっていた。本当に応援されていたんだろう。どこでもいいと思っていた私はなんと返すのが的確かも分からず、曖昧に微笑むにとどめた。


「嘘ばっかり。第一志望なんてどこでも変わらないと思って、きっと一番偏差値の高いところを書いておいたんでしょう?落ちてもあまりへこんでいなさそうだ。」

「あはは、ごもっともで。」


高校生から大学生へ。上面ばかりが成長していく。


前へ、前へ。


相変わらず一点を見つめられない私は、押し流されながらぼんやりと周りを眺めている。だから此処に踏み入れられるのだろう。


「そういえばマスターって、一体何歳なんですか。」

「そうですね、大体店を開いてからは十年くらいたちますかね。」

「で、何歳になるんですか。」


マスターはカフェラテを差し出しながら、ニッコリと微笑んだ。


「おそらく、二百、いや百七十くらいかな?」

「どうしよう、冗談に聞こえません。」

「あはは、嘘です、一応二十四ですよ。」

「いや十四で店出してどうすんですか。矛盾だらけですよ。」


お互い何も知らないのに、気がついたら並んで立っていた。そこにいるという確信だけで、なんの戸惑いもなく並び立っているのだから、やっぱり変な人だ。私も、マスターも。


「ねぇ、そんなに長く生きていて嫌にならないんですか?」

「いいことも多いですよ。稀に貴方のようにお店に入って来てくれる方もいらっしゃいますしね。」


長生きは否定しないのかよ、と心の中で突っ込む。


「私の他にも?」

「以前大学生の男の子が一人。その子は引っ越してしまいましたが。」

「引越し、ですか。そう考えると、大学はここから遠いですから、私も通いづらくはなりますね。」


他の人にどう見えているかは分からない。でも、このカフェはここに建っている。魔法でもなんでもなく、ただ私たちの理と離れて。どこにいてもすぐにここに来られるなんて都合のいい話はない。まぁ、あってもおかしくなさそうな気もするが。


「無理せず来てくれればいいですよ。いつでもお待ちしておりますから。」


頷いて、カップを持ち上げる。通算何杯目か分からないカフェラテは、やっぱり美味しい。


「さっきの話ですけど。」

「はい?」

「貴方と出会えただけで僕の長生きが報われた気分です。これから長生きする理由も出来ました。」


きざな言葉に多少免疫はついたとはいえ、いまだに突然浴びせられると動きが止まってしまう。相変わらずの台詞に肩を竦めてみせた。


「さらっと恥ずかしいこと言いますねぇ。」

「本心ですから。」


よく分からない敗北感にカフェラテを飲み干す。ふと目が合って、一つ大切なことを思い出した。


「あ、そういえば。」


いや、本当に変わっている。私も彼も。それでいいと思うけれど。


「なんですか?」

「マスター、私達お互いの名前も知りませんね。」

「おや本当だ。」


そこにいるという確信だけでこんなところまで来てしまった。それがありえないくらい、楽しい。多少順番が間違っていても、まぁいいじゃないか。やっと吸って吐けた息で、二人して笑った。

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ジュケンセイ 黒い白クマ @Ot115Bpb

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