夕闇の逃避行


 二人は再び馬に乗り、当てもなく街道を走り始めた。レリミアはティロにしっかりとしがみついた。


「これからどこに行くの?」

「当ては無いけど、どこかに行けるよ」

「そう、でもちょっと怖いな」

「大丈夫、僕は絶対君を死なせるようなことはしないから」

「……本当?」

「本当だよ。そこだけは信じてくれ」

「わかった、信じる」


 ティロの言葉にレリミアの心の中が温かくなった。時刻は夕暮れに差し掛かり、少し冷たい風が吹いていたがそれ以上に温かい何かがあった。


「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」

「なんだい?」

「その……いつから私のことを?」

「いつからって、最初からだよ。ほら、たまに目が合っていただろう?」


 レリミアはよく二階の自室の窓から庭で兄が稽古をしているのを覗いていた。するとティロは窓を見上げるようなことがあり、よく目が合っていたのだ。そのときは特に何も思わなかったが、今は彼がどんな思いで窓を見ていたかと思うと更に胸が熱くなった。


「……そんな」

「まさか、気づいてないと思ってた?」

「……ううん。私も、ずっと見てたの。父様や兄様の試合はよく見るけど、あんなにきれいな剣捌き初めて見たから……」


 剣技のことはよくわからないレリミアから見ても、ティロの剣技は一流を超えたものであると感じていた。たまに上級騎士筆頭である父と試合をしても互角か、それ以上のいい試合をしていた。


「よく言われるよ、お前は剣だけしか取り柄がないって」

「そんなことないよ」

「そうですか?」

「だって……ティロ、優しいじゃない」

「優しい? 僕が?」

「うん、上手く言えないけど……」


 レリミアの知っている上級騎士というものは、首都警護の他に要人警護をしながら各貴族たちと繋がりを持ってどう成り上がるかを考えている人たちであった。そのために剣技や戦術を習い、軍部や政界で一段上に進むことがひとつの目標であった。縁談の話も大体は上級騎士筆頭のお嬢さんを手に入れようというものがほとんどで、レリミアの意向はそこになかった。


 レリミアにとって、男とはそのように出世して偉くなって家柄の良い美しい奥さんと結婚して跡取りを産ませることが至上であると考えている生き物だった。しかし目の前にいる上級騎士の青年はまるでそういう下心がなく、レリミアから見れば眩しいほどに自由であった。


「本当に……貴方は素晴らしい。さすが僕のレリミアだ」

「え、今なんて!」

「名前で呼んではダメ?」


 名前で呼び合うなど、まるで恋人同士みたいだとレリミアは恥ずかしくなった。


「うん……いいけど」

「じゃあ、僕のことは名前で呼ばないで」

「どうして?」


 不思議な申し出に、レリミアは訝しんだ。


「嫌いなんだ、自分の名前」


 それまで何も考えず彼のことをティロと呼んできたが、それが彼を傷つけていたのかもしれないと思うと熱くなった胸に氷のようなものが落とされた気分になった。


「それでは貴方をなんて呼べばいい?」

「それは、後で考えようか……」


 ティロはなかなか自分の話をしようとしなかった。焦れったくなったレリミアは思い切って声をかけた。


「じゃあ、今話せる範囲で教えて欲しいな、あなたのこと」

「僕のこと?」

「だって、もう少しあなたのこと知りたいの」

「そうだな……君に聞かせられる話があまりないな。僕の話は大体戦争の話だから……」

「小さい頃からずっと?」

「そう。戦争で気がついた頃からあちこち転々として、最終的に軍のそういうところに預けられたんだ」

「そういうところ?」

「君に説明するのが難しいんだけど、孤児を集めて立派な兵隊に育てるっていう感じかな。みんなが僕を予備隊出身って言うだろう? 僕はたまたま剣の腕だけは立ったから、それだけ」


 予備隊、という言葉は父や兄からよく聞いていた。それがティロを指すものらしいというのはわかっていたが、具体的なことはわからなかった。


(孤児を集めた部隊なんて……ティロはどんなところで育ったのかな)


「つまり、そこで剣を習ったってこと?」

「そんな感じかな。後は……思い浮かばないな」

「もうおしまいなの?」

「君に話せるような話がないんだよ」


 レリミアはティロの好きな人が随分昔に亡くなっていると言ったことを思い出した。


(戦争で何か辛い目にあったのかしら……)


「じゃあそれより前の話は? その、小さい頃のこととか」

「……そろそろ暗くなって来る頃だね。どこかで休めるところを探そうか」

「……うん」


 道はすっかり大きな街道を離れ、寂しい道を二人で走っていた。しばらく行くと、民家の灯りが見えた。


「あそこで少し休ませてもらおうか」


 ティロは馬を止めてレリミアを降ろした。


「大丈夫だと思うけど、君はここで待ってて」


 ティロは民家のドアを叩いて中へ入っていった。レリミアが馬の側で心細く思っていると、明るい顔をしたティロが帰ってきた。


「いいって。とりあえずあっちの小屋に行こうか」


ティロは馬を連れて別棟になっている家畜小屋に向かって歩き始めた。


「家には入らないの?」

「少しだけ、二人きりになりたくてね」


 レリミアの心臓が大きく鳴った気がした。随分と馬に乗ってきて疲れていたが、これから始まる逃避行への期待が胸の中で膨らんでいく。


「なによ、もう」


 ティロに促されて、レリミアも小屋に入った。中は暗く、足元も見えないほどであった


「ここ、家畜小屋みたいよ」

「そうみたいだね」


 動物特有の匂いが立ちこめ、豚がしきりに鳴いていた。ティロは小屋の中程までレリミアを押して行った。


「ねぇ、どうしてこんな……きゃっ」


 急に後ろから抱きつかれて、レリミアの鼓動はますます高鳴った。


「ごめんね、もう我慢できないんだ」


 ティロの声が頭のすぐ後ろから聞こえてきた。


「でも、こんなの……」

「ずっとこうしたかったんだ……」


 一体これからどうなってしまうのか、レリミアには想像もつかなかった。このまま彼に身を委ねるべきなのか、それとも乙女として恥じらっておくべきなのか。


(そもそも、私はティロが好きなの……?)


 今一度彼のことを考える。孤児ではあるが剣技の腕は超一流で、レリミアの知っている限りでは控えめで大人しいイメージがあった。そんな彼がここまで大胆な行動に出たことに驚いていたが、そこまで激しい感情があったのだろうと思うと胸が熱くなる。


(彼の気持ちに、答えないといけないのかな……)


 レリミアがうっとりとした逡巡をしていると、ティロの腕が更に強くレリミアを抱きしめた。


「16年だ」


 それまでと打って変わった冷たい声に、レリミアは驚いた。


「えっ……痛っ!」


 レリミアの動揺が伝わったところでティロは後ろからレリミアの腕を捻り上げ、隠し持っていた縄で後ろ手に縛り上げた。


「長かったな」

「痛い! 離して!」


 慌ててレリミアは抵抗したが、為す術もなく小屋の支柱に縛り付けられ、身動きがとれなくなってしまった。


「離すわけねえだろ、この時を待ってたんだ。やっと捕まえたぜ、レリミア・トライト」


 ぞっとするような声色にレリミアは恐怖した。その恐怖の元が何であるのか、レリミアには知る由もなかった。

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