第十七話 南雲屋吉右衛門
夕食はハンバーグなるものにございました。なんでも伴天連の食べ物で、豚と牛の肉を細かくし、玉ねぎなどとよく混ぜて焼いたものだそうでございます。そして醤油でも味噌でもないソースという『たれ』をかけていただくのですが、これがもう、天にも昇るおいしさにございまして、日本橋の料理屋として名高い
この時代では一般家庭でこのような料理が食べられるのだなぁと、つくづく幸せを感じておりましたが、母上が怪訝な顔をするのです。
「あんたハンバーグも忘れてもーたん? いつになったらその人格やのうて太一の人格が戻って来るんやろね?」
「にゃ?」
太一と呼ばれてイヌが返事をしています。が、今はわたくしが太一でございます。
「あ、あの、父上」
「ん?」
父上は父上と呼ばれることに抵抗を示しません。
「キーボードが欲しいのですが」
「え? 壊れたか?」
「いえ、決して。あの、少し大きめのキーボードが欲しいのです。猫の手でも打てるくらいの」
「イヌがキーボード打つのか?」
そう言って父上はワハハと笑います。が、笑い事ではありません、その通りなのです。
「いえ、それくらいの大きさが欲しいということなのですが」
「いいよ。明日学校から帰って来るまでに作っとくよ。何に使うんだ?」
「あ、あのですね、学校で少々」
父上はハンバーグに添えてあったジャガイモを熊手のようなスプーン……フォークか、それで刺しました。こうやって食べるのですね。
「じゃあ、少し頑丈に作っとくか」
「よろしくお願いします」
「あんた、階段落ちてからやたらと言葉遣いが丁寧になったなぁ。関西弁も出ぇへんし」
イヌがこちらをチラリと見ます。気になるのでしょう。
「そうですね、忘れてしまいました。勉強も全部忘れてしまいましたので、頑張って追いつかなくてはなりません」
「あんたなんか最初から勉強できひんかったんやし、そんな無理せんてもええのんちゃう?」
そうではないのです、母上。ここで生活するための基礎知識が欠乏しているのです!
「そうは参りません。ご馳走様でございました。大変美味しゅうございました」
わたくしが手を合わせて席を立つと、背後で母上が「ホンマにこれ太一かいな」とぼやいています。違います、と言えたら楽なのでしょうが。
部屋に戻るとイヌがついて来ました。
わたくしはパソコンを立ち上げました。このスイッチを押すとかすかに聞こえる「ウィーン」という音と、それぞれの機器が立ち上がる時に赤や青に光る小さなギヤマンの明かりがとても好きなのです。ああ、そういえばこの光るギヤマンは「えるいーでぃー」というものでした。早く覚えなければ。
それにしてもこのインターネットというのは非常に便利です。知りたいことがあれば単語を書くだけでそれに関連したことが出てくるのですから。慣れてしまえばこんなに便利な時代はありません。
ただ、このキーボードが厄介です。五十音順でも無ければいろは順でもない。しかもアルファベット順に並んでいるわけでもない。誰が考えたんでしょうか、何か理由があるのだろうとは思いますが。
「に……に……に……」
「にゃ」
『に』を探しているとイヌが『N』の場所を教えてくれます。ローマ字変換というのをやっているのですが、なかなか探せません。声に出すとイヌが教えてくれるので便利です。
「ほ……ん……ば……し……な……ぐ……」
「にゃ……にゃにゃ」
なんとか日本橋南雲屋のホームページを開くことができました。創業者の名前を見ると……ああ、南雲屋吉右衛門わたくしの祖父の名前でございます。この時代まで南雲屋は商いを続けてきたのですね。感無量です。
「にゃー?」
「ええ、この日本橋の菓子処・南雲屋がわたくしの家でございました。吉右衛門はわたくしの祖父でございます。なんだかお菓子が作りたくなって参りました。母上に頼めば厨房を貸していただけるでしょうか」
「にゃっ!」
「では早速頼んでみましょう」
イヌがわたくしの頬を前脚で軽く叩きました。それでやっと気づいたのです。わたくしがこの世界に来て、初めて心から笑っていたことに。
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