<5・無惨>

 き、ききき、ききき。

 ゆっくりと。しかし確実にその音は、一階からこちらへ近づいてくる。言うなれば一階の廊下を歩き、階段のある方へ向かってきているかのような。


「あ、兄貴。何、こんな変な音」


 何かがおかしい、と鈴も思い始めたのだろう。そっと、震える手が閃の制服の袖を掴む。


「これ、キズニ様、なのかな」

「し、知るかよ」


 鈴の言葉から、足音が聞こえるとか影がちらっと見えるとか、そんなぼんやりした現象が起きるだけなのかと思っていた。こんなはっきりと、明らかに異音とわかる音が聞こえるようになるとは思ってもみなかったのである。


「!?」


 ぱちん、ぱちん。

 唐突に、二階の灯りが明滅し始めた。閃の背中を、ぞぞぞ、と言葉にできぬ悪寒が這い上がっていく。電気が消えたら悪霊が来る、なんてお約束を信じているわけではない。ただ、何か光を侵食しかねないものがこちらに迫ってきているような気がした。

 やってくるというのは、本当にこの学校の守り神様とやらなのか?

 本当に、この学校の生徒が好きで、願いを叶えたいと思っているような存在なのか?

 だとしたらこの、体中が震えるような妙な感覚は、頭の中で鳴る警鐘は――一体。


「あ、あれっ」


 ぱち、ぱち、ぱち。

 ランダムに明滅する階段の踊り場の方。何か、おかしなものが視界の端に映った。


 きききき、き。


 それが、軋むような音と共に、少しずつこちら側に侵食してきているのである。それは。

 それは――疵、だった。

 猛獣が爪で引っ掻いたような、大振りの刃物を引きずったような複数の疵が。廊下に、床に、音とともに少しずつ階段を這い上がってきていたのである。唖然と自分達が見つめているうちに、疵はどんどん踊り場を埋め尽くし、廊下を、床を、天井をも同時に侵していくではないか。踊り場に貼ってあった鏡が、びしびしと蜘蛛の巣のような網目模様を作って砕けていくのがわかった。

 そして、疵は二階へ続く階段へ。

 自分達の、方へ――。


「り、鈴!逃げろっ!」

「えっ」


 呆然と立ち尽くしていた鈴の手を無理やり掴み、閃は走り出した。二階の廊下を、彼女を引きずるようにして疾走する。


「あれはやばい!何かよくわかんねーけどやばい!俺の勘が言ってる!」

「ま、待って閃、痛いって」

「そう思うなら自分で走れこの馬鹿!」


 足は彼女の方が速いくせに、さっきからちっとも自分で動かしてくれないのだから困った妹氏である。廊下を半分も走ったところで、疵は階段を越えてこちらに向かって来ていた。廊下のタイルも、天井も、掲示板もびしびしと切り裂いてこっちに伸びてくる。硝子が砕ける音が派手に響き渡り、電気の明滅が激しくなった。

 まずい。あれは絶対にまずい。

 触れたら最後、人間の体にもあの疵を刻まれる!


――あれが守り神様!?そんなわけあるか!!


 悪質なことに、アレは一階の廊下から来ている。一階はもう全部疵に埋もれているかもしれない。自分達には、アレが疵を刻みながら何かが近づいている証拠なのか、それとも疵を元にした何かの領域を広げているのかも判別がつかないのだ。とすると、一階に戻る選択はなかった。傷だらけの廊下に触れたら最後、自分達の体も粉々のバラバラにされてしまうかもしれないからだ。


「やだぁ」


 鈴がついに泣き声を上げた。


「あれ、触ったらまずいの?ねえ、まずいの、あたしたちも粉々にされちゃうの?」


 そんなのわかるわけない。でも、そうだと思うしかない。そんでもって、どれほど恐ろしくても泣いている場合ではないのだ。東端の廊下まで行くと、とにかく階段を上に駆けあがった。二階の窓から飛び降りた方が良かったのでは、と一瞬思ったものの後の祭りである。


――くそ、このまま、上に逃げたって、ジリ貧じゃねえか……!


 ききき、きき、ききき。

 音は、次第に速度を増しているような気がする。バスケ部で鍛えているはずなのに、緊張と恐怖でもう息が上がっていた。これでも一年生でレギュラー勝ち取ったのに情けない――そう思った次の瞬間。


「はっ」


 三階に駆け上がった瞬間、鈴が足をよろめかせた。汗で滑り、彼女の手が閃の手の中からすり抜けていく。


「う、そ。あに、き」


 呆然とした様子で、踊り場に落ちていく鈴の姿がスローモーションに見えた。その踊り場にはもう、あの無数の疵達がそこまで迫っている。

 早く助けなければ。はっとして閃が階段を駆け下りようとするのと、彼女の体が踊り場に落下し、大の字に広げた左手の先に疵が追い付くのは同時だった。

 びしり、と。床や廊下に疵を刻むのとは、まったく異なる音が。


「ぎゃ」


 彼女の左手の、中指と薬指の間がばっくりと割れた。音と立てて肉が裂傷していき、骨がバネ仕掛けのように飛び出していく。傷は手首から、さらに肘の方までまっすぐ腕を真っ二つに切り裂きながら進行し――。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 やや遅れて血が噴き出すのと、彼女の凄まじい絶叫が響くのは同時だった。


「痛い、痛い痛い痛い痛い痛い!あ、あたしの手、て、てが、て、て、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 疵は、腕だけでは済まなかった。太ももに疵が到達し、その鍛えられた筋肉を容赦なく真っ二つに切り裂く。白い大腿骨が肉の切れ間から覗いた。スカートが切り刻まれ、制服を鮮血が真っ赤に染めていく。腹部を疵が横断する時にはぶりゅん、と奇妙な音がした。肉が割れると同時に、切り裂かれた布の間から腸がでろりと飛び出して床に溢れだす。無事な手足で暴れて逃げようとするも、その無事な部分さえどんどん疵に浸食されて、動かしようもない状態に陥っていく。


「だ、だずけ、あにき」

「あ、あああ、あっ」


 閃はと言えば。

 何もできなかった。彼女を助けようと階段を降りかけたところで、完全に恐怖で体が凍りついてしまっていた。目の前で起きている光景が信じられない。さっきまで普通に笑って、歩いて、走っていた片割れの少女が、一瞬にして全身を切り刻まれて血の海に倒れている。

 地獄の苦しみの中、彼女は不幸にもまだ生きていた。口から血泡を吹き、白目を剥きながらも、びくびくと全身を痙攣させて。

 ごろり、と音がして。彼女の左足が本体を離れ、踊り場を転がった。切り口から寸断された白い骨と、脂肪と肉の塊が見えている。


「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 幽霊のようなものを見たことはあった。

 怪異のようなものに遭遇したこともあった。

 でもこれは。ここまでのものはさすがに――想像の範疇を、肥えている。

 頭を掻きむしって絶叫し――そこで、閃の意識はぶつりと途切れたのである。




 ***




 何が起きたのか。鈴は何故あのような目に遭わなければいけなかったのか。

 残念ながら今の閃に、それを想像するだけの情報もなければ、経験も、知識も何一つありはしなかった。

 わかっているのはただ一つ。その後、校舎の見回りに来た警備員に、三階の階段の前で倒れているところ閃一人が発見されたということ。

 血まみれの鈴の姿も、疵も、どこにも見つからなかったということ。

 全てが何か悪い夢だったのか?そう思いたくも――彼女が持っていた猫のミミーちゃんのボールペンが、最後に鈴を見た二階の踊り場に落ちていたということ。

 そしてそのまま。鈴が、翌日になっても家に帰ってこないし、スマホも繋がらないという現実。


――俺のせいだ。


 自分と一緒におまじないの類をやるとろくなことにならない。それは過去の経験でよくわかっていたことのはずである。それなのに、彼女に押し切られて結局付き合ってしまった。もっと強く止めていれば、きっとこんなことにならなかったはずだ。

 そして、あのキズニ様?とやらに襲われた時も。もっとちゃんと自分が彼女の手を掴んでいれば、あそこで彼女が踊り場に落ちなければ、そして落ちてすぐ自分が勇気を出して助けに行くことができていれば――きっと鈴が連れて行かれることなどなかったというのに。


――畜生。俺が、あれもこれも間違えたせいで……!


 翌朝。

 とても学校に足を運べる状態でなかった閃は休みを貰い、その上で学校の最寄駅まで来ている。

 目の前にあるのは、月曜日に通った裏道。午前中であるため明るく、紫色の看板がくっきりと見えていた。

 新倉心霊相談所。

 こんな胡散臭いところに頼りたくはない。ただ、ぶっちゃけもう鈴を救うために最終的に寺も神社もかたっぱしから頼るつもりでいるのだ。ならば多少嘘っぽかろうが、頼れそうな施設には全部声をかけていくしかないだろう。あからさまに詐欺師だと思ったら、そこで退けばいいだけのことだ。


――多少ぼったくられてもいい。鈴を、助ける望みが僅かでもあるのなら……。


 そして、古市閃はその事務所の戸を叩いたのである。

 それが運命の分かれ道だと、知る由もなく。

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