飴玉

「生きる意味ってのは案外、隣の奴が何の気なしにくれる飴玉だったりする」


 隣の男が言ったので、俺は男の方を見た。独り言だと判断することもできたが、そのまま無視しておくには少し大きすぎる声だった。男は少し長い髪をゴムでまとめていて、ボロボロの靴と、指に挟んだ煙草が目に付いた。男は手すりに少し上体を預けるようにして眼下に広がる広大な山々の景色を見下ろしていた。


「はあ。飴玉、ですか」


 周りには俺のほかに男の言葉を聞く者もいなかったので、俺はとりあえずそう返した。ウインドブレーカーのポケットに手を突っ込んでみるが、特に何も入っていなかった。俺は売店の方をちらりと見るが、連れの友人はまだ買い物をしているようだった。


「お一人ですか」


 俺が聞くと、男から話しかけてきたくせに、俺に話しかけられたのが心底意外だと言わんばかりに目を大きくした。


「一人だよ。君は、友達とこの山に来たみたいだね」


「はい」


 俺はハイキングが好きだ。大学で出会ったハイキング好きな友達を誘い、講義の無い日にはただ山を登り、下りてくる。人の少ない場所に身を置いていると、社会のしがらみからすべて解き放たれたような気になって、リフレッシュできるのだ。俺は男に倣って手すりに肘をついた。そよそよと涼しい風が顔を撫でていった。


「君たちが登ってるのを見ていたよ。懐かしいことを思い出した。俺にも昔はいっしょに山に登る友がいた」


「昔は」


「うん、今はいないけれど。あいつはどうも掴みどころのないやつだった。いつも笑っていて、いつも面白いことを思いついてはいっしょにやらないかと提案してくるようなやつで、俺たちは山に限らず、いろんな場所へ行った」


「バックパッカーですか」


 俺は男の足元に置いてある、年季の入った大きなリュックサックを見た。


「そうだ。ある時は国を横断しようと言って国道沿いをひたすらに進み続けたこともある」


「素敵ですね」


 本心だった。年齢的にはとっくに大人に分類されるのに、大人の社会に溶け込めずにいるモラトリアム期間にしかできない、無駄の粋のようなこと。何かしたいが何もしたくない。どこかに行きたいのにどこにも行けない。友達とただ歩く、そういうことにあこがれていた。面白いことをやりたかった。思いつくものが今までハイキングしかなかったから、俺はハイキングが好きだったのかもしれない。


「国道を進むと言っても、歩いていたら疲れるし、ヒッチハイクをしたくなってしまう。ヒッチハイクで高速移動するのは快適だが、景色や、一歩一歩踏みしめていく感覚が足りないから、少しやりたいことと違う。自転車も少し早すぎる。だから俺たちはセグウェイで行った」


「踏みしめたいんじゃなかったんですか」


「スピード感の問題だよ」


「他にも思い出を話してもらえませんか」


「さびれた近所の遊園地に朝いちばんから入場して、一日中観覧車から出ずに回り続けたこともあった。閉園までに何週できるのかカウンターを準備して、いったいいくらかかるのかわからないから貯金箱を持っていった。結局カウンターは途中で押したか押してないか分からなくなってうやむやになり、バイトのおばさんに呆れられて、だいたい半日分の値段しか払わなかった」


 トンビの声が聞こえる。風に混じって森の匂いがする。


「外国の砂漠までわざわざ行って野宿したことも」


 男の目は遠くを見ていた。


「砂漠にはぽつりぽつりとサボテンが立っていた。あいつはそれを見たとき、急に真面目な顔になって言った。こいつらは一生雪というものを見ずに終わるんだ。こいつらに雪を見せてやらないか、と」


「すごい。なんてばからしいんだ」


「俺たちは予定を変更して北へ向かった。まあもともと予定なんてあってないようなものだったから、多少家に帰るのが遅くなったところで大した問題じゃなかった。クーラーボックスと保冷剤を担いでかなり北まで行ったけれど、雪は見つからなかった。その時はちょうど、夏だったんだ」


 男は煙草をふかした。


「すまないね、おじさんのこんな思い出話につきあわせて」


「その友達は今はどうしているんですか」


「さあ」


 男はからりと笑った。


「消えたよ。俺の前からある日ふっとね。昨日までいっしょに肩を組んで笑いあっていたのに、次の日にはもう連絡もつかなくなり、それっきりだ」


「それで今も、探しているんですか」


「探してはいない。俺は俺のために世界のことを見て回っているところだ。でも、これもある意味、あいつの真似をしているから、旅の中に面影を探しているだけなのかもしれないな。まず、あいつはたぶん見つからないよ。でも、俺はそれでいいと思っているんだ。いや、それがいい。そうじゃなくちゃ駄目だったんだ。ある日俺のもとから何も言わずに消えて、自分の面白いことを追求していくようなやつじゃなくちゃ、俺はあんな馬鹿らしくも美しい体験をすることはなかった。あいつにずっとここにいて欲しいと思う気持ちが大きくなるのと同時に、早くここじゃないどこかへ行ってしまえという気持ちが大きくなるんだ」


 男は懐かしむように目を細める。


「俺はそこまで面白いやつじゃない。だからさ、置いていかなくちゃいけない」


 この男が友人と真剣にした無駄は、無駄ではなかった。どうしようもなく男の人生そのものになっていた。


「次はどこへ?」


「さあな。また適当に道を歩いてみようかな」


 男は煙草を消して、一つ伸びをした。


「きっと、セグウェイで迎えに来てくれますよ」


 意味は分からないけど俺はそう言った。男は苦笑する。


「せめて二人乗りので来て欲しいなあ」


 男はポケットからのど飴を出して俺の手に置いた。なんだ、飴最初からもってたのか、と俺は思う。


 男は大きなリュックサックを背負うと、ヒラヒラと手を振って振り返ることなく俺を置いていった。俺の友人がやっと売店から出てくる。ソフトクリームを両手に持っている。


「次は山以外のところに行ってみないか?」


 俺は飴をポケットにしまい、友人にそう声をかけた。

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