海底の泡

岡倉桜紅

春電車

 田舎の、電車に乗っている。


 大学の春休みはぼうとしている間に無為に過ぎ去り、残すところ七日となった。太陽は今がその時だと言わんばかりに、冬の間我慢していた光線を目いっぱいに冬のままの姿の田んぼに浴びせていた。知らないうちに昼が夜より長くなっていた。


 実家に帰るのは春休みに入って初めてになる。新幹線を使えば早かったはずだが、気が進まなかった。東京の一人暮らしのマンションにいてもすることがなく、持て余した暇で仕事をするでもなく、ただだらだらと小説を読んだり、映画に出かけたりするばかりの生活を続けていたので、両親に旅費を頼むのはどうにも気まずかった。かといって、東京ですることがない以上、帰省の誘いを断る理由はなく、連絡のあった次の日にはもう電車に乗っていた。情けないことだ。


 東京に出て一年が経っただけなのに、高校時代に毎日使っていた電車はもう自分の場所ではないような気がして、心持ち背筋を伸ばすようにしてロングシートの端っこに座っていた。羽織ってきた東京の街でよく見かけるスプリングコートは、ここではなんだか場違いのような気がした。平日の午後なので、近くのボックスシートに地元住人らしき老夫婦と、部活帰りの高校生がうつらうつらしながら単語帳を繰っているだけで、車両はがらがらだった。


 スマートフォンでもいじっていようかとも思ったが、無為に時間を溶かす点で、向かいの車窓を眺めるのとそう変わらないことに気付いてやめる。


 駅に止まった。地元の高校生しか使わない過疎な駅だ。自動でドアが開いて、へえ、もうドアは自動で開く時季なんだな、と当然のことを思う。雪国では冬は暖房の節約のために半ドアになることがある。ドアのロックだけ外れて、乗り降りする人がいる場合だけ、その人が自分の手でドアを開閉する。


 ふと、風が流れ込む。ああ、まだ涼しいじゃん。抗うようにつぶやく。


 うつらうつらしていた高校生が車掌の笛の音で飛び起きて、カバンをひっつかんで電車を降りて、ドアが閉まった。あと三駅か。無意識のうちに左手首に目を落とすが、そこに時計はない。去年まで時間に追われていたのに、今となってはありすぎて困っている。すべての時間が勝手に有意義で有意味だったあの頃とは違い、時間を有意義にしたかったら、自分でしなくちゃならない。何か起こったらいいのに、と思うのに、あと数日で迎える新学期には期待していない。


 妹は来月に高校生になるそうで、忙しくしているんだろう。ますます、ここが場違いのような気がしてきた。さっき降りて行った高校生、去年の同じクラスのあいつに似てるな、などとどうでもいいことを考えた。あいつがどうしてるかは知らない。やっぱり、大学で忙しくしているんだろうか。


 電車は川を超える橋に差し掛かった。赤い鉄骨の間を規則正しい騒音を鳴らしながら電車は進んでいく。


「あ、桜」


 老婦人がつぶやいて指をさした。川の両側、堤防の上の遊歩道には、桜の並木が続いていた。ああ、そういえばここ、桜並木だったっけ。実を言えば、東京でもう既に桜は観ていた。上野公園の散りかけの夜桜の、酒のつまみを売る屋台とサラリーマンの酒盛り、綺麗だね、とほざくカップルに恐れをなして逃げ帰ってきたのは記憶に新しい。


 東京より何日か遅れて開花した桜は、だれもいない遊歩道でまだ少しだけ涼しい風に揺れていた。品のある薄いピンクの花は、今満開に咲き誇る。それは見事な盛りだった。今、私の耳には電車の音しか聞こえない。


 はは、と私は笑った。これは認めるしかないだろう。


 春が、来た。

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