第2話
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「ねぇ、ジャン・ミシェル美桜って知ってる?」
翌日、大海は同級生にCDを見せながら彼のことを聞いた。宿のパソコンを借りてチェックしてみたところ、彼が主にネット上で活動しているミュージシャンであることがわかったからだ。
「うん、知ってるよー! お母さんがフランス人っていうギタリストでしょー?」
「いや、シンガーソングライターって言ってたけど……」
「言ってた?」
しまった、と思い口元を隠す。有名人なら下手にうちに泊まっているなんて言わない方がいいのではと考えてのことだったが、それは杞憂に終わった。
「なーんだ、ヒロミちゃんのところに泊まってるんだー!」
「え? 知ってたの、島にいること?」
後ろの席の女子・宇留間(うるま)真珠(しんじゅ)は、驚いている大海を不思議そうに見つめ返した。
「だってー、うちのお母さんが空港で見たって言ってたもーん! お忍びなんてこの島じゃ無理だよー!」
当たり前でしょー、と呆れた調子で言う彼女を前に、そうだよなと納得する。離島ならどこでも同じだろうけれど、どこの誰が何をしたかなんて、すぐさま知れ渡ってしまうのは百も承知だったのに。
「よぉ、ヒロミ! わりぃけど、あとで数学の宿題よろしくな!」
バシン、と肩を強く叩かれ振り返る。そこには、愛用のサンバイザーを付けて来た遼平が白い歯を見せて立っていた。
「また宿題見せてもらうのー? だからみんなからバカジマくんって呼ばれちゃうんだよ、リョウヘイちゃーん!」
「うっせーな、オレは野球を極めんだからいーんだよ! お前こそそのダセェ団子頭なんとかしろよ!」
「いいんだもーん、こういうのがオシャレなんだからー!」
べぇ、と舌を突き出す真珠。んだと、と売られたケンカをすぐ買ってしまう遼平を羽交い締めにして抑えたのは、教室に入って来たばかりのクラスメイトだった。
「また朝っぱらからケンカしてるのか、バカジマ」
「バカジマって言うな! 放せよ、アツシ!!」
やって来たのは、坊主頭に黒縁メガネがトレードマークの優等生・知念(ちねん)篤志(あつし)。彼はこのクラスで最も背が高く大人びていて、リーダーのように頼られている。
「おはよう。真珠、外見だけじゃなくて中身も大人にならなきゃね?」
そのすぐ後ろにいたのは、色白でおしとやかな面立ちの女子・南風原(はえばる)渚(なぎさ)。手足が長く、三つ編みにした髪には艶があり、肌は絹のように滑らかである。そんな絵に描いたような琉球美人である彼女は、校内のマドンナ的存在だ。
篤志と渚が席に着くと、中学一年クラスの最後の一人が現れた。
「おはよう、波音(はのん)」
「おはよー、ハノンちゃーん!」
渚と真珠が率先して声をかけたが、サイドテールの少女は口を噤んだまま、会釈だけして教室に入ってきた。けれど、誰も驚いた様子は見せない。彼女が言葉を発しないことは、周知の事実だからである。
宮城(みやぎ)波音、彼女は同じ集落で生まれ育った彼らの幼馴染である。五年生までは普通に話す活発で勝気な少女だったが、六年生になって父親を亡くしてから体調を崩すことが多くなり、頻繁に学校を休むようになってしまった。度々起こる頭痛の発作に悩まされていたらしく、時折幻覚を見たり幻聴を耳にしたり、酷い時には夢遊病を発症したこともあるそうだ。
夏休みからは何度か親戚のいる宮古島の病院にかかっていたようだが、そういった症状はある日ぱたりと途絶え、その期間が嘘のように今では何不自由なく学校へ通えている。しかし、原因はわからないが、今度は何も話せなくなってしまったのだ。声帯や喉には異常がなく、診療所の医者からは失声症と告げられたらしい。
それでも彼らは、昔と変わらず彼女と接している。筆談にも根気よく付き合い、特に仲の良い渚と真珠は彼女のために手話までマスターした。
赤間小中学校の今年度の中学一年クラスは、以上の六名である。この学校は各クラスの人数が十人未満であり、そのため全員が互いの顔や名前のみならず、住所や家業、家族構成まで把握している。中学生たちが着ている制服――男子は学ラン、女子は紺色のセーラー服――は、全て卒業生のお下がりだ。校庭は青々と茂った芝生に覆われていて、裸足で駆け回る生徒も多い。敷地内にはヤシの木はもちろん、島バナナやシークワーサーの木も植えられている。
集落の子供たちは九年間この箱庭のような学び舎に通うが、この島には高校も大学もない。卒業後は石垣島や宮古島の高校に行く者がほとんどだが、一部は沖縄本島へ移り住み、そのまま県内や内地の大学へ行ってしまうことも稀にある。どちらにせよ、彼らが共に島で過ごせる時間はあと三年足らずだ。
「あっ、いいこと考えたー! ヒロミちゃん、美桜さんにこの島のことネットでPRしてもらいなよー! きっとファンがたくさん来てくれるよー?」
「そうだね……お願いしてみようかな」
このまま何もせずにいると、夏になっても観光客が碌に来ないかもしれない。そうなるといよいよ自分たちの生活も危うくなってしまうので、頼めることは頼んでみようと大海は思った。
*
「えっ、島の案内をしてくれるの!?」
「まぁ、徒歩圏内だけですけど……良かったら」
昼下がりに帰宅すると、美桜は居間の座椅子に腰掛け、胡坐をかきながら島のガイドブックを読んでいた。本来なら放課後には野球部の練習があるのだが、その日は職員会議のため休みになっていたので、大海は早速彼を誘ってみることにしたのだ。
「ほら、沖縄っぽい写真撮ってSNSに上げたら、フォロワー数が増えるかもしれないじゃないですか! おれ、カメラマンになりますよ!!」
「そうだねぇ……じゃあ、お願いしようかな!」
快諾された瞬間、よし、と心の中でガッツポーズをした。
「そしたら、伯父からかりゆしウェアと三線借りてきますね! 絶対映(ば)えると思いますんで!!」
美桜の返事を聞かぬまま、一喜の部屋へ急ぐ。赤地に白いハイビスカスの描かれたかりゆしウェア――沖縄風アロハシャツ――と三線を抱えて居間に戻り、彼に身に着けさせると、すぐに出発した。美桜はギター、大海は三線を背負って。
「ねぇ、ヒロミくん。あの不思議な石のドームはなぁに?」
「ああ、あれ実はお墓なんですよ。内地と全然違うんですけど」
「えっ、そうなの!?」
てぃだぬかじを出て左に進み、野良猫の群れを尻目に石垣に囲まれた家を数軒通り過ぎると、集落とサトウキビ畑の境目に墓地がある。とはいえ、それは本土の寺院や霊園にあるようなものとは似ても似つかない形状をしていた。車が一台駐車できるほどのスペースの奥に遺骨を収めるドーム状の造りがあり、その手前には何もない空間が確保されている。その傍らでは、紐に繋がれた山羊が美味しそうに草を食んでいた。
「ねぇ、沖縄のお墓ってどうしてこんなに広いの?」
「宴会をするためですね」
「え、宴会っ?」
観光客に説明する時大海はいつも驚かれるが、島人(しまんちゅ)には春の清明祭(シーミー)――中国から伝わった先祖供養の行事――の季節になると先祖代々の墓に集まってブルーシートを敷き、料理や酒を楽しみながら歌い、そして踊る習慣がある。
「へぇ、面白いねぇ! じゃあ、沖縄の人にお墓は怖いっていうイメージはないのかな?」
「ないですね、全然」
「本当だ、よく見たら赤間家って書いてある! 島の名前と同じだねぇ」
「あー……でも、もうこの島にいないんですよ。赤間さんっていう人」
「え、いないの? 一人も?」
「はい。でも、誰かが掃除してるみたいで、汚くなってるところは一度も見たことないんですよね」
「ふーん……」
「じゃあ、次は御嶽(うたき)に行ってみましょうか」
御嶽とは沖縄の各集落に存在する聖域であり、そこには琉球の神々や祖霊神が降臨すると信じられている。また、神事や祭礼が執り行われる特別な場所でもあるため、地元の人間以外の立ち入りは固く禁じられている。入口には鳥居が建てられているが、これは明治政府の統治によるものだ。
「ここが、御嶽です。赤間御嶽っていうんですけど」
「へぇ。なんだか、神社とは全然違うねぇ」
御嶽は石垣と小さな森に囲まれていて、奥には倉庫のような拝殿がひっそりと佇んでいた。内地の神社や寺院のような派手な装飾はなく、賽銭箱や崇拝対象にあたる像なども置かれていない。
「ねぇ、あの山は赤(アカ)城(グスク)山(やま)っていうんでしょ? 集落も御嶽も赤間なのに、どうして山だけ名前が違うの?」
「登ってみればわかりますよ。行ってみます?」
簡単に登れますから、と付け足すと、美桜は首を縦に振った。
潮風に吹かれながら、なだらかな山道を辿る。高さは海抜百メートルほどだったが、山頂からは島にある三つの集落に畑、そして美しい珊瑚礁が見渡せた。
「わぁ、凄い! いい景色だねぇ!」
「あれがおれたちのいる赤間集落に赤間ビーチ、東(あがり)港(こう)、灯台のあるところが西崎(いりざき)です。空港の周りが東(あがり)集落、反対側が西(いり)集落ですね」
平たい島を見下ろしながら、大海がそれぞれに指を差す。
「ヒロミくん、アガリとイリって?」
「ああ……沖縄本島では東のことをアガリ、西のことをイリっていうんです。東から太陽が上がるからアガリ、西に入るからイリ。ほら、西の表でイリオモテって読むじゃないですか。島によって呼び方は微妙に違うんですけどね」
「ああ、なるほど!」
「南は南風っていう意味のハエが訛ってフェー。北は古(いにしえ)の人々が来た方角っていう意味でイニシエのイとエが取れてニシらしいですよ。ややこしいですよね」
「え、北のことをニシっていうの!?」
「そう、だから内地の人(ナイチャー)が沖縄の人(ウチナー)に道を聞いたらトラブることがよくあるみたいで」
「面白いけど、当事者にはなりたくないなぁ」
そう呟いた美桜が右手を額に翳して遠くを眺めると、島の西側にある森の一部が伐採されていることに気づいた。土が剝き出しになっている敷地には、数台のダンプカーやショベルカー、ブルドーザーが配置されている。
「ヒロミくん、あれは……?」
「ああ、あそこ、リゾートホテルが建設されるんですよ。エルシオンリゾートっていうところが土地を買収したんですけど、住民は猛反対してて、毎日反対運動してるみたいですね」
「そうなんだ……」
エルシオンリゾートとは、沖縄県内のみならず全国、そして世界中の観光地に次々と大型リゾートホテルを建てている外資系企業のことである。その土地の所有者は町長の父親だったが、町長が本来の土地代を遥かに上回る多額の賄賂を受け取って無理やり売却させたという噂が島中に広まっており、西集落ではあちこちに抗議の看板が立てられているという。
「あんな風に森を伐採したら、生き物の住処だって減っちゃうのに……世の中って所詮金と権力なんだな、って思って失望しました」
「そうだね……」
美桜が表情を曇らせると、大海は慌てて話題を切り替えた。
「ミオウさん。あれが、アカグスクです」
山頂は平らになっていて、その中央には崩れた石垣があった。一見しただけで、かなり古い遺跡であることが伺えた。
「グスクって、確か沖縄の言葉で城っていう意味じゃなかった?」
「そうです、城です。でも、グスクっていうのはいわゆる戦国武将が築いた日本の城みたいな居城だったり、御嶽みたいな神聖な場所だったりするので、これは後者じゃないかって言う人が多いですね。まぁ、見ての通り跡形もなく崩れちゃってる状態なので、これが何だったのかは誰にもわからないんです」
「へぇー……」
「とりあえず、撮影しませんか? かなりいい感じで撮れそうですし!」
「そうだね、お願いしようかな」
三線を構え、珊瑚礁をバックに撮影する。山と海の間にハイビスカスがいくつか映り込み、お陰でかなり雰囲気のある一枚になった。
「バッチリです、ミオウさん!!」
「わぁ、ホントだ! 晴れてて良かったねぇ」
「そうですね! じゃあ、次はビーチに行きましょう!」
山を下り、ビーチに辿り着く頃にはすっかり夕方になっていた。
「わぁ、すごい! パイナップルみたいなものが生ってるねぇ」
「あれはアダンって言うんですけど、食べられないんですよ」
「へぇ、そうなんだ。残念だねぇ」
沖縄の浜辺では必ずと言ってもいいほど見かける植物の説明をしながら、茂みを抜けて波打ち際へ連れていく。風は緩やかで、湾になっているビーチも波が立っていない。観光客も島民もおらず、聞こえてくるのは海の音と、風に揺れる木々のざわめきだけだった。
「じゃあ撮りますよー! ハイ、チーズ!!」
砂の上に彼を座らせ、再び三線を弾くポーズで撮影をした。日が暮れて雲はオレンジ色に染まり、先ほどの一枚とはまた趣きが異なっている。
「どうですか、いい感じじゃないですか!?」
「本当だ、ヒロミくん上手だねぇ。これでお客さんたくさん来てくれるといいねぇ」
「えっ……」
思わず表情を凍りつかせてしまったが、美桜は笑顔のままだった。
「ご、ごめんなさい……利用するような真似をして」
「いいんだよ、ボクにとっても有難いし。でも、お願いごとはちゃんと言った方がいいんじゃないかなぁ。今後のために、ちょびっとだけアドバイス」
「…………」
「あ、ヤドカリだ! 可愛いねぇ」
相手が俯いているのを他所に、屈んで足元の小さな生き物を見つめる美桜。もしかしたら、この何気ない行動も彼なりの気遣いなのかもしれない。大海は、彼のことをただの物好きな優男だと決めつけていた己を恥じた。
「素敵な島だよねぇ、ここ。自然が豊かで、海がきれいで、ごはんも美味しい。島の人たちは陽気で親切だし、何より時間がゆったりまったり流れてる。忙しない世間から切り離された楽園のようだねぇ」
大きな流木に腰掛け、愛器を取り出し、脚を組み、ハミングをしながら弦を弾く。瞼を閉じて、時折流れゆく雲を眺めて。泣いている子どもをあやすような優しい旋律と波の音が重なり、鼓膜に心地良く響く。ああ、本当にミュージシャンだったんだなと改めて思いながら、大海は小さく拍手をした。
「えへへ、照れちゃうな。ありがとう」
「……今の、即興ですか?」
「まぁね。でも、ちゃんと頭に残ってるから大丈夫」
人差し指で額に触れ、ウインクをする。
「この島はいいところだから、どんどんメロディーが湧いてくるんだ。この勢いでアルバム一枚出せそうなんだけど、二週間じゃ全然足りないなぁ」
「……じゃあ、ヘルパーになったらいいんじゃないですか?」
ヘルパーとは、宿に無料で滞在しつつ、賃金なしで労働力を提供するスタッフのことである。リゾート地の民宿やゲストハウスではよく導入されているシステムだ。
「今年は神隠し(マムヌイ)のせいかまだ誰も応募してこないし、母も喜ぶと思います。その代わり、ちゃんとお客さんが来てくれないとヘルパーとして雇う余裕すらなくなりますけど……」
「ううん、やる! やらせて欲しい!! ボク、頑張ってお客さん集めるからさ!」
気合いが入ったのか、穏やかだった彼の瞳に光が灯った。興奮気味に顔を近づけてきたので、わかりましたから、と言って彼を押しのける。
「来月はホタルのシーズンだし、パイナップルだって出荷されるもんねぇ。夏になればマンゴーだって食べられるし、秋になったらマンタが見られるかもしれないんでしょ? やっぱりシーズン中はずっといなくちゃねぇ」
ガイドブックで詰め込んだ知識を連ねながら、愉快そうにまたギターを鳴らす。
「……シュノーケリングしたいなら、伯父に頼めばすぐやらせてもらえますよ」
「本当!? ボク、ダイビングもしてみたいなぁ!」
「それなら、初心者向けのコースがありますから」
「一緒に潜ろうよ、ヒロミくん! それでさ、今日みたいに映える写真いっぱい撮って投稿しよう。そうしたら、お客さんたくさん来てくれるよ! てぃだぬかじに人が集まったらさ、ボク、庭でリサイタルしたいなぁ」
楽しげに夢を語る美桜につられて、大海も微笑む。
「……あの、ミオウさん」
「なぁに?」
「そのヘッドホン、どうしていつも着けてるんですか?」
どうやら音楽を聴くためのものではないらしく、アクセサリーのように肌身離さず首に掛けているそれを指差して尋ねる。
「これはね、兄さんの形見」
「えっ……」
再び、顔を強張らせる大海。しかし、美桜は指も口も止めなかった。
「このギターもね。音楽のことは全部兄さんから教わった。彼もプロを目指してたんだけど……」
テンポを下げ、切ないバラードのようなメロディーを奏でながら、彼は自分の身の上話をした。
美桜の母は日本人と結婚したが、その男性には既に息子がいた。十ほど歳の離れた腹違いの兄で、容姿も全く似なかった彼らは初め互いに遠慮がちに接していたが、彼の兄がギターを弾いている時だけは例外で、彼はいつも家の中でのささやかなライブを楽しんでいた。音楽が、兄弟の絆を育んでくれたのだ。学校では日本人離れした外見や気の弱さが原因でよくいじめの被害に遭っていたが、彼の兄は、慰める代わりにありったけの音楽の知識を授けてくれたのだ。彼にとって兄は最高の家族であり、親友であり、そして師匠だった。
そんな兄弟の運命を変える出来事が起きたのは、彼の兄が大学のギターサークルで仲間たちと練習に励んでいた頃だった。
「父さんが、交通事故で亡くなってしまったんだよ。母さんのパートだけでは生活が苦しかったから、兄は大学を辞めて、車の工場で働き出した。プロのミュージシャンになる夢も諦めざるを得なかった。でもね、その工場の上司が酷い人で、毎日のように罵詈雑言を浴びせられて、兄さんは身も心もボロボロになってしまって……」
ある日、突然姿を消してしまった。遺体は山中の崖下で見つかり、ズボンのポケットに入っていた遺書の内容から、自殺であることがわかったのだ。
「それからボクは母さんと一緒にフランスへ渡って親戚の世話になっていたんだけど、どうしても、日本でミュージシャンとしてデビューしたくてね。反対する母さんたちを無視して、勝手に戻ってきちゃったんだよねぇ」
だって、ボクは兄さんのようになりたかったから。それが、兄さんの夢だったから。いつの間にか演奏を止めていた美桜が、足元を見つめながら言った。そこには、ヤドカリの足跡がいくつも残されていた。
「最初は見るだけで辛かったけど、このヘッドホンを着けてると兄さんが傍にいてくれてるような気がするし、ギターを奏でれば不思議と力が湧いてくる。だから、手放せないんだ」
赤ん坊の頭を撫でるように、指先でギターに優しく触れる。
「……すみません、辛いことを思い出させて」
「気にしないで。むしろ、ボクのことを知ってもらえて良かったよ」
少し長い付き合いになりそうだしね、と言いながら彼はまたウインクをした。
「あの、今、もしかして喋りながら作曲してたんですか?」
とにかく話題を変えようと思い、大海はふと浮かんだ疑問を口にしてみた。
「ううん。これはね、昨晩どこからか聞こえてきた歌をそのまま弾いてみただけ」
「歌……? 夜遅くにですか?」
「いや、九時くらいだったかな? ヒロミくんは気づかなかった?」
昨夜のその時間は、確か風呂に入っていたはずだ。だが、外からは何も聞こえなかった。家族も誰一人としてそんな話はしていない。
「ビーチの方から響いてたから行ってみたんだけど、誰もいなかったんだよねぇ。それでもやっぱり歌声が聞こえてきたから……もしかして、人魚が歌ってたのかもね?」
「まさか。夢見すぎですよ、ミオウさん」
いたずらっぽく笑う彼を、冷たくあしらう。
「だって、石垣島の伝説では、人魚はきれいな声で歌うっていうじゃない」
「……そんなことまで書いてあるんですか? ガイドブックって」
「うん。コラムのページに載ってたよ」
一七七一年四月二十四日午前八時、石垣島から四十キロほどの南東沖で発生したマグニチュード七・四の地震により大津波が引き起こされ、主に島の東海岸にあった村が壊滅的な被害を受けた。明和八年の出来事であったため、これは後に「明和の大津波」と言われるようになった。
そして、この悲劇に纏わる伝承が石垣島には残っている。それは、美しい歌声を持つ人魚が島の漁師に捕まった時、自分を解放したら海の恐ろしい秘密を教えると言い、漁師が逃がした後、翌朝大津波が島を襲うから高台へ避難しろと伝えた……というものである。奄美地方や沖縄では古くから人魚を「ザン」と称していたが、宮古諸島では「海(ユナ)の(イ)魂(タマ)」と呼ばれている。
「知ってるなら、冗談でも人魚の歌かもしれないなんて言わないでください。つまりそれは、大災害の予兆ってことなんですから」
「でも……確かに、聞こえたんだよ」
眉を八の字にしてもまだ食い下がる美桜に苛立ち、大海は語気を強めて言った。
「ミオウさん、向こうに大きな岩がたくさんありますよね? あれ、全部その津波で打ち上げられたものなんですよ。この島だって、少なからずダメージは受けてるんです。今後は、人魚のことも津波のことも絶対に口にしないでください」
「……うん、わかった。ごめんね」
浅瀬には、直径五メートルから十メートルほどの岩塊がいくつも佇んでいた。県内の各地で確認されているそれは、無言で津波の凄まじさを物語っている。
「あれ……? でも、一つだけ、岩じゃなさそうだけど……」
「え? どれですか?」
「ほら、右から二番目のやつ。他のと形が違うでしょ?」
言われてみれば、確かに横長で、丸みを帯びたフォルムをしている。二人はギターと三線を置いて駆け出し、飛沫を上げながら近づいていく。その正体に気づいた時、美桜はショックのあまり膝から崩れ落ちた。
「ヒロミくん、この子は……!?」
「……たぶん、赤ちゃんです。マッコウクジラの」
先島諸島周辺では、クジラやイルカのなかまが頻繁に目撃される。それは海の中だけでなく、海岸に打ち上げられている場合も含まれる。
大海は美桜のスマートフォンを借りて、町役場に連絡した。サメの類に咬まれた跡のないその個体の死因は、大量に飲み込まれたビニール袋やペットボトルだった。
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