ゴキブリ2
「いやぁ、困ったなあ。ほっといたら三年でライセンスが切れちゃうなんて大事なこと、マスターが教えてくれても良かったのに」
「本当だよな。更新さえちゃんとやってればこんな過酷な試験をもう一度受けなくちゃならないなんてハメにならなかったぜ」
黒いジャージに身を包んだ男が、焦げ茶色のジャージに身を包んだ男の肩に手を回して言った。
「ところでお前、なんでそんなにこげ茶が好きなんだよ」
「食べ物の最終形態の色だから」
「黙れ汚ねえな」
「足元にご注意」
「げっ」
黒ジャージとこげ茶ジャージはあるスパイ組織のエージェントとして雇われていた。しかし、二人のスパイとしてのライセンスの期限が過ぎてしまったため、組織を解雇されないためにライセンスの再取得のために試験会場に来ていた。試験会場には世界各国からやってきた優秀なスパイの卵たちが集まっていた。
「Don't take this test lightly.<この試験を甘く見るなよ>」
色黒のマッチョが鋭い眼光で二人を見下ろした。辺りの気温が数度下がったかのような感覚がして二人はぶるぶる震えながらこくこく頷いた。黒ジャージは靴の下に踏んでしまったそれを自分の後ろに蹴り飛ばした。幸いなことに今日の気温が低くて凍ったのか、単純に水分が足りなかったのかわからないが、それはコロコロと転がっていった。
『それでは一次試験を開始します。受験者のみなさんはゼッケンをつけて集合してください』
スピーカーから音声が流れた。その後、天国と地獄のBGMがかかり始める。市民運動場を貸し切った会場で、そこまで寒くもなく、陽気が降り注ぐ心地よい冬空の下、色とりどりのゼッケンの受験者が集まったその様子は、地域の運動会のような様相を呈していた。
『第一次試験は鉄棒です。鉄棒にぶら下がり、この受験者の半分が脱落したところで終わりです。上位半分以上の人は第二次試験に進んでください。脱落してしまった方は、向こうの出口からお引き取りください。門の前に予備校とかのパンフレットを配っている輩の団体がいくつか見受けられましたが、それらはすべて我々試験実行委員会とは関係ありませんのでご理解ください』
大学受験会場のような注意説明が入る。受験者たちはそれぞれ用意された鉄棒の前に立つ。
「ガリ、どうしよう、僕あんまり筋肉に自信がないよ」
こげ茶ジャージは弱音を吐く。
「馬鹿!ナマコ、弱気になるな。こういうのは根性で乗り越えるしかないんだよ。とにかく、終わった後の自分にご褒美を用意しよう」
「うん。そうだ、会場のすみっこに自販機があったはず。何を飲みたいか考えていれば辛さもまぎれるだろう」
『位置について、ようい、始め!』
受験者たちはいっせいに鉄棒を掴む。
「つめた~い」
冬の金属は冷え切って、掌から一気に熱が失われていく。たまらずこげ茶ジャージは両足も棒に絡ませる。
「ふふ、豚の丸焼きだなんて、だっさいわね」
横から声がして、そちらを見ると、ナイスバディなお姉さんが流し目でこちらを見ていた。お姉さんはくるりと完璧な空中逆上がりをキメた。審査員は特に何も言わないので、姿勢に規定はないらしい。
「ぐへへ、綺麗なお姉さんだ」
おそらく鉄棒耐久と言われて最もスタンダードな姿勢、両肘を曲げて鉄棒に顎をつけるようにして足を伸ばした姿勢の黒ジャージは舌なめずりをした。
「今日は運がツイてるぜ」
「そうかしら。あなたたちが落ちてくれたら、早く次の試験に進めるんだけど」
お姉さんは真っ赤な舌をちろりと出した。そのあまりにレベルの高い妖艶さに、黒ジャージとこげ茶ジャージはどぎまぎした。
「あ゛っ」
お姉さんの舌につられて自分も舌を出してしまった黒ジャージの舌は、冷たい鉄棒と接触し、たちまち凍り付いた。黒ジャージは冷たさのあまり手を放してしまった。しかし、舌は思ったより強く鉄棒と結束を固めていたようで、哀れな黒ジャージは舌一枚で鉄棒にぶら下がり、普段は飯の時くらいにしか使わない貧弱な体の部位に全体重を預けることとなった。
お姉さんはその様子があまりに気に入ったのか、吹きだし、壺に入ってしまい、手を滑らせた。
『第一次試験、終了です』
お姉さんが落ちた瞬間、アナウンスが入った。
「え、何?何が起きたの?」
豚の丸焼きは首の回る範囲できょろきょろした。
「へへふおほへ<早く下ろせ>」
力なくぶら下がる黒ジャージが言った。
『第二次試験は射撃です。ピストルに6発込めてありますので、各自自分の的に向かって射撃をし、そのスコアカードを提出してください』
第一次試験を突破した猛者たちは、地下の射撃場に集められた。
「なんて言ってるの?」
「さあ?」
悲しいことに、鼓膜を守るイヤーマフを装着した者にその指示は届いていない。
「ちょっとあんたたち!さっきの借りは返させてもらうわよ。覚悟!」
先ほど笑い転げて落下した妖艶なお姉さんが二人にピストルを向けている。
「さっきのセーフだったんだ。よかったね」
「あんなに屈辱的な気持ちを味わったのは初めて。今ここで死んでもらうわ」
「美人の弾に貫かれて死ぬのなら本望だぜ」
黒ジャージはお姉さんの前に堂々と立った。お姉さんは迷いなく引き金を引く。
「ガリー!!」
黒ジャージは胸の前に的紙を構えていた。心臓に中心があっていて、その中心はしっかりと銃弾で撃ちぬかれて風穴があいていた。お姉さんはそのすばやい判断力やピストルの使い方まで間違いなく凄腕だった。
「ふうすっきりした」
お姉さんはすたすたと去っていく。こげ茶ジャージは目に涙を浮かべて黒ジャージを抱きしめる。黒ジャージは組織に入ってからというもの、常に自分の隣にいた。辛い時も苦しい時も、失敗した時もマスターに怒られる時もいつもいっしょだった。うん、あんまりいい思い出が思い浮かばないな。
「おかしい人を亡くした……」
こげ茶ジャージは自分の的の前に立って射撃をした。
『第三次試験は暗号解読です。試験会場を移動しますのでバスに乗ってください。バスの中ではお弁当支給されますが、一人一個です。足りない人はサービスエリアで買ってください』
流れる車窓を眺めながら、こげ茶ジャージはぼんやりとしていた。黒ジャージを失ったことはそこまでつらくもなかったが、今まで二人でやっていた業務をこれからは一人でやらねばならないと思うと、どうにも気分が落ち込んだ。気分が落ち込み、これからの試験にも自信が無くなってきた。前の方の座席から順々にアナウンスと運営をしている女性が弁当を配っている。
「お弁当です」
「あ、ビーフで」
「選べねえから黙って食え」
完全栄養食のパサパサしたブロックを受け取る。
「There are times when it's hard to do this job.<この仕事をやってると、辛くなる時もあるよな>」
隣に座った色黒のマッチョがこげ茶ジャージを励ました。
「ありがとう。何言ってるかはわからないけど」
「The time will come when calorie mates will taste delicious too.<カ〇リーメイトだって美味しく感じる日がくるさ>」
「そうだ。スパイ歴0年目の後輩に僕が励まされるようじゃまだまだだね」
こげ茶ジャージはこの会場にいる自分以外の受験者が全員まだスパイという資格を取ったこともない新人だということを思い出し、急に湧いてきた、自分は先輩、という感覚に、あまり良くない高揚感を覚え、気分が良くなった。
「そうだ。僕は先輩なんだ。僕が受からないでどうする!」
『まもなくバスが停車します。皆さんにさっき配ったお弁当の箱の裏に解くべき暗号が隠されています。各自解くべき暗号が違いますので、それぞれ正解を見つけたらバスのところにいる私に伝えてください。制限時間は日没まで。解けなかった者はここに置き去りにしてバスは帰ります』
受験者たちは山の上の牧場地帯に放り出された。見渡す限り草原と、ぽつりぽつりと牛や豚などの家畜がいるだけである。冬なので日没は早く、既に日は落ちかけている。あまり時間は無いようだった。
こげ茶ジャージは自分の箱の裏を見る。数字を使った暗号だった。暗号を解くためには鍵となる番号を得ることが必要だった。この広大な牧場の中にその鍵が隠されているのだろう。受験者たちはてんでばらばらに散っていった。
「どうしよう、全然わからない。でも、何もしなければ手掛かりはつかめないままだ。とりあえず、近くの建物まで行ってみよう」
こげ茶ジャージは豚小屋まで歩いて行った。豚小屋の中から、何やらゾクゾクするような声が漏れているのにこげ茶タイツは気付いた。下品な鳴き声と罵倒、激しく肉と肉のぶつかり合うような音。
「そ、そういうプレイをしているやつがいるとして、僕は全然興味ないんだからね。全然興味ないんだから」
こげ茶タイツは舌なめずりしながらすばやくドアの隙間に目を押し当てた。
「ブヒィと鳴きな!豚野郎!」
そこには、汗だくのお姉さんと豚野郎、ではなく、汗だくのお姉さんと豚がいた。先ほど黒ジャージを撃ちぬいたお姉さんが檻の中の豚たちに向かって心無い言葉を怒鳴っているところだった。お姉さんの顔はなんだか楽しそうで、こげ茶ジャージは邪魔しないようにそっとドアを閉めた。なんだかちょっぴり残念な気持ちになって、しゅんと肩を落としながらこげ茶タイツは豚小屋を後にした。
夕暮れの山の景色を見ていると、こげ茶ジャージはどうしようもなく寂しい気持ちになってきた。ああ、こんな時に隣にいてくれる人がいたら。こげ茶ジャージは黒ジャージがいかに自分にとって大切な存在だったのかに気が付いた。
「ガリ……。君がいてくれたら」
「うん、ここにいるぜ」
ふいに後ろから声を掛けられてこげ茶ジャージは「ブヒィ!」と鳴いて飛びあがった。
「ガリ!生きてたの?」
「バスに乗ってたけどお前はマッチョと楽しそうに話してたし、なんか話しかけづらかったんだよ」
黒ジャージは胸元からスマホを取り出した。
「マスターが出かける前に俺にこのポケットにスマホを入れておくように言ったんだ。そのおかげで助かったぜ。スマホはバキバキになったけどな」
「マスター、あなたって人は何もかもお見通しですね」
こげ茶ジャージは夕日に向かって土下座して何度かお辞儀した。
「俺たちは二人で一人だ。さあ、いっしょにお互いの暗号を考えようぜ」
二人の暗号は数字を使っている点でとても良く似ていた。
「牧場で、数字。この二つを結び付けるのは……そうだ!個体識別番号だ!」
こげ茶ジャージはその辺に放牧されている豚を指さした。その腹には焼き鏝で数字が一体一体に刻まれている。
「さすがナマコ!お前冴えてるじゃねえか!」
「ガリが隣にいるからさ。さあ、豚の腹の番号を調べていこう」
二人は豚たちの腹の番号を調べていったが、鍵らしき番号を見つけることはできなかった。
「くそお、個体識別番号までは間違いないと思ったのに」
頭を抱えてしゃがみ込む黒ジャージ。ふと、その足元に目が留まった。汚れた靴。そういえばこれは今朝、運動場に落ちていた食べ物の成れの果てだが、そもそも運動場にこれが落ちていることは不自然だ。誰かが人為的に置いたとか?
「ナマコ!豚じゃねえ、たぶんヤギだ!」
黒ジャージは駆け出した。
辺りはだんだん暗くなってきた。二人は必死でヤギの番号を探した。そして、番号は見つかった。
「やったぞ。でも、日没まではあと15分といったところか。俺たちの計算力じゃ、協力して解いてもどちらか一人分の暗号しか解読できそうもねえ。ナマコ、お前の暗号を貸せ。それを解くぞ」
「そんな!そしたらガリの暗号はどうなるの?僕が受かってガリが落ちるなんて嫌だよ!」
それじゃあ今まで二人でやっていた業務をこれからは一人でやらねばならないのに変わりはないじゃないか、という言葉を続ける前に黒ジャージは箱をひったくって地面に這いつくばるようにして計算を始める。
「俺は大丈夫だ。それよりナマコ、俺はお前に受かってほしいんだ。俺たち、辛いことを乗り越えたら、いっしょに自販機でジュース買ってお祝いするって誓ったろ?俺はまだ諦めねえ!」
「ガリ……!」
そんな約束したっけ、という疑問は多少残ったが、こげ茶ジャージは黒ジャージの友情に心を動かされた。自分の事しか考えていなかった数秒前の自分を恥じた。目の前の男はこんなにも友達のために一生懸命になってくれている。それなら僕もその気持ちに応えなくちゃ。だって僕らは、友達なんだから。こげ茶ジャージもいっしょに這いつくばって計算をする。
「一分前です。よろしい、バスに乗ってください」
運営の女は滑り込みをしたこげ茶ジャージの解答を聞いて言った。ドアが閉まり、バスが動き始める。
黒ジャージが泣き笑いのような顔でバスに片手を挙げた。
「ガリーー!!」
窓ガラスの向こうで黒ジャージがどんどん小さくなっていく。
🪳 🪳 🪳
「よう、ナマコ」
組織のオフィスの廊下のベンチにこげ茶タイが座っていると、黒タイがやってきてそのうつむいた顔に冷たい缶のジュースを当てた。「ブヒッ!」
「ガリ……」
こげ茶タイは黒タイに手渡された缶ジュースを開け、二人は缶を突き合せた。ぐいっと傾けると、強い炭酸が喉を焼く。今日はマスターのもとに届いた試験結果が言い渡される日だ。もし一方が受かって一方が落ちていたらもう二人はこの組織でいっしょに仕事をすることはないだろう。そのジュースは苦いけれど甘い友情の味がした。
「二人とも、入りなさい」
マスターの声がして二人が部屋に入ると、パンツスーツに身を包んだ女上司が二人を待っていた。少し怒っているように見える。この女性は常に何かに怒っているので、その違いを見抜くのは至難の業だったが、三年もいろいろな怒られ方をしてきた二人には怒っていることくらいはわかるようになっていた。
「私が部屋の中から叫ばなくてもいいように時間になったら入ってきなさいと何度もメッセージを送ったでしょ。なんで二人そろってメッセージを見ないのよ。バイブですぐ気づく胸ポケットに入れとけとも言ったわよね」
「でも僕、マスターの番号を知りません」
こげ茶タイは言った。
「え?あ、そう?ご、ごめんなさい。あなたにも番号を教えたつもりだったけど、ガリに教えただけであなたの事はすっかり忘れてたわ」
マスターはすまなそうに言ってメモ帳に番号を書いて指ではじくようにしてこげ茶タイに放った。
「まあともかく。まずコードネーム・ナマコ、あなたは合格です。いろいろとギリギリなスコアではあるのでこれからも精進するように」
マスターは黒タイに目を向ける。こげ茶タイは唇をかんだ。
「そしてコードネーム・ガリ、あなたは特別優秀賞を獲得しましたので、これからは昇進させてあげます」
「ありがとうございます、マスター」
黒タイは第二次試験の時、中心に大穴が一つだけ開いたスコアシートを提出することになった。それが、6発全部的心に命中したとみなされ、特別に優秀と判断されたのであった。
「え、え、あの、マスター?これは何の冗談ですか?」
ただ一人状況をよくわかっていないこげ茶タイは目を白黒させた。
「冗談はあなたの顔だけにしておきなさい」
「それじゃ、これからもお互い頑張ろうぜ」
黒タイはこげ茶タイの肩をぽんと叩くと部屋を出て行った。
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