蜂
なんてことのない、いつも通りの朝だった。朝の通勤電車には、スーツや制服の若者から中年までが乗り込んでは吐き出されていく。
この電車が走るのは、田舎というほど田舎でもなく、かといって都会とは言い切れない、都会近郊の市だ。朝のこの時間帯は、息苦しくなるほどのラッシュではないが、身動きがとりづらくなる程度には混む。片手でつり革を握り、もう片方の手で小説を眼前に掲げながら揺られていると、やがて中心街に近い駅で多くの人が下車し、座席に座るチャンスが訪れる。
毎日同じ電車に乗っているので、自然とだいたいの定位置というのが乗客それぞれに生まれてくるもので、俺はいつも通りドアのすぐ横のロングシートの端に腰掛ける。車内はいつも通り、ほぼ座席は均等に埋まり、何人かがちらほらと立っている程度に空いた。
さて、小説の続きを読もうとしたところで、妙な音が耳をかすめた。
俺は音の聞こえたほうへ目を向けたが、特に変わったことはない。アクリル板と窓越しに秋半ばのどんよりと曇った空が見えただけだった。気のせいか。俺は小説に目線を戻した。
「!」
また、音がした。今度ははっきりと、大きく聞こえた。素早く空を切って飛ぶ虫の羽音のようだ。しかも、蠅なんかよりもずっと大きいらしいということがわかった。姿は見えない。
素早く顔を上げた俺に、俺の前に立っていたサラリーマンはいぶかしげな視線をよこした。俺が小さく首を振ってなんでもない、という意を伝えると、サラリーマンは手元のスマホにまた視線を戻した。このサラリーマンはゲームでもやっているのか、いつもイヤホンをしていた。羽音が聞こえないのも当然だった。
俺は小説を手の中で持ち直した。体が少しこわばっていた。内容に集中できず、視線を車内にさまよわせる。
車内は穏やかだった。穏やかすぎるくらいだった。早起きで眠たそうにする人、仕事に憂鬱そうな人。隣に座る黒いスーツに身を包むOLらしきお姉さんの様子をそっとうかがうが、彼女もまた、イヤホンをして、眠たそうに瞼を閉じていた。俺以外の人はまだ知らないのだ。自分がなにか大きな、おそらく昆虫、と同乗しているということに。
また羽音がした。その正体について、今まででだいたいの見当はついていたのだが、認めたくなかった。カブトムシであってくれと思った。
俺の正面の席に座るおじさんが大きな動作で競馬新聞をめくった。俺は反射的に身を固くする。
何か目の端で動いた。黄色と黒の警告色の縞模様。それは、俺が今まで知っている中で一番大きなスズメバチだった。三センチ以上はあるように見える。大きな牙と、スズメバチを蜂たらしめる鋭い針が観察できる。なぜなら、それは俺の隣のOLのお姉さんの膝に止まって、品定めするかのように這い回っていたからだ。蜂は色を認識できないが、黒いものには反応すると聞いたことがある。お姉さんの服装は全体的に黒だ。そして、隣の俺も学ランを着ているために、全身黒と言って差し支えない服装だった。
蜂の細い足は、お姉さんの薄い黒タイツに引っかかって歩きにくそうだった。蜂がもし癇癪を起こしやすいタチなら、お姉さんは無事では済まないだろう。お姉さんの顔を見るが、彼女は眠り続けている。
どうかこのまま眠り続けてくれ、と俺は願った。彼女が気付けば、車内はパニックになるだろう。電車の揺れ一つが息もできないほど恐ろしかった。今日に限って運転が乱暴なような気すらしてくる。
俺は無理に蜂から目をそらし、小説を読んでいるふりをした。手汗がじっとりとにじんでいるのに指先は冷たかった。彼女が気付かなくても、別の誰かが彼女の膝を這う虫に気付いたら同じことだ。視界の端で蜂は飽きずに彼女の膝を探索していた。
『次は~、小融駅~、小融駅~。お出口は右側です』
車内にアナウンスが入った。思わずびくりと体が震える。電車は少しずつ速度を落としていく。乗客はいそいそと降りる準備を始める。正面に座るおじさんはまたも大きな動作で新聞のページをめくった。お姉さんはまだ寝ている。俺はもう気が気ではなかった。耐えきれなくなって蜂のほうを見ると、蜂も俺のほうを見た。蜂は挑戦的に俺に向かって牙を何度か嚙み合わせた。さあ、どうする?と俺に聞いてくるようだった。
前に立つサラリーマンが自分の耳にだけ聞こえてくるゲーム内の音楽に合わせてか、革靴のつま先を床にリズミカルに打ち始めた。
だんだん俺は腹が立ってきた。俺がこんなにも危機的状況を認識して、その危機が実際に起こらないように神経をすり減らしているというのに、この車両の人間で誰一人この危機的状況や、俺の苦悩を理解するものはいない。
俺は蜂をにらんだ。蜂は動かなかったが、俺から目を離さなかった。急に馬鹿らしくなってきた。
駅に着いて音が鳴り、電車のドアが開く。俺は無造作に立ち上がった。俺がいつもと違う駅で席を立ったので、サラリーマンは驚いた顔をした。俺はスクールバッグをつかみ、大股で開いているドアから出た。蜂は俺を追ってくることはなかった。何も知らない乗客がその電車にぞろぞろと乗り込んでいった。
走り去っていく電車を眺めながら俺は、唐突に正義のヒーローから狡猾なヴィランになった気分を味わっていた。俺は次の電車で何事もなかったかのように、高校へと登校した。
あの車両と蜂の、その後のことは知らない。
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