第4話 そして終戦

 四月十日から入院、翌十一日の午前九時から手術は開始され、およそ八時間かかって終了した。虫けらが全身麻酔から目覚めたのは午後八時頃であった模様。当初の予定では下顎を真ん中からパッカーン! と左右に切り割り、そこから上顎の患部を切除するという話だったのだが、結果的には顎は割られなかったようだ。


 患部である左上顎奥は歯茎と口蓋の肉がゴソッと切り取られ、口腔と鼻腔の間の障壁が失われたイケイケドンドン状態。さらにはその上の骨の部分もガンに侵食されているおそれがあるため、骨がガリガリ削り取られている。そして首のリンパ節は左右共に除去された。


 鼻から胃には金属パイプが通され、喉は切開されて気管にチューブが差し込まれた。おかげで声が出せない。全身にはモニター用の電極がいくつも貼り付けられ、下半身は糞便を自動吸引する機械で覆われている。まさに絵に描いたような重病人の佇まいであったが、何はともあれ手術は終わった。虫けらは死ななかった。生き残ったのである。




 手術が終わればオペ室からHCU(高度治療室)に移され、丸一日の監視。


 おそらくこのとき虫けらの左顔面は腫れ上がり、見るも無惨な外見をしていたに違いない。しかし幸か不幸かHCUには――虫けらの目の届く範囲には――鏡がなかったので、虫けらは自分の姿を見ることなどできなかった。いや、仮に鏡があったところで見られなかったろう。この時点での虫けらは、起き上がるどころか両手を持ち上げることすら困難だったからだ。寝ている状態から首をちょっと持ち上げられるようになるまで、一週間以上かかったのではないか。


 動かせるのは眼球と手先だけ。窓のないコンクリート張りのHCUの暗い天井をただ延々と見つめながら、虫けらは全身を覆う倦怠感、そして息苦しさと戦っていた。不幸中の幸いと言っていいのか、痛み止めはよく効いていたらしく、それほどの痛みを感じることはなかったのだが、とにかく苦しかった。だが口は封じられ体は動かせない。この苦しさを誰か他人に伝える手段がないのだ。虫けらは一人でその苦しみに立ち向かうしかなかった。


 翌日虫けらを乗せたベッドは移動したが、あそこもHCUなのだろうか、この辺がよくわからない。とにかく明るい部屋で、常に視界の中を人がウロウロしていた。ここでは一晩過ごしたのだっけか。それともその日のうちに移動したのだっけか。時間の感覚が頭の中で溶けていたので何とも言いがたいのだが、ともかくここでワンクッション置いてから一般病棟に移された。


 一般病棟に移された際、虫けらが最初に思い浮かべた言葉は「捨てられた」であった。まだ体もマトモに動かないのに、どこともわからぬ場所に捨てられ放置された。もちろん冷静に考えればそんな訳はないのだが、そのときはそんな思いで虫けらの頭はいっぱいだった。でもこのわからない場所で生き延びなければ。何としても生き抜かなければ。虫けらの心は恐怖と悲壮感に埋め尽くされていた。この感覚が後々尾を引くことになる。


 ちなみにこのとき、虫けらは術後始めて首を回し、自分の手を見た。ビックリした。まるで赤ちゃんの手かと思うほど指も短いし、全体的に小さい。視覚に対する薬の影響、という言葉を思いつく程度には冷静さも残っていたものの、思考はそこで止まってしまう。口の中のガンに対しては一応の勝利を収めたはずの虫けらであったが、動けない体の内側に勝者の余裕などまったく皆無。ただただ恐れ、怯えていたのである。

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