14 ホープ

「くそっ、こんなの絶対におかしい」


 イオは赤い橋の欄干をこぶしで叩いた。授業が始まって2週間あまりが過ぎようとしていた。授業は相変わらず、走り込み、筋トレ、水泳、あとは柔軟体操が追加されたくらいで、とにかく汗臭い日常が続いていた。ランタンがペン活用法や、歴史政治の授業まで独断でつぶして体力強化にするので授業が進まない座学はすべてプリントとなって宿題になる。反論すればさらにきつい体力強化のしごきを受ける。


 ガクやヤルキを鍛えて早くペンの扱いを覚えないとどんどん同期のほかのクラスの人々に置いて行かれる。イオは焦燥感を覚えていた。体力をつけることがなぜ王になることに結びつくのか。王とはこの楽園で一番頭の良い人間のことではなかったのか。

イオはため息をついた。


「くそ、ああ!」

 日は落ちかけて夕日が赤い欄干をさらに赤くして、この妙な世界を照らしていた。


「イオスズヤですカ?」

 不意にイオの背後で声がしてイオは振り返った。


「イオスズヤですよネ」

 白くつるりとして丸みを帯びたボディ。瞳を思わせる二つのまん丸でオレンジ色のレンズ、ボディの真ん中にはモニターといくつかのスイッチがついたそいつは、ロボットだった。


「君は……?」


「ホブリイエート・フェリオンP39でス。ヒトヒ様から伝言を預かっていまス」


「ホブリ……」


「ホープと呼んでくださイ!私は楽園に生きる人の幸福のために生み出された人工知能でス。メッセージを開封しますカ?」


 ホープという人工知能はその目のようなところをぴかぴかと点滅させた。


「いや、ちょっと待ってくれ。僕はヒトヒなんて人は知らないし、……それに僕がどうしてイオだってわかったんだ?」


「ヒトヒ様の計算がそうおっしゃったのでス。3124年4月1日23時40分にイオスズヤが楽園に来る、ト。お探しするのに1か月もかかりましタ。イオ様がヒトヒ様を知らないのは無理もないことですが、いずれわかりまス。私はこれをなんとしてもあなたにお伝えするために千年間お待ちしておりましタ。メッセージを開封しまス」


「あ……はい」

 イオの質問はおよそ無視してホープはなんとしてもメッセージを開封したそうだった。


「よくお聞きくださイ。イオ様。『桜はすべてを解決する』」


「は……?」


「『桜はすべてを解決する』でス。確かに伝えましタ。ミッション・コンプリートでス。それではさようなラ」


 ホープはイオにくるりと背を向けて去っていこうとする。かすかなモーター音とともにボディの下についたローラーで滑るように橋の上を進んでいく。


「いやちょっと待って!何、桜って!それだけじゃなにもわからないよ!ホープ!」

 はっと我に返り慌ててイオは追いかけようとした。ホープは先ほど日付をモニターに表示して見せた。ホープは何らかのコンピュータを積んでいる。伝言のことは訳がわからないが、過去に帰るためにコンピュータという道具は必要不可欠だ。追いかけないと。走り出す。ホープに気を取られすぎたイオには周りが見えていなかった。


「あっ」


 イオの体がぶつかって欄干に寄りかかって川を眺めていた少女の体がふわりと宙に投げ出された。少女の体は容易く赤い欄干を飛び越える。まずいっ。イオが手を伸ばすが寸分届かず、少女は重力に引かれていく。


 と、急にその自由落下がなにか別の力によって中断された。

「ホープ?」


 見るとホープから二本のワイヤーのようなものが伸びて少女の腕に絡みついて落下を防いでいた。


「ナイスだ、ホープ!ありがとう!」


 イオはワイヤーをつかんでホープといっしょに少女を引っ張り上げる。


 ふと何気なくイオの視線がそのワイヤーが射出されたもとをたどってみると……

「いや、目からワイヤー出すんかいっ!」


❀ ❀ ❀


「はぁ、はぁ。すみません、押してしまって。けがはなかったですか?」

 イオが橋にへたり込んだ少女に手を差し伸べる。


「いえ、こちらこそ助けていただいてありがとうございました」


 少女が顔を上げて目があった。透き通ったピンク色の瞳がイオの顔をじっと見る。

「あれ。また会いましたね」


 みつあみが夜風に揺れた。


❀ ❀ ❀


「とりあえず、麦のやつください」

「あ、僕はみかん生絞りで……」

 イオと少女は居酒屋に来ていた。道路わきの久が伸びた下の外席に三人で腰を下ろす。


「あ、私はハイボール……」

「えっ、そのロボットって飲めるんですか?」

 しれっと注文するホープに少女は目を丸くする。


「の、飲めるの?ホープ?」

「それはやってみないとわかりませんが、98パーセント不可能だという計算がでましタ」

「2パーセントにかけれるんだ……」


 ホープの無謀な注文はスルーされ、枝豆と飲み物が運ばれてくる。


「あ、ローレンさんって言うんですね。僕はイオで、こっちは人工知能のホープです。この前は道を教えてくれてありがとうございました。方法はどうであれ、また会えるなんてうれしいです」


 イオは言ってから自分の言ったことに気付いてあわててごまかした。

「あ、いや、変な意味じゃないですよ。ただ単にこんなに人がたくさんいる中で二度も同じ人に会えるのはすごく起こりうる確率の低い、ラッキーなことなんじゃないかって、そういうことです」


 イオの慌てた様子にローレンはぷっとふきだした。

「起こりうる確率が低いからラッキー、ですか。なかなか言えてますね」


 イオは意味もなくミカンジュースをがぶ飲みした。これが酒なら酔えたのに。


「私はこういう時、運命かも、なんて思っちゃいます」

 ローレンは「なんてね」と小さく言って笑った。


「あ、あの、それより、さっきはあそこで何を見てたんですか?結構覗き込んでいたような気がして」

 イオは話題を変えた。


「あー、恥ずかしいですね。ほかに人が見てると。ちょっと仕事終わりで夕焼けに黄昏てたんです。あの橋は結構水面まで高いので眺めがいいんです。澄んでいるから真上から見ると底が見えることもあるんですよ」


「そうですか。お仕事は大変なんですか?」


「そうですね。でも、仕事は自分のためでもあるのでがんばりますよ」


「いいですね」


「そういってもらえるとうれしいです。イオさんは学生さんですよね。この辺だと第九学園でしょうか。何コースかとかお聞きしても大丈夫ですか?私の友人もそこ出身なんですよ」


「いちおう、チャレンジャーを目指しています。……成績はあんまりなんですけど」

 イオが頭をかくと、ローレンはほほえむ。


「もしかして、それであなたもあそこで黄昏てたんですか?やっぱり訓練は厳しいですよね」


「はは、恥ずかしいですが、今は入学したてで体力の強化ばかりなんです。毎日くたくたですよ」


「ペンを扱うものなら体力は重要ですからね。がんばってください」


「えっ、体力ってそんなに重要なんですか?」


「ええ、とても」

 ローレンはそこでおもむろに立ち上がった。


「ちょっと見ててくださいね」

 と言って、すたすたと居酒屋の中で起きている酔っ払いの怒鳴りあいのほうへと歩いていく。

「え、ローレンさん、危ないですよ」


「はああ?どう考えたってこれは√3だろうが!展開もまともにできねえのかよ?!掛け金はもらっていくぜ」

「その言葉、そっくりそのままお返しするよ!答えは2だ。早くその金から手を放しな!ケビイシを呼ぶぞ!」

「はん。ケビイシを呼びたくなってるあたり、やっぱり自信がないんじゃないか?そこの学校にでも転がり込んでガクシャに九九から教えてもらいやがれ!」

「なんだと!」


 どうやら二人の酔った若い男が激しく口論しているようだ。内容はなんとなく数学っぽい用語が聞こえる。この楽園では勉強がすべてにおいて一番重要視されている、とバイに聞いたことをイオは思い出した。二人は相手の胸倉をつかみあっており、今にも殴り合いに発展しそうだ。ほかの客は慣れているのか面白い見世物を見物するかのように「いいぞ、やれー、やっちまえ!」などとヤジを飛ばしている。店主やバイトは気にも留めていない。


 ローレンは二人の間にしれっと入り込んで、胸倉をつかみあっているこぶしを一つずつ丁寧にひっぺがした。

「どうどう、落ち着いてくださいよ」


「なんだ、てめえ、俺たちはランク3のチャレンジャーだぞ。金をかけた大人の真剣勝負だ。あっちでジュースでも飲んでな」


「本当に真剣勝負なら殴ろうなんて発想になりませんよ。お二人こそさっさとくだらない争いはやめて仲良くジュース飲んだらどうですか?」


「なんだと?あんまり大人を怒らせるなよ」

 男の一人がローレンに向かって思い切りこぶしを振り上げる。イオは腰を浮かせる。


 と、ローレンは軽く体をひねり、それをかわすと、その男を投げ飛ばした。

「答えは√3です。あなたができていなかったのは展開ではなく、第三式から第四式の変形の際に行う有理化です」


 ローレンはもう一方の突っ立っている男も同じように投げ飛ばして床にのした。

「それと、私のランクは7です」


 ローレンは口をぽかんと開けている二人の男の前にしゃがんだ。

「この式はこういうふうに変形するともっとスピーディに処理できますよ。これはこういう展開公式を利用する方法もありますし、もっとよく味わったら、きっと面白いです」


「え、でも……、そこでこんな計算したら後でまた数値を直さなくちゃならなくなるだろ。非効率じゃないか?」


「そんなことないです。仮定の段階でこんな定義をしているので、この式はこうなって……」


「ふんふん。それはわかったから、じゃあ、こんな解き方はどうだ?」


「あっ、その考え面白いですね」


 ローレンと男二人は居酒屋の石床にペンで何やら書き付けて熱心に語り合い始めた。店内にはタバコの煙が立ち込めていて、イオは道路のほうに顔を向けた。


「あれは何をやっているのですカ?」

 ホープがイオに聞いた。イオは首を振る。

「さあ。とにかく、喧嘩の仲裁としてはうまくいったみたいだね」


「イオさん、お待たせしました。見てましたか?」

 気付くとローレンが男二人と別れてこちらのテーブルまで戻ってきていた。


「体術はときに勉学に先立つのですよ」

 ローレンはそう言ってにこっと無邪気に笑った。


❀ ❀ ❀


「あ、僕はこっちなんですけど、駅まで送りましょうか?」


「いえ、大丈夫ですよ。心配してくれてありがとうございます。でも私酔っぱらってないし、家すぐそこですから」


「え、麦のやつ4杯も開けてたじゃないですか。ほんとに大丈夫ですか?」

 イオがなお心配すると、ローレンは吹き出した。


「あー、イオさん。私が飲んでた麦のやつって、ただの泡立った麦茶ですよ。ミネラルは入ってこそすれ、アルコールはゼロなんで安心してください。私が初対面の男のヒトの前でつぶれるわけないじゃないですか」

 と、いたずらっぽくからかう。じゃあね、と言ってローレンは街灯の光の向こうに消えていった。


「……うん、じゃあまた」

 イオはその背中に向かってつぶやいた。相変わらず、月も星もない夜だった。


「私も、じゃあまタ~」

 ホープもオレンジ色の目をぴかぴか点滅させ、どこかに消えようとする。


「あっ、ホープ。これから君はどこへ行くの?」


「特に決まった家はありませン。今まで一か月余りイオ様を探すために不眠不休だったので、充電しに行こうと思いまス」


「どこへ?」


「楽園を包むカプセルに触れるところでス。カプセルで発電でもしているのか、あの壁に触るとなんだか元気になるんでス。いわば、野宿のようなものですネ」


「充電なら、黒の塔でもできると思う。僕にメッセージをくれたってことはある程度僕に関心がある人が君を作ったということになる。つまり君は僕に協力するのに十分な理由がある。ホープ、ついてきてくれないか。君のことをもっと知りたい」


「ヒトヒ様は私にイオスズヤに伝言を渡せ、という命令しか下しませんでしタ。……が、いいでしょウ。イオ様、あなたに協力いたしまス。――きっと、ヒトヒ様は許してくれまス」


「ありがとう」


 一人と一体は黒の塔に向かって夜道を歩き始めた。

「暗いので明かりをつけますネ」

「やっぱり目が光るんだ……」

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