<28・禍根>
あ、これは外した。閃はしょっぱい顔でゴールを見上げる。成功した、と思ったシュートが外れることは時々あるが、これは確実に失敗しただろうと思った予感はまず外れない。足が滑ったとか、腰に力が入ってなかったとか、手首のスナップが効いてなかったとかいろいろ原因はある。――案の定ボールはバスケットゴールを大きく外れ、枠に当たって見事に跳ねかえった。
「リバウンド!」
キャプテンが叫ぶ。慌てて振り返るも、ボールは既に相手の白チームに奪われた後だった。白チームのポイントガードである秀晴にボールが飛び、そのままゴール下まで走っていたセンターの累矢へ。マークを綺麗に外していた彼は、そのまましなやかに地面を蹴り、ダンクシュートを決めていた。
「ああああ……」
今の一発が入れられなかったのが、想像以上に痛い。いくらベンチ入りメンバーを両チームにバラけさせたとはいえ、今日は閃の赤チームの方にはキャプテンもいたのだ。球技において、一発のシュートミス、あるいは成功が流れを大きく変えることはままあることである。真正面からのシュートなんて初心者でもできそうなものを見事に外した上、リバウンドにも失敗して取り損ねた。全国区のチームのレギュラーとしてあるまじきミスである。
「ぼさっとすんな、さっさと戻れ!特に古市!」
「す、すみません!」
マネージャーの諒子から怒声が飛び、閃はつんのめりそうになりながら走り出した。一瞬体育館の入口が視界に入り、目を丸くすることになる。
入口から、ひょっこり顔を出している少女。今日はまだミニゲーム中ということもあって、声を出すことは控えているのだろう。らしくもなく、控えめに手を振られた。
――鈴……。
陸上部の練習の方が早く終わる、のは時期的に見てもおかしなことではないが。それでも今日は、いつもよりずいぶん早いような気がする。
理由なら分かりきっていた。
空気を読むのが苦手なはずの彼女が――ものすごく、自分に気を使っている。
――まあ、そりゃ、そうだよな……。
あの事件が起きて、鈴が帰ってきてから約一週間。
まだ閃が全てを吹っ切るのは、簡単なことではなかったから。
***
「お疲れー」
「……おう」
着替えが終わってロッカーから出てきたところで、鈴にジュースの缶を投げられた。構内の自販機で変える、“あったかコーンスープ”だ。冬のこの時期は重宝している。この手の“飲み物以外の缶”は美味しくないと忌避する層もいるのは知っているが、閃は嫌いではなかった。あったまるし、練習後はおなかも減っている。どうせこの後買い食いもする可能性大だが、その間のつなぎにこの手の“美味しい缶”はとてもありがたい存在だった。別方向で、おしるこ系の缶も嫌いではないが。
「兄貴、今日の練習見てたよ」
バスケ部の部室は、体育館横に専用の小屋がある。元はプレハブ小屋だったのが、全国で活躍するようになってからもっといい専用小屋を建てて貰えるようになったのだ。ロッカールームもあるし、ミーティングルームもある。その小屋の脇にはベンチと、ついでに自動販売機もあるという至れり尽くせりの状態だった。
そのベンチにどっかりと座ると、鈴は歯に衣着せずストレートに告げてくる。
「いやあ、ボロボロだったねえ。あの超真正面のべスポジから、内側のシュートを兄貴が外すとは!」
「……うるせえ」
「まあ、そうだよね。……あたしに言われたかないよね。間違いなく、ここ数日あたしが一番兄貴のストレスになってたんだろうし」
「…………」
金曜日の悲劇は、今でも目に焼き付いている。
割れた木の偶像。罅割れた祭壇、溢れた黒い粘液。絶叫と共に、柿沼の足が爪先から割れていく。うつ伏せに倒れた彼女の足が、まるで割り箸でも割るかのように縦に裂けていき、尻の肉が割れて脂肪がぶよぶよと飛び出すのを見た。骨盤が割られ、腰が砕かれ、背骨の太い骨が弾かれたようにずるりと割れた肉から飛び出すのを、見て。
『……ありがと、ね』
ああ、何故。
何故あの時、おぞましいほどの激痛の中で柿沼晶子は笑ったのか。あんなことを言ったのか。
気づいた時、閃は意識を失っていた。そして気づけば病院のベッドの上だったのである。
飛んできた父が、初めて人前で泣くのを見た。その彼からどうにか話を訊き出して、閃は自分が丸一日眠っていたことを知る。一緒にいた焔と、それからもう一人――西棟の階段の踊り場で倒れていた鈴が、病院に担ぎこまれたということも。
それから。
同じ教室で、柿沼晶子の惨殺死体が見つかったということも。
『何があったんだ、閃。鈴も起きたけど、何も覚えてないって言うんだ。先生は死んでるし、お前と一緒にいた男の人は重傷だし……』
困惑する父に、閃が言えることは一つだった。
『ごめん、父さん。俺も、何がなんだか……全然覚えてないんだ』
余計なことは言うべきではないと察した。少なくとも、焔と口裏合わせができるまでは。
僅かな話からわかったことは、柿沼の魂と体は疵鬼に持って行かれなかったということ。彼女の遺体と血はそのまま現場に凄惨な形で残ったままになっていたこと――それが、恐らく鬼使いとなってしまった者が、呪詛返しを受けた末路だったのだということ。
そして鈴が、やや記憶が混濁しているもののほぼ無傷で帰ってきたこと。――他の行方不明者は、未だ消えたままだったということ。焔が重傷で、緊急手術になったということ。しかし手術前、意識を失う前に“柿沼晶子に刺された、そこの古市閃に助けられた”と本人が第一発見者である職員に語ったことから、閃に新倉焔殺人未遂の疑いはかからずにすんだということ(実際、彼の血がついたナイフには閃の指紋がべったりついているのだから、一歩間違えれば危なかったかもしれない)。
まるで、何かの夢から醒めたように、おまじないの話をする人がどんどん減っているらしいこと――それだけだった。
――ていうか、新倉さん化け物か。……何であの傷と出血量でもったな、って医者に滅茶苦茶びっくりされてたぞ。
思えば、自分が血に気づくまで、彼は平然と柿沼と話をしていた気がする。
痛みに鈍いのか、あるいは我慢することに長けているのか。――平気で我慢できるようになったのだとしたら。それだけのことがあったのかもしれない、彼にも。
警察の事情聴取を受けつつも、明らかに人間業とは思えない柿沼の遺体に、警察も混乱しているらしい。少なくとも閃と焔が、柿沼晶子殺害犯の疑いをかけられることはなさそうな空気である。だからこそ、今自分はこうして普通に学校に復帰しているわけだ。多少、クラスメートや部員達の好奇の眼に晒されつつも。
そして。いろいろと、禍根を残す結果になりつつも。
「……お前は、気にしなくていい。今後は危なそうなおまじないとか控えて欲しいけどさ」
彼女の隣に座って、閃は言う。
「そもそも俺は、お前が帰ってきてくれただけで……本当に奇跡だったと思ってるから。ありがとな、戻ってきてくれて」
「兄貴のおかげだよ」
鈴は頬に、自分のコーンスープ缶を押し当てながら言った。
「ズタズタに切り裂かれて、全身痛くて苦しくて、でも死ねなくてさ。何も見えない、真っ暗な中をずーっと這ってたの。もういやだ、もういやだ、消えちゃいたい、こんなに苦しいくらいならいっそひと思いに殺してって思ってたとき……兄貴の声が、聞こえた気がしてさ。そしたら、諦めちゃいけない気がして。そっちに行かないと、あたしほんと……迷惑かけっぱなしの、駄目な妹になっちゃうなって思ったら、生きるのを諦めきれなくなっちゃって。兄貴の声がする方に、歯を食いしばりながらずるずる這ってた。ずっと、ずっと」
「そっか」
「うん。……多分、帰って来られた人と、そうじゃなかった人の違いは本当ににちっちゃなものだったんだと思うよ。消えちゃった他の人は、苦しすぎて諦めちゃったんだと思う。あるいは、呼んでくれる人がいなかったのかも。あたしだって……あと一日、ううん、あと数時間、数分遅かったら壊れてたかもしれないし」
だから凄いのはあたしじゃないよ、と彼女は笑った。そんな鈴のポニーテールをぽんぽんと撫でる閃。謙遜するが、あれほど切り刻まれるほどの苦痛を受けて、それでも魂が壊れなかったのは立派としか言いようがない。
「よく耐えてくれた。……ありがとな」
鈴が帰ってきてくれた。その事実だけでも、自分は喜ぶべきだと知っている。
そうでなければ自分は、誰かを憎まずにはいられなかったかもしれないから。
「兄貴と、それから……新倉さんの、おかげ」
ころころと手の中で缶を転がしつつ、鈴は告げる。
「あたしは、二人が頑張ってくれたから帰って来られたの。だからさ。……あたしが言うのもなんだけど、わかってるけど。あたしの立場だからこそ言わせてもらうんだけど」
「……うん」
「お願いだから、新倉さんを恨まないでね。あたしだけじゃないんだよ。兄貴だって、新倉さんがいなかったら死んでた、そうでしょ?他の学校のみんなだってそう。確かに柿沼先生のことは残念だったけど、新倉さんだってああなるってわかってたわけじゃないかもしれないでしょ。って、あたしは兄貴がどんなふうに戦ったか、話でしか知らないけどさ」
「…………うん」
鈴の言うことは、正しい。閃は俯いて、唇を噛み締めた。
『やるべきことは、わかっているな?俺はこのザマだ、流石に動けない。そして時間がない。こいつであの人形を壊せ……あれが要なのは明白だ。俺の血のついたナイフはそれだけで呪具として効果を持つ。疵が広がって人形に近づけなくなる前に、早く』
自分は感謝こそすれ、本来焔を恨むべき立場にはないのだ。きっと、経験豊富そうな焔は、ああなることも予想した上で人形を壊せと言ったのだろうけれど、それでも。
ああしたことで、みんな救われた。自分も、鈴も、学校の仲間達も。でも。
それでも他に方法はなかったのか、柿沼を救えなかったのか――そんなことを思ってしまう自分は、きっとものすごく甘ったれていて。無力で、なんの力も手段も持っていなかった自分が焔に憤りを向けるのはお門違い以外の何物でもなくて。
「どうしても納得できないなら、ちゃんと話してみればいいじゃん。兄貴、すっごく言葉不器用だし……話を聴いたかんじ、新倉さんも不器用そうではあるけどさ。だからって、黙って誤解やムカムカ募らせてて、なんか解決すんの?」
「お前ほんと、ストレートに言うなあ」
「だってそれがあたしだもんー」
だからね、と。つん、と焔の額の中心をつっついて、鈴は笑った。
「言いたいことも言うべきこともあるなら、ちゃんと言ってきなよ。面会謝絶じゃないんでしょ?……言葉にしなくても伝わることなんて、実際そう多くはないんだからさ」
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