ニュータイプ
改札のゲートが音を立てて閉じる。松原は舌打ちをした。彼の後ろに続こうとしていた帰宅中のサラリーマンは、スムーズな歩みを妨げられて、少々むっとした表情をして、隣の改札の列に入った。松原はいったん改札から離れて、薄いジャンパーのポケットをまさぐった。薄い財布には小銭しか入っておらず、松原はまた舌打ちを漏らした。腹が減って少しいらいらしていた。
駅構内の電光掲示板を見ると今夜は、『砂塵注意報』と『熱帯夜注意報』が出ていた。
「ついてねえな。こんな夜に歩いて帰んなきゃならねえなんて」
松原は愚痴を吐き捨て、一つくしゃみをしてから首にかけていた防塵マスクを鼻まで装着した。古いマスクのヒビに入り込んでいた砂塵が松原の鼻と喉をくすぐる。鼻水を拭いたくなるが、すすりあげて我慢した。駅を後にしようと踵を返したところで、雑踏の中に懐かしい顔を見つけた。
「あれっ、もしかして須藤か?」
手を挙げて合図をすると、あちらもすぐに松原のことに気付いたのか、合図を返した。
「高校卒業ぶりだな。こんなところで会うなんて」
そう言いながら近づいてきた須藤はこぎれいなスーツに身を包んでいた。防塵用のコートを脱いで腕にかけている。
「これから帰るのか?」
松原が聞くと、須藤はスーツの袖をまくり上げ、見るからに高級そうな時計で時間を確認した。
「ああ。今日は妻と過ごす予定なんだ」
「ふうん、お前、結婚してたのか」
言われてみれば、ぴかぴかな時計が付いている左手には、薬指にシルバーのリングが光っている。学生時代から須藤はよくできた人間だった。成績も容姿も申し分なく、ほとんどのことをそつなく器用にこなす。さらに両親の実家は太い。そのくせ威張ったところもなく親しみやすいため、大企業勤めの金持ちサラリーマンに成長し、家族と円満に暮らしているさまは容易に想像できることだった。しかし、想像するのと実際に目の前に現れてその事実を見せつけられることは、また別の話である。改札を通るほどの金もケチらなければならない今の松原にとって、同期の男がぴかぴかする時計や指輪をしているのを視界に入れるのは、あまり気分のいいものではなかった。
「なあ、せっかく久しぶりに会ったんだからさ、ちょっと飲みに行かないか?お前、相当成功してそうじゃないか。最近の話を聞かせてくれよ」
松原は須藤の肩に手を回し、半ば強引に誘った。最近、金持ちになったかつての友人と酒を飲める機会があまりなかったので、退屈していた時期だった。
「うーん、そんなに時間はかけられないと思うけど、少しならいいよ」
須藤は防塵コートを羽織った。二人は駅の外に出た。夜だというのに、視界が黄みがかってぼんやり明るく見えるのは、汚染された大気中を無数の砂塵が飛んでいるからだった。松原は思わずくしゃみをした。須藤は心配そうに松原に視線を送った。松原は生まれつき、この砂塵を吸い込むとアレルギーやぜんそくを起こしてしまうのだった。
「近くに僕の行きつけの店があるから、そこへ行こう。大丈夫、10分も歩かないよ」
須藤が歩き出し、松原は砂塵の中、目を細めながらついていった。少し歩き始めただけで、松原の全身からは汗が噴き出す。砂塵に加え、今夜はまるで灼熱地獄のように気温が高いのだった。全身の細胞が危険だと叫んでいる。熱中症にならないよう、店についたらすぐにスポーツドリンクを飲まなければ、と松原は思った。最近の飲食店はたいていの店にスポーツドリンクが常備されている。
須藤の行きつけの店というのは、見るからに高級料亭であった。須藤の顔を見た店員がすぐに二人を個室に通した。松原は涼しい冷房と冷たいスポーツドリンクで人心地ついた。松原がスポーツドリンクをがぶ飲みしている間に須藤が注文を済ませていたようで、飲み終わりと同時に、高級そうな酒とつまみの天ぷらが出てきた。
「先輩が連れてきてくれてからというもの、ここの酒が大好きになってね。君にも飲んで欲しい」
おそらく須藤は松原の手持ちがないことは察しているということは、松原にもわかっていた。ここは黙ってごちそうになろう、と松原は開き直った。友人に奢られることには慣れている。奢られて申し訳ない気持ちにはなるが、ないものは仕方がない。自分にできることと言えば、しけた身の上話を面白おかしく話すことくらいだ。
「なかなか美味いな」
酒の良し悪しなどわからなかったが、松原は言った。須藤は箸を使っていたが、松原は天ぷらを指先でつまむとひょいと口に放り込んだ。
それから二人はこれまでの自分たちのことを話した。須藤は一流大学を卒業後、商社の大企業に勤め、今では社内で出世し、忙しくも充実した毎日を過ごしているようだった。その成功に満ちた完璧なストーリーを須藤が嫌味なくさらりと語るので、松原はそこに感心した。
「俺なんか、毎日うだつの上がらねえ日常だよ」
須藤のことを羨ましく思う気持ちはあるが、威張らない須藤の態度の前では、素直な気持ちにさせられる。また、須藤は聞き上手でもあったため、松原は気分が良くなって、自分の現状を洗いざらい話してしまった。大学進学の金が無かったために高校卒業後は工場で働き始めたこと、可愛い女の子に何度もアプローチしたがフラれてしまったこと、工場が倒産し、今はフリーターをしていること、再就職先を探しているが、生来のアレルギーがハンデとなり、なかなか職に就けないこと、アレルギーの医療費が馬鹿にならず、生活はギリギリであること。
「まったく、不平等な世界だと思わねえか?生まれついての身体的特徴やら親の状況やらでこんなにも境遇に差があるだなんてよ」
松原が漏らす愚痴のすべてに須藤は頷きながらしっかりと耳を傾けた。酒もかなり進んだころ、須藤のスマートフォンに着信が入った。かなり長いこと飲んでいたことに松原は気が付いた。
「今の、もしかして奥さんからか?今更だけど、付き合ってもらって悪いな。ちょっと遅くなっちゃったけど、今日、奥さんと何を約束してたんだ?」
「いや、約束というほどのものではないんだ。ちょっとしたサプライズ的なニュースを持ち帰ってやりたかっただけだよ。ニュースを伝えること自体は別に今日じゃなくたってよかった。今日は松原と久しぶりに飲めたから満足しているよ。妻には毎日会えるけれど、松原にはめったに会えないからね」
「いいなあ、毎日会える妻。俺も奥さんをもらいてえよ」
須藤は少し笑って、「ちょっと失礼」と席を立った。須藤はスマートフォンと、カバンの中から取り出した資料の挟まったファイルを持って個室を出て行った。出て行った後で、松原はファイルから滑り落ちたのであろう資料の一枚が床に落ちていることに気が付いた。電話はどうやら妻ではなく、仕事関係のものだったのだろう、と松原は思いながら紙を拾い上げた。
そこには誰かの身体情報が詳細に記載されていた。新潮や体重、アレルギーや遺伝的な病気についての情報と、中でも異質だったのは、顔のパーツの比率についてや、知能指数、性格の情報だった。ところどころ情報のところに赤ペンで印と修正指示が書いてある。
扉が開く気配がして、反射的に松原はその紙を自分の背後に隠した。
「おう、電話どうだった?」
須藤はカバンの中を何かを探すようにごそごそ探ったが、目当てのものは見つからなかったらしく、少し首をひねるようにしたが、次の瞬間には両頬に微笑みを浮かべ、「大したことじゃなかった」と言った。
「どこからの電話だったんだ?奥さんと話すときに資料なんて作成しないだろ。それとも、須藤レベルの夫婦なら資料を作って夫婦会議したりするのか?本日の議題は、なんて言って」
「まさか。今日妻に発表する予定だったニュースについてだよ。ちょっと予定外のアクシデントが起きたみたいだから、今日急いで妻に伝えてしまわなくてよかったよ」
「ニュースってなんだよ」
「僕らの子供のことさ。妻には内緒でいろいろデザイナーと相談していて、あっと驚かせるつもりだったんだ。でも、そのサプライズはもうちょっと先になりそうだ」
さらりとした調子で須藤は言った。
「妻に内緒で?妻に内緒で子供ができるはずないだろう。あと、デザイナー?なんでこの文脈でデザイナーが登場するんだよ」
松原の困惑した表情を見て、須藤はあっと口元を押さえた。時々この男は女みたいなしぐさをする。
「ごめん、松原は知らなかったんだね。デザイナーベイビーのこと」
「デザイナーベイビー?え、デザイナーって、あの?」
デザイナーベイビーという言葉自体は松原も知っていた。生まれてくる前に遺伝子を編集して、より理想の特徴を持って生まれてくる赤ん坊のことだ。
「完全オーダーメイドだから、いろいろ手続きが複雑なんだ。修正を何度も提出したりしないといけない」
「デザイナーベイビーが実現するような時代になったのか」
「そうだよ。お金はかかるけれど、誰でも利用できる」
金持ちは子供まで金で買うことができる。松原は驚きの表情をした。
「いい制度だよ。生まれてくる前に、彼らの人生の障害になりそうなものは全て事前に取り除いてあげられる。先天的な病で早くに命を落とす運命だった赤ちゃんを救うこともできるし、そのまま生まれてきた場合よりも幸福な人生を送らせてあげられる」
「遺伝子をいじるんだろう?危険とかはないのか?」
「今はほとんどないよ。事故が起きてしまうリスクは既に、飛行機事故に遭う可能性と同等レベルになっているから。リスクよりも得られる期待効用の方がずっと大きい。優秀な人材を人為的に生み出すことができるのだから、この国の政府が進んで導入したんだよ」
「俺はそんなに新聞やらを読むほうじゃないけど、そんな大きなニュース聞いたことなかったな。金持ちだけには伝わるネットワーク的なものがあるのかい」
「この制度は今に始まったことじゃないよ。30年くらい前かな」
「30年?そんなに前なのか。30年も前からデザイナーベイビーが作られているのなら、そいつらはとっくに大人じゃねえか」
「そうだね。僕らの子供は第二世代になる」
「ちょっと待て。じゃあ第一世代って」
松原はすっとんきょうな声を出した。
「僕らの世代さ」
須藤はあくまで淡々と言う。
「驚いた。そうだ、そういえばお前、実家はかなり金は蓄えていそうだったよな。ひょっとしてお前もデザイナーベイビーだったりするのかよ」
「そうだよ」
あっさりと須藤は認めた。特に隠すべきことでも何でもないというような落ち着いた態度は、生活の中にデザイナーベイビーという概念が当たり前のように浸透しているさまをうかがわせた。
「お前の優秀な成績も、その容姿も、アレルギー一つない身体も、暑さにやけに強い耐性も、全部デザインのおかげなのか?」
確認するように松原は聞いた。
「そうだね。両親がいろいろオプションをつけてくれたらしい」
「普通なら嫉妬の気持ちが巻き起こって、お前の整った顔に妬みのパンチの一つも浴びせたくなるようなところだけど、なぜだかお前と話してるとそういう気持ちにならないのが不思議だ」
「僕の話し方や声の調子も、デザインによるものなのかもしれないね」
「誰にでも好印象を持たれやすいその性格すらもデザインされてるってわけか」
「その方が生きやすくなると両親が考えてくれたんだろうね。ほら、最近は環境破壊やら人間の居住可能区域の縮小だとかで、どんどん生きづらい世界になってきているだろう。そんな険しい世界でも生き残っていけるようにってね」
「世界は超暑いし、超空気汚ねえし、海も水も超汚ねえからな。人間も環境に合わせてパワーアップが必要なのか」
「そう。人間は進化の必要に迫られているんだ。他の生物たちと同じで、環境に適応しないと種が存続していけない。デザイナーベイビーとは、進化の方法だよ」
松原は皿に残った最後の一つの、ゴキブリの天ぷらを箸でつまんだ。養殖された強い生物であるゴキブリは、今や人類の貴重なたんぱく源だ。ものすごい速度で悪化していく地球環境に耐えられたのはわずかで、養殖できるまでに進化を遂げたのはゴキブリとその他数種の虫だけだ。それ以外の大半の生き物は自然淘汰され絶滅した。
「進化ってのは、その過程においては淘汰の連続だ。同じ種でも、弱い個体は生きられない。俺はアレルギーをたくさん持っているし、身体的に人間の中で弱い個体だ」
「残念なことに。でも人間には社会福祉という制度があってよかったと思う。もし君がゴキブリだったらと思うと悲しいね」
強い個体が弱い個体に対して吐くしらじらしいセリフだが、須藤の口を通すと、本当に悲しんでくれているように聞こえた。目の前の男が心優しいことに松原は安心する。
「やっぱ人間にはゴキブリと違って心ってもんがあるからな」
ぱくりと天ぷらを食べる。
「ところで、同じ種の中で弱い個体は淘汰される。それはある意味必要なことだ。生物の時間に習った気がするんだが、同じ種が増えすぎても、住める環境が狭い場合、困ったことになる。だから、弱い個体が淘汰されることで、間引きをしなきゃならない」
「狭い場所に同じ種が増えすぎると共食いなんかが起きるみたいだね」
「らしいな。で、それを今から試してみようと思うんだ」
松原はすばやく立ち上がり、持っていた箸を須藤の眼球に突き立てた。二本の鋭い棒は眼球をはじけさせ、いとも簡単に頭蓋骨の中に侵入した。脳みそに突き刺さる。噴水のようにあふれた血液が、松原の顔と顎下にぶら下げたマスクを染めた。
須藤は刺されていない方の目をきょろきょろ動かし、血走った瞳で松原を見た。須藤の手のすぐそばには彼の箸が置かれており、須藤は両手をまだ動かすことくらいはできるはずなのに、それを握って防衛や反撃をしようともせず、意味もなくばたつかせていた。
「須藤、たぶんお前は善良な性格をデザインされすぎちまったんだよ。今も俺に反撃できないだろ?お前は争いを避けることに対してはものすごい能力を授かっていた。俺に比べて進化していた。証拠に俺はお前と話していて、持っていたはずの妬みや羨みを忘れさせられたし、ずっと穏やかな気持ちだったんだ」
松原は汁物の椀の底をかき回すような気軽さで、須藤の脳みそをかき回した。須藤の鼻や目、口から赤い液体が溢れだす。
「でもお前は、俺の単純な疑問によって加えられた危害には反応できない。俺はお前と俺のどっちが強い個体か純粋に知りたかっただけだよ。お前は自らに降りかかる危険を、デザインされた能力だけでは避けきれなかった。どんなにアレルギーが少なくても暑さに強くても、それだけじゃ人間は強い個体とは言えないんだな。なぜなら心があるからだ。心のデザインに穴があったから、俺の前ではお前は弱い個体だった」
箸を眼窩から引き抜く。まだ須藤の身体はびくびくと痙攣している。残った方の目は松原を捕らえていた。
松原は座っていた時に背中の後ろに隠していた紙をびりびりに破いた。資料の中のデザイナーベイビーはこれでもう生まれてくることはない。須藤の死にかけの顔を使ってスマートフォンのロックを解除し、中を検める。やけに顔の整った女性とのツーショットの壁紙が現れる。
「やっぱりこれくらいの年齢になってくると、みんな結婚出産がピークになるなあ」
松原はスマートフォンをテーブルに置き、須藤の財布を持つと、次の淘汰されるべき個体を探して、個室を後にした。
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