第3話
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「あの……大丈夫ですか、ミオウさん」
マッコウクジラの死体を目の当たりにしてから数日間、美桜は思いつめた表情で虚空を見つめることが多くなった。大好きなギターにも手をつけておらず、流石に不安になり、大海は部活帰りに彼の部屋を訪ねた。
「ああ、ごめんね、心配させちゃって。ちゃんとご飯は食べてるよ? でも、やっぱり、どうしても悲しくて……」
胡坐を掻いて壁に寄り掛かり、ふわりと揺れるカーテンの向こうの水平線を見つめながら呟く。
「ボクたち人間のせいで、一体どれだけ罪のない生き物たちが犠牲になっているのかと思うと……」
「…………」
涙を流していなくとも、彼の悲しみは痛いほど伝わってくる。居た堪れなくなった大海は、何とか彼を元気づけようと、作り笑いをしながら歩み寄った。
「でもねミオウさん、いいことだってあったよ!」
ほら見て、と宿の予約台帳を広げた。空白だったゴールデンウィーク中の予約表が、少しずつ埋まり始めたのである。
「きっと、あの投稿を見た人たちが申し込んでくれたんだよ! ミオウさんのお陰だよ、ありがとう!!」
「……そっか、それは良かった。でもヒロミくん、お客さんの個人情報を人に見せちゃダメってお母さんに言われなかった?」
「あっ……」
しまった、と思い台帳を即座に閉じる。宿のスタッフとしてはまずいことをしてしまったが、暗い表情をしていた美桜がようやく笑顔を見せてくれた。胸を撫で下ろした大海は、その勢いのまま彼の興味を引きそうな提案をした。
「ねぇ、ミオウさん。三線、弾いてみたくない?」
「三線って、写真撮った時に貸してくれたあの楽器のこと?」
「そう! 三線の先生ではないんだけど、うちのおじいならきっと教えてくれるからさ! ミオウさんさえ良ければ、すぐにでもできるよ!」
おじいとは、齢七十一になる大海の血の繋がらない祖父・喜一のことである。午前中は港でかつての漁師仲間とお喋り(ゆんたく)をしていることが多いが、午後は三線を弾きながら島唄を口ずさんでいる彼ならきっと快諾してくれるのではないかという算段である。
「ああ、いつも夕方に素敵な民謡を演奏している人、ヒロミくんのおじいちゃんだったんだねぇ! それはぜひお願いしたいなぁ」
先ほどまで悲観に暮れていたことが嘘のように、美桜の瞳が輝きだした。大海も思わず嬉しくなって、そうこなくっちゃと言いながら彼の手を引き、喜一がいる宿の居間の縁側へ向かう。
「おじい! この人に、三線教えてくれない!?」
紅型(びんがた)模様の赤いかりゆしウェアを着た丸く大きな背中が、僅かに動いた。白髪交じりのオールバックに濃く太い眉、皺の刻まれた浅黒い肌に胡麻塩髭、島酒とビールで肥えた腹、二重瞼に射るような強い眼光。口数が少ないことも手伝って初対面の相手を萎縮させがちな喜一であるが、威圧的な外見とは裏腹に、実は気さくでよく笑う老人である。三線があれば美桜ともきっと打ち解けてくれるだろうという淡い期待を抱いて、大海は彼に頼み込んだ。
「この人ね、ミオウさんっていうんだけど、プロのミュージシャンなんだよ!! ギターが上手だから三線も上手くできると思うんだけど、どう!?」
「…………」
じろり、と美桜の姿を捉えるその目力は、刑事のように鋭かった。その気迫に負け、思わずたじろぐ二人。
「……あんた、前、ユナイタマの……人魚の歌を弾いていただろう」
「えっ……?」
予想外の発言に、声を漏らす大海。美桜は、少し間を置いてから頷いた。
「クジラの仔が死んだ日の夜も、人魚は歌っていた。あれは、人魚の悲しみの歌だ。そして、ニライカナイへ還る命への鎮魂歌でもある」
ニライカナイとは、琉球の民間信仰におけるあの世のことである。遥か東の海の彼方にあると信じられ、島々の豊穣と生命の源であり、神々の住まう世界であり、そして祖霊の導かれる場所ともされている。
「おじい……どうしたの、今日ちょっと怖いよ?」
「大海。お前は聞こえなかったのか」
「おれは……」
美桜に釘を刺した手前正直に言えなかったが、実は彼も、あの日の夜にその歌声らしきものを耳にしていた。気のせいだと思いたかったが、もはや認めざるを得ないようだ。しばらく視線を泳がせていたが、大海が意を決して答えようとすると、喜一が溜め息を吐いてそれを遮る。
「まぁいい。そこのお兄さん、ちょっと待っててくださいね。大海、座布団と一喜の三線を持って来なさい」
「え、あ、うん……」
たどたどしく返事をしてから、一喜の部屋へ向かった。敷かれた座布団に尻を乗せた美桜は僅かに緊張しているように見えたが、数時間後にはすっかり仲良くなったようで、夜の帳が下りる頃には揃って島酒『風車祭(カジマヤー)』で顔を赤らめながら声高らかに笑っていた。風車祭とは、数え年九十七歳を迎えた老人の長寿を祝う沖縄の祭事のことである。
「ちょっと、ミオウさん! 大丈夫、飲み過ぎじゃない!?」
「らいじょぶらいじょぶ、らからもっと飲ませてぇー!」
「全然大丈夫じゃないじゃん! おじいも止めてよ!!」
「だっからよー!?」
陽気でやかましい笑い声のデュエットに挟まれて、ダメだこりゃと大海は早々に諦めた。喜一は酔うと「だからよ」や「だからね」を連発する傾向にある。島人(しまんちゅ)のそれは接続詞ではなく相槌なので喜一には構わず、大海は念のため美桜の横で黒いビニール袋を被せたバケツを用意した。
「ミオウさんよー、あんた本当にきれいだよなー? 最初はどこのネーネーかと思ったさぁー!」
「やらなぁキイチさんったらぁー! れもこの見た目らしぃ、美しい桜って書いてミオウらからぁ、昔っから女々しい女々しいってよくいじめられたんれすよぉー!」
「いい名前だと思うよー、だってうちの一喜なんか喜一をひっくり返しただけだもんねぇー!」
適当(てーげー)さぁー、と過去に何度も話していることを得意気に語る喜一。
「あとねぇ、大海の名付け親も私なわけさぁー!」
「じゃあ、ヒロミくんはろうしてヒロミくんなんれすかぁー?」
「それはねぇ、三月十六日生まれだからだよぉ! 三、一、六の順番を入れ替えると一、六、三になって、ヒ、ロ、ミってわけさぁー!」
「ああ、なるほろねー! キイチさんてんさぁーい!!」
だからよ、と再び言いながら腹を抱えて笑う喜一。酒の味がわからなくなっても、酔っ払いながら誰かとお喋り(ゆんたく)をするのはやめられないらしい。
他にお客さんがいなくて本当に良かったと安堵した大海だったが、その直後に、ふらりと居間に入って来た一人の青年の姿が視界の端に映った。眼鏡を掛けた三十代前半ほどのその男性は病的にやせ細っていて、表情は暗く、目も虚ろである。しかし昼間の美桜のように悲しみに暮れているのではなく、深い闇を見つめているような、この世の全てに絶望しているような、近づき難い異様な雰囲気をその身に纏っていた。
「あ、いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
夕飯を予約した客かと察し、着席を促す。しかし、その青年は大海には目もくれず、黙って隅の食卓を陣取った。
「さんぴん茶、どうぞ。おかわり自由ですので」
冷蔵庫からピッチャーを取り出し、ジャスミンの香りがほのかに漂う黄金色の茶を淹れて、俯いている彼の前に置く。
特に返事はなかったので、ごゆっくりどうぞと言い残して酔っ払いたちの方へ振り返る。すると、美桜は既にバケツの世話になっていた。
「あーっ!! だから言ったのに、ミオウさんのバカー!!」
「大海、ミオウさんトイレに連れてってやれー!!」
顔色の悪い美桜に肩を貸し、よろめきながらも踏ん張って運ぼうとする。そんな大海の様子を見て、先ほどの陰気な青年は不快そうに舌打ちをした。その嫌味な態度に一瞬だけ苛立ったが、今はそれどころではない。自分よりも体の大きい美桜を懸命にトイレまで運び、便器まで誘導してから、大海は廊下でへたり込んだ。
「大海! これ、美桜さんに渡してあげて」
肩で息をしている彼に、聡美が水を入れたペットボトルを差し出した。わかった、と言ってから眉をひそめて彼女に愚痴を漏らす。
「ねぇ、何あの感じ悪いお客さん」
「しっ、聞こえたらどうすんの!」
左頬を思いきり抓られ、抗議の声を上げた。すると、少し落ち着いたのか、美桜が様子を伺うように問いかけてきた。
「どうしたの、大丈夫、ヒロミくん……」
「いいのいいの、気にしないで! 美桜さんこそ大丈夫!?」
「はい、何とか……すみません、お騒がせしてしまって」
「大丈夫よ、いつものことだから! こちらこそ、喜一さんに付き合わせちゃってごめんなさいね!」
「いえ、とんでもないです……」
「ミオウさん、水飲みなよ。出てこれる?」
大海が言うと、徐に個室のドアが開き、ふらつきながら出てきた。張りのなくなった声で礼を言い、疲れ切った顔つきで水を飲むその姿は、まるで初めて哺乳瓶でミルクを飲む赤ん坊のようだった。
「私、お布団敷いてきますから横になって休んでください。大海、今日は美桜さんと一緒に寝てちょうだい。絶対に仰向けにはしないのよ、わかった?」
はーい、と生返事をして再び美桜に肩を貸す。喜一の酒盛りの餌食になった客の面倒を見ることにはもう慣れ切っていた。
「ごめんね、ヒロミくん……」
「別にいいよ、よくあることだし」
でもおれの肩に吐くのだけはやめてね、と言いながら足を動かす。扉を開けて美桜を横向きに寝かせ、大海は座り込んで大きな溜め息を吐いた。
本来なら喜一に責任を持って運んでもらいたいところだが、泥酔している彼には当然頼めない。一喜も父親に似て大の酒好きなので、今宵も行きつけの居酒屋で宴を楽しんでいるのだろう。
「ありがとう、ヒロミくん……」
掛け布団で小麦色に焼けた細い体を覆ってやると、美桜は背後の大海に視線を寄越して呟くように言った。
「いいって。それより、おじいはちゃんと教えてくれた?」
「うん、もちろん。最初はちょっと怖い人かもって思っちゃったけど、優しいよね、キイチさん。教えるの上手だし」
「そうだよ、おじいは優しくてカッコイイんだ! 昔、船から落ちて溺れたおれをすぐに助けてくれたし、野球だって上手かったんだから!」
「へぇ、キイチさん野球してたんだ?」
「そう! しかもおじいはね、高校生の時甲子園に行ったことがあるんだよ!!」
嬉しくなって、興奮気味に語り始める大海。
「ピッチャーで四番のエース! チームの……いや、沖縄の期待の星だったんだ!! 伝説の左腕(サウスポー)って言われて、超有名だったんだって!!」
「そっか、凄い人だったんだねぇ……」
「うん! でも、その頃はまだ本土に返還されてなかったから、甲子園の土を持って帰ることができなかったんだ……だから、今度はおれが甲子園に行って、土を家に持って来る。でもね、それだけじゃなくて、優勝旗も欲しいんだ。それが、おじいの夢だったから」
「ふぅん……じゃあ、ヒロミくん、頑張らないとねぇ」
「もちろん、頑張るよ。でも、おじい最近キャッチボールしてくれないし、おばあが死んじゃってからは試合の応援にも来てくれなくなっちゃったんだよね……」
「…………」
「……ミオウさん? 寝ちゃったの?」
顔を覗き込むと美桜は既に瞼を閉じていて、規則正しい寝息を立てていた。
「まったく、世話の焼ける大人だなぁ」
そう言いながら大海はちゃぶ台にノートと教材を広げ、宿題に取りかかった。しかし、やがて彼も睡魔に襲われ、その誘惑に負けて深い眠りに就いてしまった。
彼は、空から島を眺めていた。けれど、地形はそのままなのに、赤(アカ)城(グスク)山の頂の遺跡は立派な石の砦になっていて、古風な衣装に身を包んだ人々が輪になってその砦を囲み、何かの儀式をしているように見えた。楽しげに歌い、踊っているその光景は、五穀豊穣を祈願する豊年祭(プーリィ)と雰囲気が似ているように思えた。
その祭りは浜辺でも行われていた。島人たちは上げた両手を左右にかき回し、テンポの速い愉快な唄に合わせて踊っている。それは、現在でも祝い事で披露されるカチャーシーと全く同じ仕草だった。その様子を波打ち際から楽しそうに見物していたのは、尾鰭を軽快に振っている数匹の人魚たち。
シマニサチアレ、ティダヲアガメタマエ、ワレラニティダヌファノスクイガアランコトヲ――!
「……あれ?」
目が覚めて、どうやら先ほど見たものは夢だったらしいと悟る。傍らの美桜はまだ眠っていて、日付はあと三十分足らずで変わろうとしていた。
宿題の続きをしながらしばらく美桜を観察していたが、やがて彼の腹が鳴ったので一安心し、ジャージに着替えて部屋の電気を消す。すると、カーテンを閉め忘れた窓から月明りが差し込んできた。窓を開けると、そこには煌々と夜空に浮かぶ満月。その幻想的な美しさに見とれていた大海は、戸の開く音と玄関からどこかへ向かおうとする人影に気づいた。その姿形から察するに、恐らく居間で見かけたあの感じの悪い客である。
日付は既に変わっているというのに、一体どこへ何をしに行くのだろう。なぜか胸騒ぎがした大海は急いで宿を飛び出し、懐中電灯も持たずにその男を追いかけようとした。しかし、既に道の角を曲がってしまったのか、どこにも見当たらない。
途方に暮れていると、どこからか人の声が聞こえた。例の、あの歌だった。しかしそれは海からではなく、集落の奥へ続く道の方から聞こえてくる。その上、声色も以前のものとは違うようだった。
足音を忍ばせて歩き続けると、彼は御嶽に辿り着いた。鳥居の向こうは闇に包まれていたが、どうやら拝殿の前に誰かいるらしい。その声は、およそ一年振りに聞く、よく知っている少女のものだった。
「ハノン……? 何してるの、こんなところで」
大海は、無意識のうちに彼女を呼んだ。彼女がそれに気づいたかと思うと、彼は勢いよく胸を押され、思いきり突き飛ばされてそのまま尻餅をついた。
「ちょっと、待ってよ! ねぇ!!」
逃げ出す波音を引き留めようと叫んだが、彼女はそのまま姿を消してしまった。深夜になぜ一人でこんなところに来たのだろう、なぜ人魚の歌を歌っていたのだろう、そもそも彼女は喋れなくなったはずなのに――疑問は尽きないが、大海は当初の目的を思い出し、徐に立ち上がる。
しかしその直後、何者かに背後から捕らえられてしまった。大海よりも遥かに大きい体格の持ち主で、彼はあっという間に持ち上げられ、抵抗できなくなる。そして助けを呼ぶ寸前に口元を布で覆われ、彼の意識はそのまま遠のいていった。その人物からは、タバコとガソリン、そして潮の臭いがした。
目覚めると、大海は自室のベッドの上にいた。早朝に散歩をする隣のおばあか他の誰かが彼に気づき、家族に知らせてくれたのかもしれない。洗濯かごのジャージには砂汚れがついていたので、夢でないことだけは確かだった。
件の男性はその夜から行方知らずとなり、また神隠し(ムヌマイ)だと島民たちは騒ぎ始めた。けれどその男は例外的に、やがて西(いり)集落のビーチの波打ち際に現れた。それはマッコウクジラと同じように、亡骸となって打ち上げられていた。
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