ウンメイキョウドウタイ

十一月。諦めの月、なんて言っていた学友もいた。涼しいなんていう時期はものすごい早さで走り去り、連日凍えるくらいの寒さが続く。今日のように雨が降ると、一際体が冷えた。


「もう半年くらいになりますね、初めてここに来てから。」


半年間客は私だけだ。そして店は潰れていない。ここが違うことくらい理解しているけれど、特に気にならなかった。私にとっては、ただ集中出来ればそれでいいのだから。


「ええ、貴方も随分と勉強に精が出ているようで良かった。殆ど毎日頑張っていますからね。」


マスターも、こちらの人とは違うのだろう。彼の髪色、目、そして理をこえた出来事。御伽噺じみているというにはあまりに日常的な、それでいて確かな不条理。


「頑張れているのは、ここを見つけられたからですよ。」


でも私にとっては全部些事だ。マスターはマスターの何物でもなし、それで十分だった。


「そうでしょうか?」

「マスター、私の集中が切れてから話しかけるでしょう。コーヒー出すタイミングもそう。」

「おや、ばれていましたか。」


悪戯が成功したような顔をする。いつも笑っているけれど、本当によく表情の動く人だ。


「初回から気がつきますよ、私しかいないし。」

「此処に来られる人が滅多にいないのでね。」

「来られる人、ですか。」


聞き返せばマスターは、ずい、とカウンターに身を乗り出した。紫の目が、光を受ける様につい息を止める。


「そう、目がいい人。線を越えることに恐れがない人。心が敏感な人。」


嘘だろう。思ったけど、言わない。否定できるほど、私は自分を知らないから。


「此処に来られて、良かったです。」


小さく呟けば、彼は笑みを深めた。差し出された三杯目のコーヒーを受け取って、手元に視線を落とす。まだ、広げた教材を再開する気にはならない。


「誰もいないところよりも、集中出来ますか?」


今日はする作業もないのか、マスターはカウンターに身を乗り出したまま動かない。その距離になんの抵抗も覚えないほどには、私は此処にも彼にも気を許しているらしい。


「そうですね。誰もいないと、人恋しいので。」

「というと?」

「あー……なんていうか、会話がなくてもそこに誰かがいたほうが心地よく感じませんか?」


人によるけど、と心の中で付け足す。家族がいる家では集中出来ないし、友人が隣にいる時も人によっては気が散ってしまう。


「集中しづらかったりしませんか?」

「マスターは、いてくれた方が集中できます。気が散ってしまったり、イライラしてしまう相手ももちろんいるけれど、貴方に対してそう思ったことは一度もないです。」

「それは、良かったです。」

「話しかけてくるタイミングも、そうですし。真剣に話したら、真剣に返してくれるでしょう。だから本当に話しやすいですし、救われていますよ。」


手元のカップに目線を落としたままぼんやりと答える。珍しく返事がこないので、おや、と思って彼の方を見た瞬間。


初めて、笑顔ではない表情を、見た。


彼の驚いたような顔と目が合った直後、彼は目を逸らして口元を覆う。


「それなら、良かった、です。」


あまりにリアクションが予想外で、なにか妙なことを言ったかと自分の言葉を反芻する。


「あれ、もしかしてこれ、私相当恥ずかしいこと言っていましたか?」


マスターのことを言えないくらいには、口説き文句のようなものを並べてしまったような。いつもの落ち着きを取り戻した彼が、照れたように笑った。


「いつも何を言っても流されるので、ここまではっきり褒められると思っていませんでしたよ。」

「なんですか、いつも口説いているつもりだったんですか。」


軽口のつもりで返せば、彼の目が泳いだ。


なんだ、そうか。


この世の理の効かぬところに立っていると思っていたが、壁を隔てただけですぐ近くにいたらしい。何も、こちらの人と違わない。


「マスターも、随分と人くさい顔が出来たんですね。」

「人とあまり変わりませんよ、僕は。少し違うところで生きているだけで。」


呟くように言ったあと、彼は誤魔化すように、笑みを深めた。


「他の人と、変わりませんよ。」


彼は、こちらの人じゃないとはっきり言うことを避ける。こうもあからさまなのに。


「持って回った言い方ですね。」

「今日の貴方は随分と口が回りますね。敵わない。」


答えずにただコーヒーに口をつける。雨の音がした。


「雨、少し強くなりましたね。」


窓に目を投げて彼に呟くと、すっかりいつも通りの飄々とした笑顔で彼は首を傾げた。


「泊まっていきますか?」

「マスター、それ誘ってます?」

「なんとでも。」


黙って二人で外を眺める。人々はこちらを見向きもせずに、雨の中を進んでいく。


足元を見る人。枠を好む人。心に覆いを被せた人。


「泊まるのは今度にしますよ。」


素っ気なく返せば、声を上げて笑った美丈夫が、耳元で言葉を落とした。先程の様子が嘘のように、相変わらず気障な事をこともなげに言う。感化されたと認めたくはないが。


「奇遇ですね、私もですよ。」


時刻は五時過ぎ。長針が真下に来たら真面目にやるから、今は。

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