七月のくらげ

 午前六時前の浜を歩いていた。


 梅雨の去った夜明けの空は、真夏のように堂々とはしておらず、初秋のように飄々と落ち着いているわけでもなく、まだ微妙な色をして、初々しく潤っているようだった。何者になるかを決めかねたような空気は、潮の匂いがした。


 彼はあくびを一つした。浜辺からほど近い場所に住む彼は、毎朝この浜辺を散歩していた。ただ波の音だけを聞きながら早朝の誰もいない砂浜を歩くのは、歌詞を考えるのにちょうどよかった。一晩中ピアノの前に座り、ああでもないこうでもないと思案し、ギターをつま弾いては楽譜にペンを走らせる。そういう生活をして、気付けば3年が経っていた。理想の音楽も、それだけに陶酔していられる生活も、まだ何も手にしていないのに、銀行口座の預金はじわじわとタイムリミットを仄めかしていた。


 彼は波打ち際に何かが打ち上げられているのに気付いた。隣国から流れついたゴミの類ではなさそうだった。白い流木を踏み越えて、波のそばまで歩いていく。


 それは、巻貝だった。両手でないと持ち上げられなそうなほど大きい。妙なことにそれは、緑や青や透明が混じり合ったような色をしていた。彼は巻貝の下に両手を差し入れて少し持ち上げた。しゃがんだ彼の足を波が撫でていった。


「シーグラス?」


 持ち上げてみると、巻貝の表面の様子が分かった。さらりとしていて、少しひんやりとしている。砂浜に時々落ちている、波に洗われて角が取れ、水との摩擦によって丸みを帯びたガラスの破片、シーグラスと同じ触感だった。すりガラスのような表面は淡く光を透過する。彼が爪で表面をはじくと、どうやら本当にガラスでできているような音がした。


 シーグラスは両手で持ち上げなければならないほど大きなものはない。海の波に揉まれているときにほとんどが割れて小さな破片に分割されていくのだ。彼は手の中の奇妙な物体を眺めた。まさかガラスとよく似た物質で自らの殻を形成する種類の巻貝がいるとも聞いたことがないし、これは誰かの創作物で間違いないだろう。自然的な黄金比で作られた不自然なガラス細工。しかし、グラデーションのように青や緑や透明な色のついているこの作品には、継ぎ目が一切見つからないし、触ってみると貝の内側もさらりとしたシーグラスの触感になっていた。これほどまで大きなガラスの塊が、その姿を保ったまま波に表面を削らせるなんてことができるのだろうか。


 彼は辺りを見渡した。浜辺には依然として誰もおらず、波の音だけがしていた。彼の足元でまた大きめな波が泡になった。履いていた革靴とスラックスを濡らす。


 何か、波の音ではない音が聞こえたような気がして、彼は耳を澄ませた。どうやら、音は巻貝の奥から聞こえてくるようだった。波打ち際に膝をつき、貝に耳を当てる。


 音楽が聞こえた。それは、聞いたこともないような音色だったが、どこか懐かしく、まるで生き別れていた同胞と邂逅したかのような気がした。ずっと自分が追い求めていた美しさがそこにはあった。まさに憧れであり、理想だった。


 波の音が邪魔で、彼は貝を耳に当てたまま立ち上がってその音楽を聴いた。夢中になっていた。一音も聞き逃すまいと目を閉じて、貝を耳に押し当て続けた。


 神様だ。この貝には音楽の神がいる。


 無性に音楽を作りたくなり、彼は貝を波打ち際に放り出すと駆け出した。頭の中がそっくりなにかと入れ替わってしまったかのように思った。あの音によって目が醒まされたような気がした。昨日まで自分はただ眠ったように生きてきただけなのだ、と彼は信じた。砂浜に落下した巻貝は無数のシーグラスに砕けて、波の間に見えなくなった。


〇 〇 〇


 午前六時前、音楽を聴いていた。


 細く開けた窓から、梅雨明けの少し潤いのある空気が、部屋に入ったり出たりしていた。絡まったイヤホンを外して、静けさの中耳を澄ますと、遠くの国道を走る車の音が聞こえる。いつのまにかすっかり夜は短くなり、窓から侵入した早朝のうすぼんやりとした明るさが、部屋を青白くしていた。窓際に置いた水耕栽培のヒヤシンスが青い花を咲かせていたが、その根はすっかり瓶の中の水を飲み干し、少し乾いていた。


 彼女は目をこすった。一晩中同じプレイリストを流し続けたスマートフォンの充電は、残り5%となっていた。耳に入れっぱなしだったイヤホンのせいで、耳の出っ張った軟骨のあたりがじんじんと熱を持っていた。


「喉、渇いた」


 掠れた声で呟き、彼女はゆっくりと立ち上がってキッチンに向かった。


 突然の訃報だった。彼女が敬愛し、陶酔していたアーティストが、昨日この世を去った。決して大衆的に愛された音楽家ではなかったが、類まれなる音楽センスと、誰か一人に向かって真剣に語り掛けるような歌詞で、一部の人間からは絶大な支持を得ていた。


 これから未来永劫、そのアーティストによって作られた新しい音楽を聴くことはできない。心にぽっかりと穴が空いたようだった。彼女はその音楽に何度も救われてきた。息をするのも面倒な日も、耳からそれを流し込めば身体が動いた。いつしかその音楽は、彼女の人生とは切っても切り離せないほどに大きなものになっていた。それ以外では満足できなかった。


 ガラスのコップに水道水を注ぎ、その場で飲む。心に空いた穴を埋めようと、遺作を聞き続けても、底抜けの柄杓で水を掬うようなものだった。一瞬満たされても、次の瞬間には穴だけが残っている。


「喉、渇いたなぁ」


〇 〇 〇


 正午過ぎの街を彼女は歩いていた。晴れていたが、入道雲にはなりきらない千切れ雲が微妙に空を占め、ぬるい風が吹いていた。日傘を差す。


 花屋の角を曲がったときだった。彼女は足を止めた。


 青年がギターを弾いていた。


 足がその場で動かなかった。そっくりだった。心の中で求めていた音楽がそこにあった。もし、あのアーティストが生きていたなら、作ってもおかしくないくらい、上手くて美しい曲だと思った。青年のことは全く知らなかったが、生まれ変わりなんだと信じてもいいような気がしていた。


 曲が終わる。青年は一心にギターをかき鳴らしていた腕を弛緩させる。彼の首筋を汗が流れていった。


 余韻でぼうとした頭のまま、音楽にあてられてびりびりと騒いだ細胞がゆっくりと静まっていく。彼と目が合った。


〇 〇 〇


 二人は並んで砂浜を歩いていた。夏がさらに近づいていたが、早朝の海辺は相変わらず静かで、涼しかった。


 彼は波打ち際を覗き込むようにして歩いた。時折、波の中に手を差し入れ、何か拾い上げた。


「何を拾ってるの?」


 彼女が聞くと、彼は拾い上げたそれを手のひらに乗せて彼女の方にさしだして見せた。淡い青のシーグラスだった。彼はそのままシーグラスをポケットに入れた。鋭利なところや透明なところがないシーグラスだった。


「少し前、この浜で不思議なものを見つけたんだ。ガラスでできた貝だった。信じられないかもしれないけれど、貝を調べていたら、貝の中から音が聞こえたんだ。僕はその拍子にそれを落として割ってしまった。割れたガラスを集めれば、作り直せるような気がするんだ」


 彼女は彼の部屋のテーブルの上に並べられていたシーグラスを思い出した。しかし、テーブルの上に置いてあったものはどれも、最近割れたばかりのガラスとは思えないほど表面が曇りガラスのように削れていたはずだ。


「作り直したいのね」


 貝というのは何かの比喩で、シーグラスの収集は何かの祈りなのだろうか、と想像しながら彼女は言った。出会ってそこまで長い間いっしょにいたわけではないが、彼は度々比喩的な表現を好むことは知っていた。それが彼の音楽制作に一役買っているように思えて、彼女は気に入っていた。「ああ」と彼は頷く。


「あの中にはたぶん、神様がいたように思うんだ」


「神様?」


「君は僕の音楽を好きだと言ってくれたよね。でも、僕が思うように音楽を作れるようになったのはつい最近のことなんだ。自画自賛に聞こえるかもしれないけど、僕は最近の僕の作品を心底美しいと思っている。今までの僕は、作りたい理想の音楽は頭の中にあっても、そのイメージを捕まえてカタチにすることができなかった。こういう作品が作れたらいいのに、と夢を見ながら創作を続けていた。そんな時、神様に出会った。貝の中の神様が僕の頭に流れ込んできて、僕をすっかり変えた」


「あなたの音楽は、神様の仕業なんだ」


「そう思う」


「あなたの今までの積み重ねが、葉の上のしずくのように一気に流れ落ちたわけではなく?」


「貝を組みなおしてみたらはっきりするよ」


 彼はまた波間に手を入れ、緑がかったシーグラスを拾い上げる。貝は、神様を運ぶ家だったのだろうか、と彼女は想像する。


「あなたの頭の中に流れ込んできた神様をいったん認めるとして、あなたは貝を組みなおして神様をどうしたいの?」


 彼は波で洗って砂を落としたシーグラスをシャツの裾で軽くなでて、ポケットに入れた。海水で濡らしてしまった後で、彼はそのシャツが久しぶりに買った新品だということを思い出した。


「海に返したいんだ」


「どうして?神様が頭に宿っているなら、無理に追い出さなくたっていいじゃない」


「この音楽は神様のもので、僕のものではないからさ」


〇 〇 〇


 深夜、彼女はあのアーティストのプレイリストを聞いていた。


 細く開けた窓から遠くを走る終電の音がする。夕方に降った霧雨がまだ低い地面近くを漂っているような気がした。窓際のヒヤシンスは茶色く枯れていたが、根は取り換えられた綺麗な水に浸かっていた。


 数週間前の喪失感はいくらか和らいで、心に空いた穴が小さくなっているのを彼女は感じた。水を柄杓で掬って飲む。柄杓の底には穴が空いているが、小さな穴だから、ずっと飲んでいれば少しずつ心が満たされていくような気がした。


 なにがこの穴を塞いだのだろう、と彼女は考える。やはり、彼の作る音楽だろうか。もう二度と聞くことができないと思っていた理想の音楽を、街の中で偶然目の当たりにして、喪失を忘れられたのだろうか。


 彼女は動画ストリーミングサービスを開いて、彼の作った音楽を再生した。彼の音楽は少しずつだが世界の多くの人に認知され始めていた。


 彼女は首を振った。彼の音楽の中にあのアーティストと似たものを感じているが、二人の音楽はまったくの別物だ。どちらもよく似た美しさを備えていたが、聞けば聞くほどに二人は違う。


 そう考えたとき、彼女はぞっとして、イヤホンのケーブルを引っ張って自分の耳から抜いた。


「私は、この音楽以外では満足できないはずだったのに……!」


 あのアーティストの作る音楽が好きだった。あのアーティストは、他のどの作曲家とも違う。誰にも模倣できない、唯一の音楽だった。だからこそ失ったときに喪失に暮れたのではなかったのか。


 少し指先が震えていた。私はもしかして、このアーティストの曲だから好きだったんじゃなくて、それとよく似た雰囲気だったら何でもよかったのか?あのアーティストが作り出す繊細な世界観の機微を理解して、だからこそ傾倒していたのではなかったのか。


「神様に、なったのかな……?」


 神様があの街角で自分の足を止めさせたのだと彼女は信じたくなった。


〇 〇 〇


 深夜、彼はデスクライトに照らされたシーグラスを眺めていた。


 一つを指先でつまみ上げて光にかざしてみる。今も頭の中に新しいメロディがシャボン玉のようにふわりと現れては目の前できらめいて、逃げるように宙を漂って、手を伸ばさない限りはそのまま消えていく。あの日からだ、と彼は思った。浜辺で貝を見つけた日から、頭の中に誰かがいるような気がしていた。


「あなたはきっと、僕の頭から出て行くべきなんだ」


 彼は、彼の頭の中の誰かに言い聞かせるように呟いた。


「どの宝石もそうでしょう。誰かの指にはまった瞬間から価値が下がっていく。美しい音楽はあなたのもので、それはきっとつまり、誰のものでもないのでしょう。誰のものでもないものが、一番価値があるように僕には思えるんだ。少なくとも僕なんかのものであるよりは」


 彼はシーグラスをテーブルに戻した。あの貝の大きさを思い出しても、到底パーツ数が足りない。はるか沖まで流れていったのか、そもそも最初からガラスでできた貝なんか存在していなかったのか。


 彼は両手で自らの髪をくしゃりと掴んだ。頭の中のシャボン玉は消えない。


「早く破片を見つけないと。だってこのままじゃ、あなたを追い出したくなくなってしまう」


〇 〇 〇


 午前六時前の浜を彼は一人で歩いていた。ここのところ毎日いっしょに歩いていた彼女は今日はこの散歩には来なかった。


 彼は特に彼女の不在をどうとも思わなかったので、久々の静けさに身を任せながら波打ち際を歩いた。


 今日は日が昇って早朝が終わっても青や緑のシーグラスを一つも見つけることができなかった。見つかったのは茶色で小さなシーグラスが一つだった。これ以上はシーグラスの収集はできない。彼はどうやらこの海岸のシーグラスのほとんどすべてを自分の部屋に集めきってしまったようだった。


 彼は太い流木に腰掛けてしばらく水平線を眺めた。早朝のまだ暗いうちに散歩をしていた彼にとって、朝が来た世界を海岸で見るのは初めてだった。背後で街が起き出して騒がしく動き始めるような気配がした。本来見えるはずのないような景色を見てしまったような気がして、少し落ち着かなかった。一度知れば、知る前には二度と戻ってこれないような気がした。


 もう海開きがされている海水浴場もあるが、この海岸にはくらげが多いので、この砂浜は年間を通して海水浴場として使われることはなく、地元の住人が散歩に利用する程度であった。


 手の中で茶色のシーグラスを弄んでいたら、一匹の犬が彼に近づいてきた。見ると、犬の飼い主であろう老人がそばを歩いていた。


「それは?」


 犬が彼の手の中をしきりに嗅ぐので、彼が犬にエサでも与えようとしているのでないかと思ったらしい。老人が聞いた。


 彼は手の中のシーグラスを思い切り海に向かって投げ捨てた。犬は反射的にその放物線を追ったが、波の向こうに落ちたそれを拾いに行こうとはしなかった。


「ただのクラゲの骨ですよ」


「クラゲに骨はない」


「それじゃあ、祈りのようなものです」


 犬が彼に興味を失い、また歩き出したので、老人も歩いて行った。


〇 〇 〇


 昼前の海は凪いでいた。砂浜にはぽつりぽつり散歩をする人が歩いていた。空に雲はなく、抜けるように透き通った心地いい青をしていた。


 彼女は足元に薄い青のシーグラスを発見し、それを拾い上げると、日傘の持ち手に引っ掻けたビニール袋に入れた。シーグラスを全部、拾ってしまえばいいんだ。彼女はそう思った。神様を信じたかった。そして、その神には彼の頭の中にずっと住んでいて欲しかった。それしか、自分のあのアーティストの音楽への気持ちと彼の音楽への気持ちを差別化する方法はないように思えた。


 顔を上げたとき、制服を着た高校生らしき少女と目が合った。学校はさぼったのだろうか。大したものも入っていなさそうなスクールバッグをぶらつかせていた。少女はふいと目を逸らし、ローファーと靴下を脱ぎ捨てると、小走りで波の方へ行ってしまった。


 波の音に混じって、少女の鼻歌が聞こえた。彼の曲だった。


 彼女はくすりと笑いをこぼした。これからやろうとしている自分の行動がなんだか急に馬鹿に思えた。


〇 〇 〇


 海から街への帰り道に彼女は彼に出会った。


「これ、捨てようと思ったけどあなたに返すね」


 彼女は彼に薄い青のシーグラスを差し出した。日は落ちかけていて、淡いオレンジ色の光が窓から入り、壁の一部に光のポスターのように張り付いていた。ヒヤシンスだった花の死体は、いまだきれいな水に一輪挿しのように挿されている。


「ありがとう」


 彼女が捨てても捨てなくてもどちらでもよかった、と思いながら彼は言った。


「私はもう、神様を信じなくても大丈夫になったから」


 彼は彼女の部屋の棚に並べてあるCDを眺めた。自分によく似ている、と評価されることの多いアーティストのアルバムであることはすぐにわかった。


「君は僕の中に神様を見ようとしていたんだね」


「このアーティストの曲だけを愛しているんだと思っていたし、そんな自分が大切だった。でも、どうやら私はそうでもないらしい」


 彼女は笑って続けた。


「あなたの曲は、誰かの鼻歌になるんだね」


「どういう意味?」


「あなたの音楽はあなたの音楽であり、それ以外の誰のものでもない。あなたの音楽だから好きになる人がいる。だから、神様は信じない」


 彼女は泣き笑いのように顔をゆがめた。


「それじゃ、君はつらくないのかい?神様を否定すれば、君は、君があのアーティストに抱いていた気持ちの唯一性を否定しなければならないよ」


「それでも、否定するよ。私はあなたの音楽も好きになった」


 彼はシーグラスを手の中に握り込んだ。祈りが通じたような気がしていた。


「ありがとう。君のおかげで僕は、神様を信じないという考え方をしても許されるんじゃないかと思えた」


〇 〇 〇


 二人は夜の海に来ていた。まとわりつくぬるい空気の中に少しだけ夏の匂いが混じっていた。


「君はあのアーティストとよく似ていると言われる僕の音楽も好きになったけれど、ひとつひとつ分けて考えるべきだと思うんだ。このシーグラスみたいに小さくして眺めるべきだ」


 彼は言った。彼女は黙って頷いた。波の音が心地よく響いていた。


「君はどちらも、別の点で、同じ熱量で愛していられるよ」


 心の穴はもうほとんど残っていなかった。


「私は、大切なものを一つ失ったのに、時間や、別の出会いによってその喪失が大丈夫になっていくのが嫌だっただけなのかも。大切なものを失ったのに、大丈夫になりたくないと思っていた。心に空いた穴を愛すことでしか覚えていられないと思っていたんだね。ありがとう」


 彼は波打ち際まで歩いていくと、薄い青のシーグラスを思い切り投げ捨てた。


「僕には神様を完全に信じないなんてことはできそうにない。まだ信じてしまうんだ。でも、神様は最初からいなかったという体にしよう。僕の頭で沸き起こるメロディはすべて、僕だけが享受できる僕だけのために生まれてきたものだということにしよう」


「うん。私たち二人で、そういうことにしよう」


「ガラスの貝は最初から僕のものだった。僕は単なるガラスの貝の最初の発見者ではなく、もっとずっと前からガラスの貝の所有者だった。一番初めに見つけたのが僕以外ではだめだった。シーグラスを集めてまたガラスの貝を組み上げ、神様を戻したら誰でも同じことが起こるなんてことはない。今僕はガラスの貝の一欠片を海の向こうに捨てた。もう誰にも貝を組み上げられなくなった。誰にも再現できないのなら無いのと同じだ。神様なんてどこにもいなかったということにしよう」


「うん。そうしよう」


 死んだ恋人のラブレターを捨てるみたいに、他人にその存在すら気付かれてしまう前に、永久に自分だけのものにする。今、この世界に、神の存在を微かに信じた二人がいる。そしてその二人は神の存在の証明方法を棄て去り、神はいなかったということにした。


「約束だよ」


 海底に沈んだガラスは、揺れる水面を通り抜けた月光を浴びて、くらげのようにゆらゆらと光っていた。

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