第5話 呪いの首輪
術中術後の気道確保のため、虫けらの喉は切り裂かれ、樹脂製のパイプが穴にはめ込まれていた。これに関しては医療ドラマなどを見ている人なら感覚的に理解できるのではないか。直感的に理解しやすいシンプルな施術である。
しかしこの気管挿管、簡単で広く行われる施術であるがため軽く見られる印象がある。特に医者の側からすれば何の難しさもない低リスクな施術であろう。気管挿管は絶対に受けたくない、などと患者が言い出したら驚かれるかも知れない。だが虫けらは二度とご免だ。気管挿管だけは何としても拒否したい。
ドラクエなどのRPGに例えるなら、気管挿管は呪われたアイテム、さしずめ「呪いの首輪」とでもいったところだ。装備しても攻撃や守備が上がることはなく、使えなくなる技や呪文が出てくる。下手に装備してしまったら慌てて教会に行き、神官に金を払って取り除いてもらわねばならない代物であると言える。それを強制的にはめられるのだ。
呪いの首輪こと気管挿管が行われればどうなるか。まず声が出せなくなる。ただ、これはまだマシな方だ。体さえ動けば、声が出なくてもコミュニケーションを取る方法はあるのだから。では気管挿管の最大の問題点、呪いの首輪の呪いの首輪たる所以がどこにあるのかと言えば、
気管に挿入されるパイプには、体内から湧いてくる痰を溜める場所がある。痰が溜まれば気道を狭め、呼吸が困難になり、最悪窒息することになる。なので痰が溜まれば専用の道具を使って吸引しなくてはならないのだが、これがまあ、有り体に言って地獄の苦しみなのだ。
パイプの中に溜まっている分だけ吸引するのならそうでもないのかも知れない。しかし担当看護師たちは、その奥、気管の中に溜まった痰までも吸引する。あるいは口の奥、鼻の奥まで吸引しようとする。地獄のフルコースである。
患者側としては、できるだけ痰の吸引を避けたい。けれど痰は勝手に溜まり、しかも痰が溜まったときの息苦しさは、すぐ近くに迫った「窒息死」を予感させる苦痛と恐怖を呼び起こす。冷静かつ的確にギリギリまで我慢するなどできようはずもなく、患者は看護師に痰吸引という地獄の責め苦を自ら進んで懇願する以外の選択肢を持たない。
さて、この痰吸引を懇願される側の看護師だが、その対応は大きく四つに分かれる。
1.患者の負担を最優先に考え、なるべく苦痛のないよう対応する。
2.いかにも面倒臭そうに、適当にやるだけやる。
3.顔は笑顔だが内心腹を立てており、腹いせにわざと患者が苦しむよう対応する。
4.吸引が楽しくて仕方ないらしく、必要ない者にまで吸引を勧めてくる。
幸いなるかな、人数的には1がもっとも多い。まあそれでも患者は涙をこぼすほど苦しい思いをしなくてはならんのだが、精神的には諦めもつく。問題は2より下の連中である。虫けらが術後HCUで目覚めたとき、側にいた看護師は2のタイプだった。
目覚めたばかりの虫けらは、まだ体を横に向けることすらもできない。そして気管挿管など初めての経験であるため、どの程度の苦しさが自らに危険を及ぼすかわからない。当初虫けらの手にはナースコールが握らされていたが、苦しくなればこれを押すのは当たり前であろう。なのにやって来た担当看護師は言うのだ。
「モニターの数値も下がってないし、痰も窒息するほど出てませんから、静かに息をすれば大丈夫ですよ」
つまりはナースコールなど押すなという話であるな。
この看護師の言葉は一見論理的に思える。相手が初めての大手術で体も動かせず声も出せないまま、パニック状態に陥っている患者でなければ、だが。しかしこちらは完全にパニックなのだ、ナースコールが自分の命をつなぐ唯一の手段と言えた。だから看護師に何を言われようと、苦しくなれば当然押すのだが、これに腹を立てたのだろう、看護師は虫けらの手からナースコールを取り上げ、代わりに痰の吸引器を握らせた。
「これで自分の苦しい場所から吸引してくださいね」と。
手術直後で虫けらの手はまだ自由に動かない。しかも鏡がある訳ではないので、呪いの首輪のどこからどうやって痰を吸引していいのかなどまったくわからないのだ。それでもだんだん息は苦しくなる。虫けらは吸引器を鼻の穴に突っ込み、とにかく湧き上がる鼻水を除去することに専念した。
言うまでもないが、痰の吸引は医療行為であるから、資格を持たない者が勝手に行ってよいものではない。ましてそれを患者に強制したとなれば、重大なインシデントとなるだろう。しかし、これで虫けらが病院を訴えたりするかと言えばそうではない。この段階ではまだ術後時間が経っていないからな、せん妄の可能性がゼロではないのだ。こんな事実はなかったのかも知れない。
ただしこの数日後、まだ体を起こせない虫けらの首に空いた穴に先を曲げた吸引器を引っかけて「全自動痰吸引器」とか言って笑ってた看護師もいたからな、上記の四区分自体は間違っていないと自信を持って言える。
病院はプロフェッショナルが集まる職人仕事の展覧会のような場所だ。だが決して神聖な神の領域ではない。そこには人間しかいない。故に人間社会の闇や問題点がそのまま病院内でも通用するのだ。ガンに限らず大病を患って長期入院する人は、この事実を頭の隅っこに入れておいた方がいいと考える次第。
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