<27・姉妹>
柿沼晶子と妹の咲子は、双子ではなかった。
しかし柿沼が比較的小柄だったこと、二人がどちらも父親によく似ていたこともあり、限りなく双子に近い姉妹だと言われることが少なくなかった。性格も見た目もよく似た二人は、好きなものなどの趣味も限りなく近かったのを覚えている。それでいて、柿沼の方は一つ違いとはいえ姉という自負があって。まるで親友のような間柄でありつつも、妹を守るのは、先に生まれた姉の役目だと心の底から信じていた。妹の方が、自分よりも天真爛漫で可愛げがあると思っていたからもあるだろう。
小さな頃から活発だった二人は、男の子と混じって木登りや鬼ごっこが大好きだった。娯楽の少ない小さな村である。妹の咲子は誰より足が速く、一度本気で走り出したらちょっと年上の男の子であっても追いつけなかった。かくれんぼも上手で、彼女が隠れてしまうといつも見つけられるのは姉の自分だけだったものだ。
嘘のつけない子だった。
だから、自分が好きになったことや、木になったことは良くも悪くも正直に話してしまうタイプだったと言っていい。
疵鬼様を見た、子供達と遊んでいた。姉妹が小学校に上がった頃、そんな噂が流れるようになり――近所に住んでいた子ども達の間では、誰が一番最初に疵鬼様に遊んで貰えるか競争しようぜ!という流れになっていたのだった。他愛のない、子供同士の競争だ。そしてある日、咲子がするりと口を滑らせたのである。
『え?さきちゃんこの間、遊んでもらったよ?紫色の着物の、男の子。あれが疵鬼様、なんだよね?』
幼い頃は、祟りを齎す恐ろしい神様というイメージが強かった疵鬼様。それが、子供と一緒に遊んでくれる座敷童へと印象を変えても、大人達にとってその扱いの大きさは変わらなかったと言っていい。そんな偉大な神様と遊んで貰えたという話をした少女を、村の少年達は非常にやっかんだ。遊んで貰えたよ、と咲子が話すたび、村の大人達がありがたがって咲子にお菓子をサービスをしたり優しくする様を見たから余計にだろう。
加えて、大きくなるにつれ咲子の額に、不思議な痣が浮かんでくるようになったから尚更である。
それは、大昔にこの村に祟りを齎した鬼子と同じものでは?と噂された。が、当時大人達が思ったのは咲子は忌むべき鬼子なのでは?ということではなく――疵鬼様が咲子を愛でて、認めたから自分と同じ印をお与えになったのでは?ということだった。
ますます、咲子の特別扱いは強まっていった。他に疵鬼様と遊んで貰ったという子供も何人かはいたが、それでも圧倒的に咲子の目の前に現れることが多かったから尚更である。
実際、柿沼も自分の幼少期、一人でいる時に疵鬼様を見たことは一度もない。全て、森で咲子と一緒に遊んでいると、いつの間にか木陰からちらちらと構って欲しそうにこちらを覗き込んでくる男の子がいる、といった具合だった。
妹は特別な存在なのかもしれない。柿沼はそう思い、どこか自分のことのように誇らしくなった。きっと両親も同じだろう。そんな自分達の褒めっぷり、持て囃しっぷりに、咲子も態度が大きくなっていったことは否定できない。
でも。
だからといって。いくら咲子が羨ましいからといって――いじめに走るのはどういう了見なのか。
次第に他の子供達の、特に一部の少年達の咲子の扱いが悪くなっていった。学校では咲子だけを露骨に無視したり、悪口を言ったり、物を隠したり壊したり。そんなテンプレートなことを繰り返すようになったのである。
『なんで咲子にだけそんな酷いことすんのよ!』
柿沼は激怒して、少年の一人をボコボコにしたこともあった。が、彼等は半泣きになりつつも、自分達は悪くないの一点張りである。それどころか。
『あいつが調子に乗って、みんなを不快にしてるのがいけないんだろ!何であいつばっかり、疵鬼様と遊んで貰えるんだよ!みんな特別扱いなんだよ、あんな痣があって不細工なくせに!』
それから、ほどなくして。
恐ろしい噂が広まった。咲子が疵鬼様を振り払って、手を上げているところを見た――と誰かが言いだしたのだ。折悪く、その年は稀に見る凶作で、村の農家の人々がほとほと困り果てていた時だった。まさか、咲子が疵鬼様のご機嫌を損ねたからこのようなことになったのでは。一人がそう考えるようになり、それを口にすればもう、狭い村の中で不審は病のように広がっていくことになったのである。
何か一つ、悪いことがあると全て咲子のせいになった。
販売所から大量に果物が盗まれた。
商店が大きな取引を断られた。
子供達の間で妙な流行り病が出た。
大雨で土砂崩れが起きて村人が二人死んだ――などなど。
誰かが口にした。このままでは、この村にはもっともっと大きな災いが起きる。疵鬼様を鎮めなければ、この村は天災か病によって滅ぶことになるのでは、と。
『今年だけは』
恐怖に怯え、妄想に取り憑かれた者達は。時に、あまりにも倫理観が壊れた結論を出してしまうことがある。
『今年だけは、復活させるべきではないのか……かつての、本当の疵鬼の儀式を。祭りを』
そしてそれをやらせるべきは、この事態を招いた――元疵鬼の寵児だろう、と。村の有力者たち、村の空気、子供達の噂。それらが何か見えない暗雲となって村全体を襲い、飲み込んでいったのである。
それができてしまう環境が、小さな村にはあったのも問題だろう。村の初出所の警察官たちはみんな村の出身者であり、疵鬼の脅威を頑なに信じている者達ばかり。警察と、村の大人達の全てが共犯になるのなら、戦後の昭和の世であっても事件の隠蔽は極めて簡単なことだったのである。
つい少し前まで、疵鬼様に愛された子としてちやほやされていたはずの咲子は。あっという間に、掌を返した者達によって“戦犯”扱いとなり、拒否権もなくその身を捧げられることになってしまったのである。反対したのは、柿沼たち家族だけだった。
『助けて!お姉ちゃん、助けて!』
『咲子!お願い止めて、やめてよお!』
まだ小学校四年生だった少女は、祭壇に押しつけられて儀式をさせられた。なんとか阻止しようと暴れる柿沼と両親は村人たちに抑えつけられ、ただ儀式を見守ることしかできなかったのである。
少女は服を全てはぎ取られて全裸にされると、まずは両手首を縦に裂かれた。それこそ、骨が露出するほど、深く、深く。それもじわじわと。
『ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!痛い痛い痛い痛い痛いよおおおおお!やだ、やだ、やだああああああああああああああああああ!!助けて助けて、やだやだやだ助けてっ、いだい、いだいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』
ばくりと裂けた腕からだらだらと血が流れ始めると、それを強引にきつく布で縛って止血。今度は彼女の口を無理やり開かせ、唇の両端にナイフを宛がって切り裂いた。ぱっくりと、愛らしい顔が口裂け女のように切り開かれ、蹂躙される。少女は口を閉じることも許されなくなった。
出血が多くなってきたという理由で、両足につけた傷は腕よりは浅くなった。が、それでも柔らかな太ももが真っ赤に切り裂かれ、どろりと血に交じった脂肪が溢れだしたことに変わりはない。さらに股間にナイフを当てて、まだ毛も生えてない割れ目から臍までをすっぱりとナイフで切り裂かれた。腹膜が破れ、でろん、と中身が溢れだすのを見た。そこまでくるともう、少女は泣き叫ぶこともままならず苦痛に喘ぐことで精いっぱいになっていた。
『いだい、いだ、……ても、あしも、おなかも、おまたも、いだいよ、いだい……だずげで、おねが、たすけて、おねえちゃ……』
暴れることもできなくなった少女は、ズタズタの体で、楽にしてもらうこともできないまま――冷たく深い穴の中に投げ捨てられた。そしてそのまま、まだ生きている状態で上から土をかけられ、押し固められてしまったのである。
そのおぞましい光景を見て。母はショックで、失禁したまま心臓麻痺を起こして死んだ。
父はおかしくなり、その翌日に首を吊った。
ただ一人生き残った柿沼は親戚の家に引き取られ、そこで中学卒業までを過ごすことになるのである。
――疵鬼様の機嫌が戻ったから、天災に見舞われずに済んだ?……違うわ。ただ、偶然祭りの後に天候が回復して、凶作が終わっただけじゃない。
何故、何故、何故。
――誰?咲子が疵鬼様を傷つけたなんて噂を流したのは。
何故、何故、何故。
――誰?咲子を生贄に捧げれば、全てが解決するだなんて馬鹿なことを言いだしたのは。
何故、何故、何故。
――誰?……昔のおぞましい儀式を、咲子で再現しようだなんて提案したのは!
何故、何故、何故。
妹が、あのように――苦しみ抜いて死ななければならなかったのか。
疵鬼という存在が、伝説と人の心から生まれた鬼であることを柿沼は知った。座敷童のような無害な鬼と認識されるようになったのも、一人の少女の嘘が真実として広まったからこそ。人々の認識が変わることで、鬼もまた姿を変える。力を増すも減らすも、その鬼をコントロールする者次第。
鬼は、異界からやってくる。
されどそれをこの世に顕現するのは、今この現世で生きる人の心に他ならない。
柿沼晶子は村の伝説を、あらゆる過去の資料を調べつくし、中学生の時にはその領域に至っていた。そして鬼使いとして目覚めた柿沼は、かつて咲子をいじめ、噂を流したであろう少年達を咲子と同じように引き裂くと地面不覚に埋め、自分だけの疵鬼を召喚しようとしたのである。
だが、たった四人の少年の生贄で作った結界と祭壇では、あまりにも力が足らな過ぎた。
疵鬼は、“この事件を誰にもバレないように隠蔽したい”という願いは叶えてくれたが、本命の“咲子を呼び戻したい”という願いは聞き届けてくれなかったのである。何年も前に捧げられた供物を取り戻すのは、ただの死者を呼び戻すより莫大な対価を要求されたがゆえに。
――なら、仕方ないわ。
もっと、もっと、もっと、生贄を。相応しい場を作れる場所を。
それには、子ども達の欲望と邪念がより集まる場所が相応しい。
――“外”の人達に、嫌でも協力してもらう。
柿沼晶子は、そうして村の外に出て高校大学と通い、教員になった。全ての青春を捨て、それ以外の幸せも結婚も何もかもを捨てて、一人。
全ては、愛しいたった一人を取り戻すため。
そしてそのたった一人に、あのおぞましい村を滅ぼしてもらう、そのために。
だから八辻高校の仕事は、そのための踏み台でしかない。生徒達はみんな、自分だけの疵鬼を召喚するための体のいい道具。道具に愛情なんか持つ筈もない。
そう。
――そのはずだった。
祭壇の上の、疵鬼の偶像が真っ二つに割れていく。その中からどろどろと、黒い液体を垂れ流しながら。この後に起きることが何なのか、村の文献で嫌というほど見ていた柿沼は知っていた。
びしり。
立っていた足の爪先から、異音。儀式を行うため、柿沼の足はタイツを履いただけの素足だった。その両爪先が、びしり、びしりと親指と人差し指の間から裂けていく。真っ赤な血が吹き上がり、骨が飛び出すと同時に――激痛が脳天を焼いた。
「があああああああ!」
「せ、先生!?」
恐らく、こうなることなど知らなかったのだろう。激痛から崩れ落ちた柿沼の傍に、駆け寄って来ようとする閃。ゆえに、柿沼は。
「来ないでっ!」
叫んだ。びしびしと裂けていく足に、痛みに悶え苦しみながらも、最後のプライドをもってして。
「呪詛返し、なのよ……儀式が、失敗した時点で、こうなるのはわかってたんだから……!触ったら、あんたまで、巻き込まれるわ」
「せ、先生……っ」
「ごめんなさいね。私は……閃君に、そんな風に呼んでもらう価値なんか、ない人間なのよ」
本当は、とっくにわかっていた。自分は誰も救えない、救われないことをしていると。
今、柿沼が咲子を取り戻したところで、彼女は十歳の少女。五十代になった姉と、失った両親、変わってしまった時代の中で戸籍も失った少女が一体どうやって生きていけるというのか。
何より、自分は本当に咲子を取り戻したかったのかさえもうわからないのである。ただ、復讐したかっただけではないか。妹をその道具にしようとしただけではないのか。本当に彼女を愛していたのなら――こんなやり方で、何十年も過ぎた今彼女を取り戻しても、誰も報われないことくらい気づいても良かったはずだというのに。
閃が一瞬で気づいたことに、自分は何十年もかかってやっと気づいた。なんて滑稽なことだろう。
「う、うぐ、うううっ」
うつ伏せに倒れた下半身から、どんどん疵は這い上ってくる。太ももから、臀部へ。臀部から腰へ。ズタズタに切り裂かれた排泄器官が壊れ、あらゆる体液を零すのがわかった。血と、便臭と、激痛と、吐き気。これが、無関係の子供達を巻き込んで、鬼を使おうとした者の末路か。
――ああ、きっと。本当はこれで良かったんだわ。
遠くで、少年が叫ぶ声がする。最後の最期、自分は少しでも笑うことができるだろうか。
「……ありがと、ね」
自分が先生でいてくれてよかったと、そう言ってくれてありがとう。
どれほど呪われた人生であっても――紛れもなく、彼等と過ごした時間は自分にとって救いだったのだから。
――咲子。……ごめんね。きっと、お姉ちゃんは同じところに行けないわ。
そして。柿沼咲子の世界はあらゆる苦痛の中、ゆっくりと幕を下ろしていったのだった。
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