ユナイタマの島

黒須 南

第1話

 1


 これは、ある島で語り継がれる人魚と津波の物語である。


 昔々、島の北東に小さな村があった。ある晩、村人たちが浜辺で三(さん)線(しん)を弾き、唄を歌いながら踊っていると、海の彼方から美しい歌声が聞こえてきた。村人たちは、一体誰が歌っているのだろうと不思議に思っていた。

 そして、月のきれいなある夜のこと。漁師たちが小舟に乗って凪いでいる沖へ出ていくと、大量の魚と共に、麗しい人魚が網に掛かったのだった。どうやら、不思議な歌声の持ち主はこの人魚だったらしい。

漁師たちは、珍しいものを捕まえたと大喜び。しかし、人魚は泣きながら彼らに懇願した。どうか私を海へ帰してください、そうしたら皆さんに海の恐ろしい秘密をお教えします、と。

 若者は渋ったが、翁は可哀想だから放してやろうと言い、人魚は海へ帰された。そして、人魚は彼らに伝えた。

 明日の朝、大きな津波が島を襲いますので高い山へ避難してください、と。

 漁師たちは人魚の言葉を信じ、村人たちを引き連れて山へ逃げることにした。その前に隣の村にも伝えたが、馬鹿馬鹿しいと一蹴され、信じてもらえなかった。

 夜が明け、日が高く昇る頃、村人たちは山の上から潮が異様に引いていくのを目撃した。それはやがて化け物のような大きな水の壁となって島に襲い掛かり、村をあっという間に吞み込んでしまったのだった。

 村人たちのほとんどは助かったが、人魚の言葉を信じなかった隣村は壊滅してしまったという。


                   *


 太陽が強く照りつけている。森のガジュマルも白い砂浜も碧い海も、夏の訪れを予感して胸を躍らせている。

 光はオーロラの如く珊瑚礁に降り注ぎ、その周囲を舞う色鮮やかな魚たちをも輝かせる。あるものは珊瑚を啄み、あるものは珊瑚やイソギンチャクの陰に隠れている。岩の隙間ではウツボが顔を覗かせ、ソフトコーラルの上ではウミガメが気持ち良さそうに昼寝をしていた。

「見ろよ、ヒロミ! カメがいるぜ!!」

 シュノーケリングを楽しんでいた褐色肌の少年が、少し離れた友人に向かって叫んだ。それに気づくと、赤髪の少年が彼の方へ泳いでいく。

「本当だ! アオウミガメだね」

「ちょっと撮って来るからさ、これ持っててくれよ」

 そう言いながら、ライフジャケットを脱ごうとした褐色肌の少年を、赤髪の少年が制する。

「ダメだよ、リョウヘイだって寝てるのを邪魔されたらイヤでしょ?」

「……チッ、しゃーねぇな」

 軽く舌打ちをしつつも、素直に諦める彼。しかし、その直後に数人のダイバーがやって来てカメの写真を撮ろうと群がり、起こされたカメはすぐさま逃げてしまった。初心者の集団だろうか、カメに夢中になるあまり後ろ足で珊瑚の枝を折ってしまっていることに気づいていない。

「あーっ!!」

「あーあ、行っちゃったね……」

「おいコラ、なんでオレはダメであいつらはいいんだよ!?」

 エメラルドグリーンの波に揺らされながら、褐色肌の少年が抗議する。

「いいわけないよ、本当なら止めたかったさ!!」

「小僧ども! そろそろ帰って昼にするぞ」

 傍らの小さなダイビング船から、少し長い天然パーマの髪にサングラスを乗せた筋肉質な男が少年たちに言った。タバコに火をつけてから、オレンジ色の屋根の船・てぃだぬふぁ号のエンジンをかける。

「ヒロミ、アンカー外して来い」

「わかった!」

 ライフジャケットを友人に託し、彼は潜って碇を手に取り、水中に放した。それが引き上げられていることを確認してから船の梯子に膝を乗せ、フィンとマスクを外して船に上がる。

「カズキさん。やっぱり進んでるね、サンゴの白化」

「そうだな……」

 珊瑚には褐(かっ)虫(ちゅう)藻(も)という微生物が寄生しており、それが光合成をすることによって珊瑚は生き長らえている。しかし温暖化による海水温の上昇などが原因で褐虫藻が離れてしまうと珊瑚は色を失って白い骨格のみとなり、やがて死に絶えてしまうのだ。

「あー腹減った!! 何かな、今日の昼メシ!」

 珊瑚の状態を憂える彼らを他所に、褐色肌の少年・鹿島(かじま)遼(りょう)平(へい)が大の字に横たわって叫んだ。軽く破顔してから、赤髪にマリンブルーの瞳を持つ少年・赤(あか)郷(ざと)大海(ひろみ)が答える。

「もずくスープともずくの天ぷらともずくの酢の物って言ってたよ」

「んだよ、まだなくなってねーのかよ!? もう飽きたっつーの!!」

 春先に採れたもずくは、近所にお裾分けをしても消費に苦労してしまうほど豊作であった。大海の母は民宿の女将をしているが、朝食の献立も毎年この季節はもずく料理ばかりになってしまうと愚痴を零している。

 ウェットスーツを着ながら船を操縦している浅黒い肌の男は、ダイビングショップを開業している彼の伯父・与那覇(よなは)一喜(かずき)。しかしながら伯父というのは建前で、戸籍上は赤の他人である。

 大海は、自らの父のことを知らない。何故ならば、母・赤郷聡(さと)美(み)が学生時代に米兵の青年と交わり、結婚しないまま生んだ子だからである。彼女はその青年に本気で恋をしていたが、相手は遊びのつもりだったらしく、任期満了直後に身重の彼女を放置したまま帰国してしまったのだ。

そんな時、途方に暮れていた聡美を救ったのが、ダイビングサークルの先輩だった一喜である。彼女に想いを寄せていた彼はその不運を哀れに思い、結婚しなくていいから君と子供の面倒を見させて欲しいと申し出たのだ。彼はその提案を受け入れてもらえなくても仕方がないと考えていたが、出産のために大学を辞めてしまい、実家にも居場所がなかった聡美は彼の手を取り、大海を産んだ直後にここ・赤(あか)間(ま)島(じま)へやって来たのである。

一喜の実家は、島の中心となっている赤間集落の外れで小さな民宿「てぃだぬかじ」を営んでいた。島(しま)言葉(くとぅば)で「太陽の風」という意味のその名前は、漁労長を務めていた彼の父・喜一(きいち)がつけたもので、引退後は夫婦でひっそりと宿を切り盛りしていた。喜一の妻は三年前に他界しており、現在は聡美が宿の主人、一喜がそれと併設するダイビングショップてぃだぬかじを経営している。

しかしながら、売り上げは今年に入ってから大幅に減少していた。原因は、島で多発している観光客の失踪事件。一人で内地(ないち)――北海道から鹿児島までのこと――からふらりと島を訪れに来た若者が、次々と行方知らずになっているのだ。一か月に一人が姿を消していて、島の住人たちは神隠し(ムヌマイ)だと恐れ、その噂が内地にも伝わってしまい、それが数字に影響しているのだろう。宿もダイビングショップも閑古鳥が鳴き、島全体が活気を失いつつある。

「ほら、着いたぞ。起きろ」

 船がビーチに近づくと、大海と遼平は左右から裸足のまま浅瀬に飛び込んだ。エンジンの止まった船を腕で押さえて減速させ、碇を砂の中に埋める。

「いてっ!!」

 突然、声を上げた遼平。左手で船縁を掴み、右足を水面から上げている。

「どうしたの、何か踏んだ!?」

「ガラスの破片が落ちてやがったんだよ……クソッ、血ぃ出ちまった」

「早く帰ろう。ほら、乗って」

 遼平を背負い、一喜の軽トラの荷台に乗せる。大海は船から救急箱を取り出し、消毒して絆創膏を貼り、宿に着くまでずっと遼平の右足を両手で支えた。

「サンキューな、ヒロミ」

「いいって」

 話しながら、大海はビーチを見渡していた。海は言うまでもなく美しいが、浜辺は漂着ゴミで溢れている。廃棄された浮き、片方だけのビーチサンダルや長靴、軍手、釣り針に釣り糸、歯ブラシ――特に目立つのは、大量のペットボトルと空き缶である。国内のものはもちろん、周辺の国々から流されてきたものも非常に多い。

「お前ら、次からギョサン履いて来いよ。今度買って来てやるから」

 ギョサンとは、鼻緒と底の部分が一体化した樹脂製の頑丈なビーチサンダルのことである。

 はぁい、という返事と二人の腹の音が重なり、大海と遼平は互いに目を合わせて笑った。


 民宿てぃだぬかじは、ビーチから徒歩五分という好立地にある。石垣に囲まれた赤瓦屋根の、絵に描いたような沖縄の古民家の門には当然一対のシーサーが佇んでいて、訪れる客をいつも喜ばせている。ダイビングサービスてぃだぬかじはすぐ隣の民家の一階部分にあって、二階と三階が大海たちの住居になっている。

 器材を洗い終えると、大海たちはもずくのフルコースを民宿の居間でぺろりと平らげ、そのままデイゴの木の下のハンモックで昼寝をし始めた。潮風にたゆたうリズムは心地良く、民宿の縁側からはゆったりとしたテンポの三線の音色と島唄が聞こえてくる。

「今日はてぃんさぐぬ花、か……」

それは宿の経営から退いた喜一の日課で、歌詞の意味はわからなくても、大海はそれに耳を傾けるのが大好きだった。そしていつも、気づけば眠りについてしまっているのである。

「大海、起きて。遼平くんも」

 日が傾き始めた頃、大海たちはエプロン姿の聡美に肩を揺さぶられてようやく目覚めた。

「私、空港行って来るから。宿の方、お願いね」

 民宿にはレンタカーでやって来る客がほとんどだが、稀に送迎がオプションとして依頼される場合がある。そんな時は、大海が留守番をして客の話し相手や宅配便の受け取りなどをしなければならない。

 エプロンとバンダナを外し、ギョサンからランニングシューズに履き替え、オレンジ色のてぃだぬかじオリジナルTシャツに着替えた聡美は、仕上げに紺色のキャップを頭に乗せた。明るい茶色に染めたショートボブの彼女は大海と顔がよく似ていて、実年齢より十歳ほど若く見られるのが常である。

「じゃあな、ヒロミ!」

「うん、バイバイ!」

 バンの助手席に乗せられた遼平が、窓から顔を出して手を振る。まだ半分しか開いていない瞼を手の甲で擦りながら、大海は覚束ない足取りで宿の受付へ向かった。

 数学の宿題が終わる前に、聡美は客を連れて戻って来た。戸の向こうで、楽しそうに談笑している。声の持ち主は、若い男性のようだった。

「はい、どうぞ! ようこそてぃだぬかじへ!」

 戸を開けて聡美が客を入れた時、大海はその半ば人間離れした容貌に目を剥いた。肩甲骨辺りまで伸びたストレートの金髪に島の海のようなエメラルドグリーンの瞳、病的なまでに白い肌。一瞬女性かと見紛ったが体に凹凸はなく、細身で長身、顔もきれいに整ったモデルのような青年がワイシャツにダメージジーンズという装いでそこに立っていた。背中にはギターケース、首にはヘッドホン、胸元には金色の十字架がある。歳は二十代半ばだろうか、と大海は思った。

「あ、キミがヒロミくん? 初めまして、ボクはミオウ。早乙女(さおとめ)ジャン・ミシェル美(み)桜(おう)です。よろしくね!」

 一応シンガーソングライターやってます、と言いながらCDを差し出される。ジャケットにはギターの弾き語りをしている彼の写真が使われているが、見たことも聞いたこともないタイトルで、どこか胡散臭い代物のように見えた。

「新しいアルバムを作りたいなと思って、しばらく滞在することにしたんだ。島のこと、色々教えてね!」

 台帳を見ると、確かに彼は二週間分の予約を取っていた。CDと彼の笑顔をまじまじと眺めながら、大海は尋ねる。

「あの……どうして、赤間島に来たんですか? 他にもいい島はいっぱいあるし、しかも今、この島では神隠しが頻発してて縁起が悪いって言われてるんですよ?」

 こら、と母が横から小さく叱責したが、美桜は表情を崩すことなく答えた。

「だからこそ、だよ。謎めいた神秘的な島って惹かれるじゃない?」

 予想外の回答に呆気に取られ、返す言葉を失う親子。

「それに、ネットで話題になってるよ。ここは、人魚がいる島だって」

「ああ……」

 確かに、そのような噂もある。きっかけは、ある水中カメラマンによって撮影された、人魚らしき影のある一枚の写真だった。実を言うと、その写真を撮ったのはてぃだぬかじの常連・須崎(すざき)義彦(よしひこ)で、間違いなく人魚だったと彼はSNS上でも強く主張しているが、合成だと嘲笑うコメントがほとんどであった。どうやら、美桜は人魚の存在を信じている少数派のようだ。

 投稿されたのは昨シーズン末、つまり十月の終わり頃だった。失踪事件が起こるようになったのはそれから間もなくのことだったので、人魚が神隠しをしているとまことしやかに囁かれているが、真偽のほどは定かではない。

 雑談をしながら会計を済ませ、宿の案内をしてから部屋まで連れていく。これも、大海の役割の一つだ。

「あとこれ、集落のマップです。レンタサイクル屋さんとか、居酒屋さんの場所が描かれてありますので。手描きで申し訳ないんですけど」

「ううん、十分だよ。ありがとう」

「スタッフの対応は、基本的に夜十時までです。その時間までは受付か居間にいます。それ以降は隣の家にいますので、緊急の時はインターホンを鳴らすか、この番号で連絡してください」

「うん、わかった」

「それじゃあ、おれはこれで……」

「あ、ねぇ。今夜のお客さんって、もしかしてボク一人?」

 ギターケースと荷物を和室の角に置き、畳の上で胡坐をかきながら尋ねる。

「はぁ……そうですけど」

「そっか、寂しいなぁ。でも、そしたらギター弾いても迷惑じゃないかな?」

「まぁ、八時くらいまでならいいんじゃないですかね」

「わかった、ありがとう。またね」

 失礼します、と言って扉を閉める。チェックインが終われば、あとは自由時間だ。宿題も終わったことだし素振りでもしようかなと思い、彼は祖父・喜一から譲られた木製バットを持ち出して庭でトレーニングを始めた。

喜一は妻を亡くした直後に脳腫瘍が見つかり、しばらく頭痛や嘔吐に悩まされていた。宮古島の病院で摘出手術を受けたが、それ以来体調を崩しがちになり、更に原因不明の味覚障害まで発症してしまったのだ。かつてはよく一緒にキャッチボールをしてもらったものだが、ここ数年はずっと一人でバットを振っている。

 燃えるような太陽が、西の水平線へ沈んでいった。


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