エピローグ

 余りにも静かすぎる気がして、ヴァーンはふと読んでいた資料から顔を上げた。

 いつも通りの自分の執務室はしんと静まり返っていて自分の鼓動さえ聞こえそうなほどだ。誰もいなかったかと勘違いしそうになり、視界の端に自身の補佐役であるラセツ・エーゼルジュが立っているのを見てふうと息を吐く。


「いやに静かだな? マニたちはどうした」

「マニなら数日前からまたヤミと一緒に地上に出かけていますよ」

「またか……監視はつけてるんだろうな?」


 ラセツは肩をすくめて頷く。


「はい、もちろん。……今回の見守り役はイーグルに任せています」

「……それはそれで不安だが?」


 イーグルとは諜報員の一人だ。少し熱くなりやすく、未だに近所の悪ガキ感が抜けない青年だ。子ども心を忘れていないと言えば聞こえはいいが。

 ヴァーンはまぁいいかとため息を吐く。

 そろそろ帰ってきますよ、とはラセツの言葉だ。

 帰ってきたら帰ってきたでうるさいんだが、とヴァーンはもう一度ため息を吐く。

 ラセツが更に追加の書類を机の上に置いたのを見なかったことにしてヴァーンはうんと伸びをした。

 マニとヤミが家出だと出ていってからしばらく、帰ってきてからも不定期にまた外に遊びに行くようになった。

 家(という名のヴァーンたちの職場)の中にずっといるよりは健康的なのだろうが、あちこちでなにかやらかしてはいないかと心配にはなる。そのための監視役だ。

 ラセツや他の部下たちにはお守り役、見守り役と言われているが。

 そんなことをだらだらと考えていると部屋の外からバタバタと忙しない足音が近付いてくるのが聞こえた。

 大きな音を立てて、外側から無理やり扉が開かれる。


「見て見て見て見てーーーーっ! 西オエステルカニドオオクワガタ捕まえた!」

「きゃぁっ」


 元気な声を上げながら入ってきたのは思った通り、マニ。その後ろで扉をそっと閉めているヤミもいるのが見えた。

 驚いたラセツが小さく悲鳴を上げる。

 マニの手には大きなクワガタムシが握られていて、これまた元気よくうごうごと足を動かしているのが見えた。

 ラセツは若干青い顔をして手にしていた書類束を身体の前で盾のように構えている。


「……虫、嫌いだったか?」

「……驚いただけですっ」


 今度は赤くなったりと忙しい補佐役を横目にヴァーンはマニを見下ろす。

 くりくりと丸い碧眼がガラス玉のようにキラキラと輝いている。

 以前よりいい表情をするようになったと思う。……同じくらい、妙なことを覚えて帰ってくるのはどうかと思うが。


「廊下を走るな、部屋に入るときはドアをノックして在室確認する、ドアは乱暴に開かない、地上の生き物を勝手に持ち込まない、絶対に逃がすなよ!」

「もー、この半ミイラ男はうるさいなー。ラセツさんに見せに来たんだよ、アンタじゃないよ」

「このガキ……」


 思わず拳を握りかけるが、子どもの言うことだと息を吐いて力を抜く。

 マニはラセツに見て見てとクワガタムシを近付けている。ラセツはじりじりと後ろに下がっているので少し見ていて面白い。

 新しい書類を手に取りながら眺めていると、マニの後ろで静かにしていたヤミがそっと少年人形の服の裾を引っ張った。


「マニ、駄目」

「ん? どうして……あれ、もしかしてラセツさん、クワガタ嫌い?」

「……いえ……その、虫の裏側が少し苦手なだけです……」

「じゃあこっち側なら平気?」

「ヒッ」

「マニ、駄目」

「なんで?」

「女の子、虫、嫌」

「これ取ったとき一緒にいた獣人ビァニスト()の子、女の子だけどすごく嬉しそうだったよ」

「……ヒト、たくさん、バラバラ」

「人それぞれ、かぁ……ラセツさん、虫苦手?」

「……す、少し……」

「でもこの西オエステルカニドオオクワガタ大きいよ。慣れる?」

「あぁぁ……」


 そろそろ収拾がつかなくなってきたな、とヴァーンは笑いを噛み殺しながら三人を眺める。ラセツに睨まれたのでそっと視線を外し、マニを呼ぶ。

 マニは鬱陶しそうに机越しにヴァーンを見上げた。


「なに?」

「実は東の町の復興事業の一環で人手が必要でな。あの辺りは地下遺跡が多くて、とても大人の重量に耐えきれない箇所が数えきれないほどあるんだ。そこで子ども型オートマタの導入を検討しているんだが……マニ、おまえやってみないか?」

「え……?」


 マニは驚いたように目をぱちぱちと瞬いた。

 ヴァーンは資料を一束、マニの方へ寄越す。


「詳細はここに書いてある。現場監督はカムイだから、やつの指示に従ってもらうことになるが……どうする?」

「……いいの?」

「うん?」

「ボク、行ってもいいの?」

「駄目ならこうして話をしないだろう」


 マニは手を伸ばして資料束を受け取る。じっとそれを見下ろして、なにか考えているようだった。

 横に寄り添ったヤミがそっとマニを呼ぶ。


「――もちろん、ヤミも一緒に行っていいんだよね」

「好きにしてくれ。そこはもうカムイに任せた」

「ふふん、ようやくこの醜悪な出目金を十発殴ったような頭でもボクの有能さが理解できたんだね!」

「なぁ、おまえの目にはおれがどういう風に映ってるんだ?」


 既にマニはヴァーンの声を聞いていないのか、資料を見下ろしながらくすくすと笑っている。クワガタムシはいつの間にか机の上でヴァーンの手元を這っていた。もう飽きたのか。


「ヤミ、行こう!」


 資料を片手に、マニはヤミの手を取ってくるりとヴァーンに背を向けて走り出した。

 ヴァーンはもう一度「廊下は走るな!」とその背に向かって叫ぶ。聞いているのかいないのか、マニからの返事はなかったがヤミがちらりとヴァーンを一瞥したのは見えた。

 まったく、とヴァーンは椅子に座り直す。

 西オエステルカニドオオクワガタがキチキチとヴァーンに向かって威嚇をしているのを見てため息を吐いた。


「騒がしいやつだな」

「元気でいいではありませんか」

「虫持ってくるようなガキでも?」

「……ノーコメントでお願いします」


 クワガタムシを指先であやしながらヴァーンは喉の奥でくつくつと笑う。

 またしばらくは静かな日々が続きそうだと思った。

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