<26・教師>

「キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ……」


 低く、呪うような声色が柿沼の唇から洩れる。恐らく、それが疵鬼を召喚するための、板見村に伝わる祝詞のようなものなのだろうと察した。キズオニ、以外の言葉が何を意味するかはさっぱり閃にはわからなかったが。


「キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ。キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ。キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ……」


 彼女が祝詞を呟くたび、空気がずん、と重たくなっていくような気がした。まるで見えないぶよぶよしたもので、ゆっくりと教室ごと押し潰されていくような。みしみし、と教室の柱やら床やらが音を立てて軋む。外から差し込む夕焼けの色が、どんどん赤黒く濁っていくような感覚を覚える。

 変化はゆっくりと始まっていた。疑似的な祭壇――机の上に置かれた疵まみれの、木の人形。その頭頂部に、真新しいひっかき傷が生まれたからだ。それはゆっくりと人形の顔に、首に、胸に、腹に、足へと下っていく。そして足の先から、今度は祭壇となった机へ。


 きき、きききききき、き。


 そう、疵が。

 疵が人形を中心に、広がり始めたのだ。


「――!」


 その刹那、焔が動いていた。床を蹴り、自分の血のついたナイフを持った右腕を振り上げる。鉄の杭が突き立った結界の中に飛び込み、人形にナイフを振り下ろさんとする。


「させないっ!」


 だが、それを黙って見ている晶子ではなかった。彼女は素早く飛び出すと、焔の腕に向かってナイフを振り上げる。ざしゅっ、と鈍い音がして焔が一歩後ろに退いた。腕を抑えているあたり、手首あたりを切られたのかもしれない。


「に、新倉さんっ!」

「……なるほど」


 傷を負わされたはずなのに、焔の声は冷静そのものだった。


「守ろうとしたということは、やはり人形が要と思って間違いなさそうだな。それを壊されると、やはり儀式は失敗するわけだ」

「だったら何?貴方にはできないわ。キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ……」


 彼女は祝詞を続けながらも、再び焔の元に飛び込んできた。そして今度はナイフではなく、彼の腹部目がけて蹴りを見舞ってくる。予想外だったのか、ガードしきれず焔の体が吹っ飛んだ。あるいは想像以上に重い一撃だったのかもしれない。


「これでもジムに通って鍛えてるから、普通のおばさんよりは強いのよ、私。それに……その怪我で私に勝てるわけないでしょ。むしろ、よくここまで平気で立ってられたわよね」

「!」


 そこでようやく、閃は気づいた。そうだ、さっき焔ははっきり言ったではないか――“俺を刺したのがアダとなった”と。見れば教室の床には、点々と血の跡が落ちている――それも、吹き飛んだ方に。黒い服を着ているからわからなかった。が、あそこまで血が地面に落ちるレベルとなると、つまり。


「怪我の上から蹴ったから暫く動けないでしょ。そのまま放置してたら普通に死ぬ傷なんだし、そこで大人しくしてて頂戴。私は早く咲子に会いたいんだから。キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ……キズオニ、キズオニ、クダレ、アマレ、ノイエ、カイエ」

「に、新倉さん……」


 完全に抜けている腰を叱咤して、閃は這うように焔の方へ向かう。そして、自分を殴りたくなった。本当に何で気づかなかったのか――こんなに濃い血の臭いがしているのに。

 焔の顔色は紙のように白いし、呼吸もおかしい。腹部を抑えた左手は血で真っ赤に染まっている。相当深い傷なのは明白だった。ひょっとしたら、致命傷かもしれないほどの。


「古市、閃」


 そんな閃に、焔は右手に持っていた血まみれのナイフを差し出す。


「やるべきことは、わかっているな?俺はこのザマだ、流石に動けない。そして時間がない。こいつであの人形を壊せ……あれが要なのは明白だ。俺の血のついたナイフはそれだけで呪具として効果を持つ。疵が広がって人形に近づけなくなる前に、早く」

「で、でも……!」

「お前の妹が消えてからまだ時間が過ぎてない。妹の魂が完全に喰われていなければ取り戻せる可能性もまだある。そしてここで阻止しなければ、学校の人間全てが疵鬼に供物として持って行かれかねない。自分と、誰かの命を救いたいなら躊躇うな」


 何より、と。

 焔は少しだけ、怪我の痛みとは別の苦痛を堪える顔で言った。


「鬼使いは、大抵ろくな末路を辿らない。狂気に落ちて現実が見えてない上、強大すぎる鬼に慈悲などないからだ。……お前にとって、あの教師はただの教師じゃないんだろう?そう思うなら、尚更だ。救ってやれ。……悪い夢は、終わりしないといけないんだよ」

「!」


 悪い夢。そうだ、と閃はナイフを受け取って立ち上がった。人形の上には、いつの間にか黒い靄のようなものが揺らめき始めている。靄――否、どろどろと溶けた、液体が空気に張り付いているような、嫌悪感。疵は、人形どころか、机の上部分をもほぼ侵食しつつあった。びしびしと罅割れ、砕け、そこからじわじわと黒い液体を垂れ零している。

 あれに触れたら即死だと、本能で理解した。

 そしてナイフが届かなくなるほど疵が地面に広がってしまう前に壊さなければ、今度こそ打つ手がなくなるだろうということも。


「――っ!!」


 覚悟を決めるしかない。閃は立ち上がると、ナイフを構えて人形の方へ走った。


「邪魔しないで、閃君っ!」


 当然、すぐに気づいた晶子が間に入ってくる。ナイフを振り回して、死にもの狂いで牽制してくる。そうなると、さすがに閃もうかつに近づけない。


「貴方にならわかるはず……だってそうでしょう?妹を取り戻すためなら、何だってするはず!私も同じよ、大切な家族のためなら何でもできるわ……どんなことだってする。例えそのために青春のすべてを犠牲にしても、人を殺しても、結婚も何もかも諦めてあらゆる努力を費やしても……自分の生徒を、貴方を傷つけてでもね!私は本気よ、楽に死にたかったら余計な真似をしないで!」

「先生、俺は」


 彼女は、自分の目的のためだけに教師になったのかもしれない。学校という場を自由に利用できる立場になるためだけに。職員よりも教員になる方が、噂を利用して鬼を作りやすいと思ったのだろうか。何にせよ、その努力は並大抵のものではなかったことだろう。

 十年。いや、どう見てもそれより遥かに長い期間。全てを利用するためだけに教師をやってきて、一体何を想っていたのか。

 どんな気持ちで教師として子供達に教え、導いて、見送ってきたのか。その気持ちを、一介の高校生でしかない自分が全て理解するなど到底不可能だろう。

 それでも。


「俺は。……先生の生徒で良かったと、今でも思ってます」


 一つだけ知っている。

 短い期間だったとしても、自分は確かに――目の前の、柿沼晶子先生の教え子であったから。


「バスケ部で、悩んでた時。先生の言葉で救われました。背負い過ぎなくていいんだって、俺は……俺だって頑張ってたんだって。自分を褒めていいんだって、先生のおかげで思えるようになったんだ。先生にとって俺達は、ただ疵鬼を作るための道具でしかなかったのかもしれないけど。でも、俺は先生に凄く感謝してる。それはちゃんと、ずっと……伝えたいって思ってたんです」

「……っ」

「きっと、最初は妹さんのため、儀式のためだけだったんだと思う。でも……でもそれが、先生の全部、ですか?」


 柿沼の眼が、揺れる。

 閃は知っていた。利用するためだけ、見殺しにすることが前提、それでも。

 それでも彼女に、教師としての情がなかったとは思えない。それだけの人間が、これほどまで生徒達に慕われ、自分達を救うことが本当にできるだろうか。

 教師として生きた数十年は。本当に彼女にとって儀式を行うためだけの、意味もなく費やすための期間でしかなかったのか。

 答えは、きっと。


「それに、先生。本当はわかってるんじゃないですか。今、もし妹さんが戻ってきて、それが叶って……そうしたらどうなるかって。そう」


 残酷でも、突きつけなければいけない現実。

 彼女の妹は亡くなった時、まだ小学生だった。つまり。


「たくさんの人を犠牲にして、小学生の妹さんが今ここに帰ってこられて!それは、彼女にとって救いになるんですか……!?」

「――っ!!」


 柿沼が息を詰めるのが、わかった。今だ、と閃は床を蹴る。一瞬の隙と突いて、彼女の横をすり抜けて人形の方へ。

 既に疵は、机の下まで届いている。結界を踏み越え、その疵に触れないように気を付けながら、閃は。


「おおおおおおおおおおおおおお!」


 血まみれのナイフを、人形に振り下ろしていた。


「や、やめっ」


 一瞬遅れて、柿沼の制止の声が聞こえた気がするが、もう遅い。

 血濡れた銀色の刃は、閃の力強い腕力を持ってして――頭から真っ二つに、人形を叩き斬っていた。手応えはまるで、硝子を叩き割ったような感触。次の瞬間。




『キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!』




 それは何人もの人の声が混ざったような、絶叫。

 甲高い悲鳴と、金属音が混じったような断末魔が空間を一気に満たしたのである。

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