悪魔の契約

 ある日目が覚めたら、歌が歌えなくなっていた。


 午前8時25分。夏の近づく瑞々しい朝日が、白いベッドに差し込む高層マンションの最上階。ベッドの上で長く豊かな金髪を枕一杯に広げて女が一人眠っていた。女は目を覚ました。枕元のスマホを手に取り、目覚ましアラームよりも早く起きた事実を確認する。普段なら目覚ましより早く起きてしまうことは少ないのだが、今日は目が覚めてしまった。スマホには夜のうちに届いたたくさんの連絡メールの通知が来ていた。女は歌手であった。


 そのメールをあとでさばこうと決め、とりあえず早く起きた分の5分ほど眠気覚ましにSNSでも見ようかと、あおむけの体勢からうつ伏せの体勢にごろりと転がりながらスマホをいじった時、女は喉に違和感を感じた。痛い、とは少し違う感覚。


 声を出そうとして女は気付いた。声が出ない。背筋が一瞬で冷たくなり、朝の穏やかなまどろみは吹き飛んだ。両手を首に当て、口をパクパクと開けるが、声が出ない。まるで、声帯そのものが一夜にして自分の喉から消え失せてしまったかのように、喉が言うことを聞かなかった。


 女は布団をはねのけてベッドから転がり落ちるように飛び降りる。布団に足が絡まり、よろけるがそのまま洗面台に向かう。まさか自分が寝ているうちにファンかアンチのどちらかが私の声帯を切り取ったのではないかと女は思った。


 鏡に映る自分の喉は昨日のままで、よくケアされたきめ細かく日焼けを知らない首筋がただあった。


* * *


「そんな!来月から世界ツアーがあるっていうのに!」


 マネージャーの女はほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。


 マネージャーに連れられ、病院に行ってみたが、原因も対処法も明らかにならなかった。


「これが世間にバレたらまずいことになるよ」


 歌手は自らの突然の喉の不調を世間から隠したままいろいろな病院にかかった。しかし、いくら名医と呼ばれる医者にみせても、誰もその症状を特定することはできなかった。


「未知の奇病という他ありません。もしかしたらもう一生声を出すことができなくなってしまうかもしれません」


 マネージャーはそれを聞いて泣きださんばかりの表情を浮かべたが、歌手の方もそれの数倍絶望していた。


 歌手にとって歌を歌うことは人生のすべてだった。自分には歌以外に得意なことなどなかったし、歌以外に好きなこともなかった。急に世界から光が消えて、今まで進んできた道がふつりとつま先で途絶えてしまうような感覚を覚えた。


* * *


 マネージャーや音楽会社の人々の計らいにより、歌手は無期限の活動休止を発表することになった。


「後のことは私たちがなんとかしますので、とにかく今はゆっくり休んでください。ここのところハードなスケジュールが詰まっていたので、無理をさせてしまっていたのかも」


 マネージャーにそう言われたが、歌手の心が明るくなることは少しもなかった。歌が歌えなければ休日などというものに何の意味もない。それに、いくら休んだところで、まるでただの息が通るパイプのようになってしまった自分の喉がよくなる気がしなかった。


 部屋で一人でいても何もすることがない。何もできることがない。歌手は、抜け殻のようになってただ暗い部屋のベッドに寝転がっていた。


 特に連絡をしあう家族や友人もいなかった。家族とはずいぶん昔に歌手になる夢のために縁を切り、戦争の激しい地域に置いて自分だけ家を飛び出した。歌手になってからはさまざまな人と関わることは多かれども、起きている時間のほぼすべてを歌うことに費やしたかったため、友人と呼べるほどまで関係を構築していた人はいなかった。


 ただストイックに技術を磨き、音楽の世界の頂点に君臨し続ける彼女を、まわりの歌手たちは尊敬と畏怖を込めて、遠巻きに見ていた。同じ時代に生まれてしまった不運を嘆いたり、才能の違いを妬んだりすることはあれども、仲良くなりたいと思う者はいなかった。歌手もそれで別に構わないし、仕方のないことだと思っていた。


 天井を見上げていると、歌手は自分の空っぽさに気付いた。自分には才能があったが、才能しかなかったのだ。


* * *


「もう一度歌を歌えるようにしてあげようか?」


 ふいに声を掛けられて歌手はびくりと跳ね起き、部屋を見渡した。部屋の中ほどに一人の少年が立っていた。


 いつからそこにいたかは定かではないが、家具同様にずっと前からそこにいたような自然さを持って、そこにぽつりと存在していた。少年は黒のTシャツとハーフパンツを履いていて、闇にぼうと浮かぶほど青白い肌をしていた。彼の真っ黒な髪の生える頭の頂点からは二本の羊のような真っ黒の角が生えており、よく見ると尻から長い尻尾が生えているようだった。少年は悪魔だった。


『お願いします』


 少年は見るからに怪しい雰囲気を身にまとっていたが、歌手はその言葉にすぐに返事をした。返事をする、と言っても声は出ないので頭の中で即答しただけだった。今は彼が悪魔だろうと関係ない。歌以外に自分に必要なものは無いと思った。


 少年は少し首をかしげるようにして言った。


「僕は君の歌をまた歌えるようにすることができる。でも、その代償として、君にとって一番大切なものをもらわなくちゃならない。本当にそれでも歌を歌えるようにして欲しいかい?」


『なんでも差し上げます。ですから、私に歌を』


 歌手はベッドから下り、床に膝をついて願った。


「シュミレーション1」


 少年はぱちりと指を鳴らした。


「……」


 何も起こらない。歌手は試しに喉に力を入れてみようとするが、声が出ない状況は変わらなかった。


「仮に君の一番大切なものを歌、としてみたときの世界だよ。君は歌を得るけれど、歌を差し出さなくてはならないから、今の状況と変わらないね」


 少年は歌手のそばまで歩いてきて、その青白い顔で歌手の顔を覗き込んだ。


「君は歌以外に何を一番大切だと思っているのかな?」


『か、家族とか』


「ダウト」


 歌手の頭の中で思ったことは少年に通じているようだった。少年はすぐさま否定した。


「君は家族を大切に思っていない。それどころか、ファンも、周りの人間のことも大切だと思ったことは無い。みんなが自分のまわりに集まって来るのは自分の能力に集まっているだけで、集まって来る者たちに君は興味がない。君は人間を大切にできない」


『初めて会うはずだけど、私のことをよく知っているみたいね』


「僕は悪魔だからね。なに、君を責めているわけじゃない。人間の中にはそういうタイプの人間もたまにはいるさ。うーん、そうだな。君が代償に差し出してくれそうなものは、これとかどうだろう。シュミレーション2」


 少年はまた指をぱちりと鳴らした。


「――ぁ。こ、声が出る」


 歌手の喉からは以前のような鈴が鳴るような美しい声が出た。歌うこともできる。


「あなたは何を受け取ったの?」


 少年は窓際まで行って、カーテンを開けた。


「!」


 そこには見慣れた都市のビル群があるはずが、それらが一切なく、ただ荒野が広がっていた。


「僕がもらったのは、音楽に価値がある世界だよ。君はこれから歌うことはできるけれど、その声を聞く者、それを評価する者はもうこの世界にはいない」


「食べ物や電気ガス水道のない世界は少し厳しいものがあるかも」


「じゃあこうする?」


 少年が指を鳴らすと、都市の風景が戻る。少年は窓ガラスをさながらタブレットの画面を拡大するようにピンチアウトする。眼下の人通りの多い交差点にズームインする。


「君以外の人間から耳という器官を取り去ってみたよ。この世界には食べ物も電気やガスもある。まあ君が自分の力でそれを手に入れられるかどうかは君次第というところかな」


「他のシュミレーションは無いの?」


「正直これでもいいかなと思っているけど、とりあえず全部見てから決めたいだなんて、ここをスーツ屋か何かかと勘違いしていないかい?」


 歌手は無表情で先を促した。


「まあいいや。僕が提案できるシュミレーションはこれが最後かな。シュミレーション3」


 少年は指をぱちりと鳴らした。


 次の瞬間、歌手の身体はふわりと実体を失ったかのように軽くなった。


「君の姿、肉体というものを奪ってみたよ。君は幽霊、概念、いや、思念体のようなものになった。思考は残っているから歌を歌うという行為をしているつもりになることが可能だよ」


「それって、私が声帯を震わせて歌を歌っているわけじゃなくて、私が私の脳みそを騙して、歌っているつもりになることができるって意味?」


「騙すっていうのは少し人聞きが悪いけれど、まあそういうことであってるかな。人の行為っていうものはすべて脳みそがそれをしたと認識するからしたんであって、君の脳みそが声帯があって、それが震えたと認識できれば、声帯の有無はあんまり関係ないように思えるけどなあ」


「私は勘違いしたいんじゃなくて、歌が歌いたいの」


「歌えばいいじゃない。歌手デビューを果たした10年前だって、実は君は知らないうちに幽体離脱で死んじゃって、脳みその中だけで歌っていたのかもよ」


 少年は悪魔のように不気味に笑った。歌手はぞっとして自分の無い腕に鳥肌が立つような感覚を意識した。今までなぜか受け入れていた少年が急に部屋の中で異物に見えた。


「あなたは何が目的なの?突然私の喉がおかしくなって、突然あなたが現れた。私の歌を奪ったのはあなたじゃないの?」


「君の歌を奪った者の話はあとにしよう。今は君に考えてもらいたい。君の一番大切なものは何だい?」


 少年は調子を変えない。


 歌手は額を手のひらで押さえた。今まで自分には歌ほど大切なものは無かった。歌を歌っていられるのなら他には何もいらないような気がしていた。


 シュミレーション2の世界、誰も自分の歌を聞くことができない世界はどうだろう。もともと自分は誰かのために歌を歌っていたのだったろうか。いや、自分の満足のためという面が大きいような気がする。誰に聞いてもらえなくても、自分が歌って自分で楽しくなれればそれでいいような気がする。しかし、少年の言った通り、その世界で食べ物や生活に必要なものを手に入れるためには他人に認められる能力を持っている必要がある。お金は歌っているだけでは決して得ることはできない。


 シュミレーション3の世界、自分が食事も水道も必要ない思念体になる世界はどうだろう。シュミレーション2の課題はクリアして、自分の満足のために歌い続けることが可能だ。しかし、それは果たして歌っているということになるのだろうか?歌うとは何?


「私は歌いたいんだよ」


「うん、知ってるよ」


 歌うとは何だろう。自分が楽しくなるためだけの行為だと思っていたけれど、誰の耳も聞こえなくなってしまったら、私は歌うことで楽しくなれるのだろうか。世界がつまらなくなってしまう。歌を取り戻したのに、この部屋の暗闇が世界に広がって、もう光を思い出せないような気がした。


「無理だ、選べない。どちらも、私の世界はつまらなくなってしまうような気がするの」


「世界がつまらないとこぼす人は、その人自身がつまらないからというしょうもないオチのことが多い。君は歌が歌えるだけじゃつまらない。その世界の中でつまらない。だから、世界がつまらなく感じる。君は今までの世界の中で価値があった。だから今までの世界が光輝いて見えていた」


 歌に価値があるのかどうかは聞いた人間が決める。今までの世界では、たくさんの人が彼女の歌を聞いて評価して価値をつけていた。シュミレーション2と3の共通項。


「私の一番大切なものは、私の歌を聞いてくれていた人たちってこと?」


「今のところそのようだね。どうする?言葉にできたことだし、取引といこうか?」


「……ちょっと待って」


 歌手は少年を手で制した。


「少し違う。私が一番大切に思っているのは、本当の根本は、私自身の歌へのモチベーションだ。私の歌は結局、私のためでしかない。他人のために歌ったことなんかない。私の歌を聞いてくれる人は私のモチベーションであるけれど、一番大切かと言われたらしっくりこない」


「歌へのモチベーションは奪われたくないんだ」


「私は歌手よ」


 歌を歌うための取引で結局歌を失うなんて皮肉だ。モチベーションを絶対に失うわけにはいかない。


「ねえ、一つ聞きたいんだけど」


「何?」


 少年は首をかしげる。歌手は床に座ったまま少年を見上げるようにして言った。


「代償の引き渡しを少し待ってもらえないかな。私は今まで自分のためだけに歌を歌ってきた。それを他人のために歌うの。歌って歌って力の限りに伝えつくしたい人を見つけて歌うの。その人に聞いてもらえなきゃ、その人に価値をつけてもらえなければ意味がわからなくなるくらい。そうしたらさ、交換しようよ。その人の耳と私の歌を交換しよう。それならいいでしょう」


「それで君は歌へのモチベーションを失くしてしまうとは思わないの?」


「今まで私は自分のために歌ってきた。本当はそれで充分だった。これからないものを得て、それを差し出す。元に戻るだけ」


 少年は軽く頷いた。


「いいよ」


 少年はどこからか契約書のような紙を取り出した。


* * *


 歌手は声を取り戻した。


 どこかのビルの屋上。悪魔はフェンス越しに眼下のビルの壁に大きく取り付けられた電工掲示板を見ていた。歌手が生き生きと歌を歌う様子が映っている。


「契約がかち合うと上手くいかないものだね。君は満足だろうけれど、僕はけっこう不満だよ」


 悪魔が振り返って呼びかけると、病人服に身を包んだ線の細い少年が立っていた。頭に包帯が巻き付けてある。音楽鑑賞が大好きだった少年は、少し前、突然耳が聞こえなくなり、悪魔と契約をしたのだった。


「君の一番大切なもの、あの歌手の歌声をもう二度と聞くことができなくなる代わりに、君の耳を聞こえるようにして、世界の彼女の歌以外あらゆる音楽を聞こえるようにしてあげた。そのはずだったのに」


 包帯の少年が微笑んだ。


「彼女の歌が聞こえる」


 幸せそうな少年を横目に悪魔は浅く肩をすくめ、ちらりと手元の契約書に目を落とした。

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