<23・信頼>
もし、辿りついた黒幕が、閃にとってあまり知りもしない教職員なら。きっとそのまま、焔の言いつけを守っていたことだろう。だが、よりにもよって黒幕濃厚なその人物は、閃にとっても信頼のおける担任の教師だった。
柿沼晶子。
陽気で、ちょっと口うるさいところもあるけれど、基本はいつもにこにこ笑ってるおばちゃん先生。時には関西のおばちゃんのようなユーモラスな一面も見せてくれる人物。成績や人間関係で悩んだ時は、積極的に話を訊いてくれる。むしろ、悩みがあったら向こうから声をかけてくれることも少なくなかった。
それこそ、閃がバスケ部に入ってすぐに先輩達との実力差で思い悩んだ時も――明らかに学業に身が入らなくなっていることに、真っ先に気づいてくれたのは柿沼だった。まだ実力テストも中間テストも行う前だったにも関わらず。
『勉強は全てじゃないわ。だから、やりたくない人に無理にやれと、私個人はあまり言いたくないの。……でも、勉強がやりたいのに、それがやれる状況にない人は別よ。それはお金だけじゃなくて、メンタルでもね』
職員室なら話しづらいかと、わざわざ生徒指導室を借りて一対一の話をしてくれたことがあった。彼女は言った、授業態度や成績は全てではないけれど、それは時に生徒そのものを映す鏡にもなるのだと。
『閃君は、勉強はそんなに嫌いじゃないでしょう?妹の鈴さんと違ってね』
『……わかります?』
『ええ、私も教師やって長いからなんとなくわかっちゃうのよ。むしろ、そういう直感くらいしか、私の教師としての取り柄なんかないようなものだもの。……妹さんを見ていればわかるでしょうけど、勉強に一番才能ってものがあるとしたらそれは“好きになれるかどうか”だと私は思ってるわ。だって、好きな人はある程度苦にならずに努力ができる。でも嫌いな人は、最初の数分さえ苦痛。だから授業でもいつも時計ばっかり見て、早くこの苦痛の時間が終わって欲しいとしか思えないから、内容を覚えることもできない。貴方が勉強をそれなりに好きでいられるのは、それそのものが才能だということを理解するべきだわ』
その上で、と彼女は続けた。
『そんな貴方が、最近は授業中に上の空になっていることがとても多いなと思っていてね。顔色も悪いし、あまり眠れていないんじゃない?貴方はとても家族を大事にするし、友達も大事にする人。気を遣いすぎて、誰かとの間に板挟みになっていたりしない?例えば、部活とか』
まさに、彼女の言う通りだった。子供の頃からやっていたバスケットボール。小学校でも、中学校でもバスケを続けてきたことと、恵まれた長身もあって閃は子供達の中でも頭一つ抜けた存在だった。その実力が、そのまま才能というわけではない。ただバスケットボールのように“大抵の学校に部活動があって、普及率の高いスポーツ”では経験値の差と体格の差はもろに実力に反映されやすいのだ。
少なくとも、小学校でも中学校でも、大抵の生徒は一度や二度バスケットボールに触れている。
だからこそ、素人であっても自分もカッコよくプレイできたらいいと入部届けを出す生徒は少なくない。前年度のインターハイで全国大会まで行った強豪チームともあれば尚更に。
そしてそこで、最初の壁を突きつけられるのだ。
バスケットボールで、フィールドに出られる面子は五人しかいない。そしてベンチ入りできるメンバーも限られている。レギュラーに入れる人間は、その全国大会を勝ち抜いた先輩達を含めてほんの一握り。
『練習キツそうだけど、みんなで頑張ろうな!』
入ってすぐは、閃も始め一年生みんながそう言い合って励まし合った。けれど、少し練習を始めればすぐわかる。自分達はみんな、同じスタート地点にいないのだということが。
入って一カ月で、一年生が三人やめた。
その次の月には、さらに二人。二年生でさえ二人がやめていった。やめた一年生はみんな初心者、もしくは少しだけミニバスなどで齧ったことのあるメンバー。二年生でやめた人達は、初心者から一年間頑張って、それでも一軍に上がれなかった者達だった。
同じ一年生の中でも、実力差は歴然である。全国区のチームで、元初心者が簡単に這い上がれるほど現実は甘いものではない。辛うじて食い下がれたのは閃と秀晴、それから累矢といった少なからずバスケ経験の豊富な者達ばかりだった。
『
ある日、初心者の中でも一番やる気があって、一番練習を頑張っていた一年生がやめると言い出した。彼は誰より頑張っていたはず、ここでやめてしまっては勿体ないのでは、頑張れば二年生になる頃にはレギュラーになれるかもしれないのでは――言いかけた言葉は。ロッカーで去り際、閃を振り返った彼の目と声に潰された。
『俺、お前みたいに才能ないから』
たったそれだけだ。たったそれだけの一言が、閃にとってはどうしようもない衝撃だった。厳しい言葉で罵倒されたわけでもない。それでも、その言葉には滲んでいた――お前とは違う、自分の尺度で皆の苦労を測って励ました気になるな、と。
それだけで、折れそうになった。どんどん親しくなった友達がやめていくのを止められない上、自分自身も先輩達との実力差に悩み始めていた時期だっただけに。
今まで己が、どれほど自分の身体能力に胡坐をかいたバスケをしていたかを思い知った。先輩達には自分より体が大きくてパワーがある先輩などいくらでもいて、ゴール下で良いポジションをキープすることさえままならなかったから。
センター、もしくはパワーフォワードのポジションを任されることが多かった。ゴール下の競り合いと、いわば接近戦を主とするポジションである。インでボールを奪って得点することが求められている。それなのに、リバウンドがちっとも取れない。ブロックに阻まれて、シュートの成功率さえも大幅に低下していた。勿論それさえ、素人の一年生部員たちからすると“凄い”の部類に入ったのだろうが――それは、閃の立場ではけしてあってはならないことだったのである。
何故なら、監督も先輩達も自分が九重中の出身であることを知っている。全中で準優勝した学校のレギュラーメンバーであったことを。そして見た目通りの体格だ。何で推薦で入ってこなかったんだ、なんて監督には笑いながら言われたのである――お前には期待しているからな、と。
――みんなを引きとめることも励ますこともできない、監督や先輩の期待にも応えられない!こんなザマで、なんで俺はバスケやってるんだ……!
そうやって悩んだ結果、勉強にも身に入らなくなっていた。後で考えるなら、あれはみんなよりも一足早いスランプでもあったのだが、今までさほど苦労せず上達して来れた閃にとっては初めてぶつかった壁でもある。乗り越え方など知らなかった。そんな苦悩を、柿沼には見事に見抜かれたのである。
『貴方は、優しいのね』
洗いざらいぶっちゃけた閃に、柿沼は言った。
『だから、自分が背負うべきではないものまで背負ってしまう。誰かの失敗や挫折まで自分のせいだと思ってしまう。……でもね、それは行き過ぎるとかえって傲慢なのよ。同時に、貴方自身があまりにも可哀想だわ。バスケットボールが上手くなったのは体格に恵まれていただけじゃない、貴方が真摯な努力を続けてきたからでしょう?魔法使いに頼んで、楽してバスケが上手になれるようにしてくださいとお願いして、魔法をかけてもらったわけではないでしょう?』
『それは、そうですけど……』
『貴方の元から去ったお友達も、きっとそれはわかっていたんじゃないかしら。だから、自分には才能がないって言葉だけで済ませた。本当は嫉妬しているけれど、貴方に思うところもあるけれど、その先に言葉は自分の醜さを露呈させるだけと知っていたから。……本当は誰より頑張っている貴方に、言っていい言葉ではないと分かっていたから。彼がその言葉を言わずに飲み込んだ気持ち、貴方がもしまだ彼と友達だと思うなら……汲み取ってあげるべきじゃない?無理に悪い方に読み取って、時分を傷つける刃にしないで』
大事なことは一つよ、と彼女は言った。
『時には無理してでも、自分を褒めるクセをつけた方がいいわ。行き過ぎた自信を持てというんじゃないの。貴方を愛してくれる、誰かを苦しめないために大切なことよ。貴方はちゃんと、頑張っている貴方自身を褒めてあげて』
この言葉で、閃は察したのだ。実は鈴も、彼女に相談をしていたのではないかということを。閃の様子がおかしいことなど、鈴には一番にバレていたに違いない。だから、兄を励ますためにどうすればいいのか、先んじて彼女は柿沼に話していたのかもしれないと。あるいは柿沼が先に、心配そうにしている鈴に気づいたというパターンかもしれないが。
自信過剰になることと、自分をほんの少し褒めることは違う。言うほど、そこに差をつけるのは難しい。閃はいつだって傲慢になってしまう自分が恐ろしく、だからこそ今回も恐怖したのだ。自分は友達のことを救い、バスケもそつなくこなせると思って驕っていたのではないか。その結果がこの状況に繋がったのではないか、と。
――先生の言葉で、全部吹っ切ったわけじゃない。でも、先生の言葉で、もうちょっと頑張ってみようって思えるようになったんだ。
どうにかスランプを脱した頃、インターハイでベンチ入りを果たし、ウィンターカップからは正式にスタメン起用されることが決まった。同時に、ずっと頑張ってきた秀晴と累矢が一軍起用されることとなった。あの時笑いながら秀晴が言ってくれた言葉を、自分は忘れない。
『俺ら、お前がいるから頑張れたんだぜ!絶対にお前に追いついてやる、お前と一緒にコートに立ってやるって思ったからな!インターハイで出場した二宮商業戦は痺れたぜ、俺らも絶対お前みたいになってやるぞって思ったんだからな。やっとここまで来たぞー!』
自分の頑張りは、無駄ではない。
死ぬ気で立ち向かい続ければ、その姿は誰かが見てくれている。それを知ることができたのは、他でもない柿沼のおかげだ。時々厳しい時もあるし、先生としての立場が色濃くにじむ時もあるけれど、それでも。
――俺、先生が黒幕だなんて信じたくないんだ……!
四時間目も五時間目も柿沼の授業ではなかった。しかも柿沼先生は事情があって早退することになったから、と帰りのホームルームは副担任が行った。タイミング的に、どうしても何かがあるとしか思えない。閃は先輩に、部活に遅れるかもしれない旨をメールで伝えて、廊下を速足で進んでいるところである。
目指す先は、職員室。
多少危険があっても、直接柿沼に話を訊きたかった。本当に、みんなを危険にさらすような儀式を行っているのかを。そしてもしそうなら、どのような意図があってそんなことをしているのかを。
――くっそ、肝心な時に何でメール返さないんだよ!
授業中に決意して、こっそり焔に送ったメールはまだ返ってきていなかった。電話もかけているが、全く通じない。一体何処にいるのだろう。
――あの人を信用してないわけじゃないけど、もし黒幕が分かったとなったら……先生の身も顧みず、いきなり除霊にかかるかもしれない。だから、その前に……!
その時、閃は既に忘れかけていたのだった。
次の標的はお前になるかもしれない、気をつけろ、という閃の忠告を。
そして、逢魔ヶ時という時間の意味を。
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