<24・逢魔>

 職員室は西棟の二階、のはずだ。男子高校生が教室から走って、けして時間のかかる距離ではなかったはず。

 それなのに。


――あ、れ?


 赤い夕日に照らされた廊下は、しん、と静まり返ったまま。何かがおかしい、と閃は足を止めていた。いつまで経っても、廊下の終わりが見えない。かなり急いで足を動かしてきたはず、もうとっくに階段に到達してもいいはずだというのに。


――俺、ボケちゃったか?焦ってたせいで、それで。


 現実逃避気味に考えて、すぐに首を振った。やはり、何かが変だとしか思えない。というのも、ついさっき自分は教室を飛び出してきたはずなのに、自分の教室が何棟の何階にあったのか、とっさに思い出せなくなっているのだ。さっき自分は階段を降りたか?それとも登ってきたか?そもそも、いつからこの長い廊下を走っていただろうか。

 いや、そもそも。

 まだ授業が終わって時間も経ってない。部活動がある生徒にとってはむしろここからが本番だと思っている者も少なくないはず。それなのに、何故こんなに空気が張り詰めて、痛いほど静まり返っているのだろうか。誰の声も聞こえない。耳鳴りがするほどの、静寂。


――これ……って……。


 夕焼けが、窓から斜めに――廊下を半分喰らうように差し込んでいる。とろとろとした、妙に赤い陽射し。窓枠の影が、まるで四角い人影のよう。

 あの時とは時間帯が違う。目に見える景色も違う。それでも、同じだと感じる要因は十分にあった。言葉に尽くせぬ静寂が、そしてまるで背中に何かが覆いかぶさってきそうな、重たい空気が。


――そうだ、あの、疵鬼が出てくる前の。




『わかってると思うが、この噂の“変化”でお前は一気に危険な立場になった。迎えに来るというのがお前の妹であっても、妹の姿をしたベツモノであっても関係ない。とにかく、攫われないように注意を払うしかないだろう。鏡、水面、硝子。とにかく、映りそうなものには万全の注意を払え。恐らく学校にいる時が一番危険だ』




 焔の言葉を、ようやく思い出していた。自分は誰よりも妹の鈴と縁が強い。次に攫われるとしたら、まず間違いなく自分だろう、と。だからこそ、危険だと思ったらもう授業も何もかもさっさと休んで早退しろとも言われていた。――ああ、ほんの少し前までは確かに覚えていたはずなのに。

 勿論、だからといって柿沼にすべてを問い質したい気持ちは消えていないが。

 この状況は、既に相当まずいような気がする。なんせ、自分が何階にいるのかもわからない。そして、左側にずらりと並ぶ窓、教室の曇りガラス。映るもの、はすぐそこに。




『あにき』




 掠れたような、声。

 閃はぎょっとして、見てしまった――窓を。


「!」


 ずらりと並んだ、全てのまどが。赤い夕焼けに上書きするように、同じものを映し出していた。長いポニーテールを風に揺らす少女の顔を。――紛れもなく鈴の顔を。


「鈴っ!」


 もしこの状況で妹が自分で戻ってくるなら、それはほぼ確実に変質したモノか、あるいは妹を模した別物だ。焔は確かにそう言っていたのに、探し求めてきた少女の姿に束の間それを忘れた。思わず名前を呼んで呼びかけてしまう。手近な窓に縋り付いた、次の瞬間。


「あ、に、ぎぃ」


 顔を上げた少女の唇が、でろり、と剥がれた。鋭い刃物で切り裂かれたように、左頬から唇までが切り裂かれ、ばっくりと割れて肉が欠落していく。歯茎が見えた。その歯茎にもじわじわと血の線が浮かびあがり、ぼろぼろと歯が欠落して落ちていく。


「あ、あぁ」


 左頬から侵食した傷はもう一本。まっすぐに彼女の顔を左から右へ横断し、その整った鼻を真横から切り裂いていた。ばくり、と上下に真っ二つに割れる鈴の鼻。どろりとどす黒い血が漏れて、彼女の顔の下半分を真っ赤に染めていく。ちらちらと見える切断された鼻骨。くしゃり、と少女の残った顔が苦痛に歪んだ。


「あに、き、あに、あにき、あにき」


 彼女が両手をフラフラと上げた瞬間、その両手にも疵か縦横無尽に走り始める。両手の指がボロボロと切り落とされて落下していく。ばっくりと割れた掌から白い骨が飛び出し、バネのように突き出した。


「あ、に、きぃ」


 ききききき、ききき、きき。

 聞こえる。少女を切り刻む音が――閃のことをもこれから切り刻もうとするであろう悪夢の音が。

 鈴らしき、崩れた少女は。拳を振り上げ、どん、どん、どん、と窓ガラスを叩き始めた。殆ど欠落した指で、切り裂かれて骨が見えている掌や甲で。彼女が叩くたび、窓ガラスには赤い飛沫が飛び散り、彼女の手は潰れて崩れていく。それでも少女な顔に、首に、肩にと刻まれる疵を増やしながらも殴るのをやめない。


「に、き、あにき、兄貴」


 どん、どん、どん、どん。

 きききききききききき、き。


「ああうううにき、あ、にき」


 どん、どん、どんどん。

 きき、ききき、ききき、きききき。


「に、い、き、あにき、あにぎぁにぎぁに」


 どんどんどんどんどん。

 きき、ききき、きききききききききき。


「あにきききいあににきいどかきにいにあにきあにきあにあにあにぎぉがにぎにいさぎききききあきあにぎあにきあににににいいいいいきききききききあああうううにききき」


 どんどんどんききどんききききどんどんきききききききどんどんどんどんききどんきどんどんききききききききききききききあにきどんどんぎぎきにききおどんどんどんどんききききききどんきどんどんききどんあにぎぃあどんきどんきききききききききききききききききききききどんどんどんききどんききききどんどんきききききききどんどんどんどんききどんきどんどんききききききききききききききあにきどんどんぎぎきにききおどんどんどんどんききききききどんきどんどんききどんあにぎぃあどんきどんきききききききききききききききききききききどんどんどんききどんききききどんどんきききききききどんどんどんどんききどんきどんどんききききききききききききききあにきどんどんぎぎきにききおどんどんどんどんききききききどんきどんどんききどんあにぎぃあどんきどんききききききききききききききききききききき――!




 びしり。




 うめき声と、呼び声と、引っ掻く疵の音。それらがぐちゃぐちゃになって混ざり合い、閃の気がおかしくなりそうになった時。

 嫌な音が、さらにそこに混じった。

 目の前の硝子に、クモの巣状の罅が。


「――――っ!!」


 窓が割れる。そうしたら、あの“鈴なのかどうかもわからないもの”がこちらに来てしまう。閃は一瞬躊躇った。もしあれが本当に鈴なら、自分は受け止めてやるべきなのではないのか?鈴が助けを求めているなら、どんな姿になっていても救うのが兄の役目ではないのか?そもそも自分は、我が身よりも鈴を救うために焔に依頼をしたのではなかったか?

 だが。窓が罅割れると同時に、窓枠からじわじわと広がってくるものを見て考えを改めた。疵が――窓の向こうからゆっくりと確実に、疵が窓枠から、壁と天井を伝ってこちら側に伸びてきているのだ。そう、彼女が喧しいほど叩いている、全ての窓から。


――……あれがっ……本物の鈴ならっ!


 近くの教室の引き戸に飛びついた。


――少なくとも……少なくとも俺を意図的に殺そうとなんかするもんか!


 ワガママで自由奔放すぎる妹だ。でも。




『兄貴ー!これ見て見てっ!すごいでしょー、兄貴のために焼いたんだからねこのクッキー!さあ、褒めるがいいぞっ』




 家族思いで。

 絶対に、本当に大事なものを裏切らない奴だ。自分がそれを信じなくてどうするのか。


「くそっ……開け!開けよっ!!」


 しかし、飛びついたどこかの教室の引き戸は、まるで壁に貼り付いてでもいるかのようにぴくりとも動かない。けして弱くはない閃の力で、全力で開けようとしているのに。どんなに横に引いても、押しても叩いても、開く気配がないのだ。


「開けてくれ、頼むっ……俺は!」


 じわじわと後ろから疵が迫ってくる気配を感じる。びしびしと窓が砕ける音も続いている。追いつかれるまであとどれくらい?自分の足に疵が追いついたら終わりだ。別の教室の前に走る。再びドアを叩く。やはり開かない。


「開けろ、開けろっ!俺は死ぬわけにはいかないんだ……鈴を、助けるまではっ!」


 助けたい。

 少なくともそれまで、消えるわけにはいかない。そう、まだ柿沼先生に本当のことを訊いてもいない。


「頼む、頼むからっ……」


 叩き続けた拳が痛い。恐怖、絶望、焦燥、悲哀――無力な己への、怒り。


「俺は、此処だ……助けてくれ、新倉、さんっ」


 唯一呼べるその名前を呼んだ、その瞬間。

 教室の引き戸が勢いよく開き――閃の体は強引に、中の闇へと引きずり込まれていったのだった。

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