余生

 あっ、という間もなく、網戸を一定の速度で上り続けていた小さな羽虫が飛び去った。注目すべきものを失った私の視界は、自然と網戸のずっと遠くを見る。窓のすぐ近くに植えられた木の葉は、ここのところ少しだけ涼しくなった風に穏やかに吹かれていた。生命力の塊のようだった極彩色の夏はいつの間にか過ぎ去り、褪せた緑がやけに色の薄い空と調和していた。

 私は裸足の指先が冷たくなっていることに気付いて、掌で握った。今朝からもうずいぶん長いこと、窓辺に座り込んで庭を眺めていたので、尻も少し冷えてきたように感じる。

 私は窓から目を背け、部屋の中を見回す。明るい所を見続けていたので、部屋はひどく暗く感じた。キッチンのテーブルの椅子の背に掛けられたガウンを取ってこれば、ベッドルームのクローゼットの中の靴下を取ってこれば、この冷たさは解決することはわかっていたが、立ち上がるのは億劫だった。

 私はしばらく部屋の中をぼんやりと見続けていた。クッションが置かれたソファー、吊り下げられたドライフラワー、壁に貼り付けられた写真。それらの意味のないインテリアを、特に意味を求めることもせずに眺めていた。時計の秒針の音がしていた。

 時計に目を向けると、既に正午を過ぎていた。少し首をひねる。クロノスタシス。私は腰を上げた。

 キッチンに向かい、ガウンを羽織ると、やかんで湯を沸かす。沸騰までの間、棚の上から瓶を取り、蓋を開ける。コーヒーの匂いがその瓶の口のあたりだけに香る。コーヒードリッパーに金属フィルターをセットしてスプーン5杯。沸いた湯ををかくように注いでいく。

 乾いた大地に最初の雨が降るみたいに、フィルターの中のコーヒーは潤い、豊かな匂いを放つ。やがて、フィルターを通り抜けた最初の水分が一滴、ガラスの底に落ちる。私は湯を追加する。まるで砂時計の砂が時間に抗えずに落ちていくように、コーヒーがさらさら落ちていく。

 淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぐ。今度は豆を挽くところからコーヒーを淹れられる道具を買おうか、と私は思案する。電動のものではなく、手動で丁寧にやるものがいい。だって、昔とは違って、無駄に時間だけはあるのだから。

 私はマグカップを持って窓辺に戻る。靴下を忘れたことに気が付くが、もう立ち上がり直す気も起きなかった。コーヒーをすする。秒針の音がする。窓の外の木の葉は、さっきまでとまるで変わらずにそこにあるように見えたが、それは単なる楽観的願望であり、木の葉の色は褪せ続けている。今も。

 私は木の枝に蜘蛛の巣を発見した。透明に近い糸が、風に揺れるたびに一筋一筋光る。蜘蛛は穏やかに揺れる巣の真ん中で、私と同じくぼんやりと動かなかった。その姿は、冬の訪れをどこか予感し、諦観しているようにも見えた。

 私がもう一口コーヒーをすすろうと、マグカップを傾けた時、巣が動いた。私はマグカップを口元から離す。羽虫だった。

 透明な罠にかかり、突然身動きが取れなくなったことに、訳もわからずにもがく。もがけばもがくほど糸は絡む。蜘蛛は獲物が罠にかかったのを見るや、それにゆっくりとにじり寄った。羽虫の動きが弱弱しくなってから蜘蛛はそれを食べた。そしてまた、巣の中心に戻って動かなくなった。羽虫の最後のあがきによって巣は少し穴が空いて、風にゆらゆら揺れていた。蜘蛛はたった今得たたんぱく質によって、また巣を作るべく糸を吐き出さねばならない。そしてそれを、冬がくるまで繰り返す。今更な時間では、新たな場所に一から巣を作るのは億劫だ。あまり大きな獲物を願ってはいけない。

 私は蜘蛛から目を逸らした。秒針の音がやけに早く聞こえる。

 コーヒーミルはもういいか、と私は思った。足の指先がひどく冷えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る