第218話 エリック・シモン

 今の彼はエリック・シモンと名乗ってるそうだ。

転院して、自分の宿舎に向かう途中、食材の搬入をしてる彼と鉢合わせした。


あの時の恐怖で息が出来なくなって…わたしはそのまま倒れた…


病気のことを聞いたのだろう…

毎日お見舞いに花とメッセージカードが届けられた…


あんな酷いことをしたくせに…

わたしは彼を赦した訳じゃない…


彼だけでなく…

もう誰とも関わり合いになりたくなかった…


旦那様との記憶だけがあれば良い…

他は何もいらない…


辛いことも…

悲しいことも…

不安に苦しくなることも…


もう嫌だ…



病院のロビーで偶々たまたま目に入った番組…


初めは誰の話か判らなかった…

そのうち…話が進んできたら…

瀬戸くんと、いつか来た女の人との結婚の話だった…


『え…? うそ…だって…』

何も考えられなくなった…

何を信じて良いのか判らなくなった…


「やっぱり…お姫様がいいんだ…」


それでも、わたしは指輪を返す理由が出来て良かったと思った…


瀬戸くんが思いもかけず指輪をくれた時は

何かの間違いじゃないかと、躰が固まってすぐには動けないほど嬉しかった…


旦那様が遺してくれた思い出が見つかって、

どれだけ私が愛されていたか判った…

わたしは旦那様の気持ちに応えていこうと決めた…


だから…好きだと言ってくれた瀬戸くんに何て言って返そうか迷ってた…

結婚するならちょうどいい…

元々…好きだと言われただけで、

結婚して欲しいとから言われた訳じゃない…


これで良かったんだ…

瀬戸くんも幸せになれるし…

わたしも静かに暮らしていける…


もう不安と悲しみに怯えるのは嫌だ…



〘今日もまたメソメソしてるのか…

よくも飽きずに毎日泣けるもんだな…〙

その声に慌てて顔を上げると、テーブルの向こう側にあの男がいる…


〘別に誰かに迷惑かけてる訳じゃないし…

どこで泣こうとわたしの勝手でしょ!〙

わたしは流れるしずくを手で拭い始めた。


〘鼻水も出てるじゃん…ほら…〙

目の前にタオルが出される。


わたしは少し迷ったが、有り難くタオルの恩恵にあずかる事にした。




病棟の屋上からは、施設の敷地内が一望できた。


〘良かった…いつも通り同じ所にいます…

あそこ、判りますか?二本大きな木の下…今日もエリックと一緒ですね〙

教えてもらった場所に目を向けると、ガーデンテーブルのベンチに腰掛けている彼女の後ろ姿があった。

向かい側にいるあの男…


〘なんであの男が?!〙


〘彼はウチの職員です。転院した初日、ちょっとした手違いで彼と鉢合わせして…

彼女倒れてしまったんです…

彼も気にして…お見舞いの花を贈ったりしてたんですよ。そのうちいつの間にか仲良くなって…今では彼の仕事の合間によく二人で一緒に過ごしてるのを見かけます〙



〘タオル…ありがとう…洗って返すね〙

〘そりゃ、どーも…〙


彼女が立ち上がった時、何気なく目に入った病棟の屋上…

面会が出来ない人達が、様子だけでもとよくあそこから敷地内を眺めている…


ちょうど彼女から真後ろの場所…

『今更何の用なんだ?』

他の女と結婚が決まったくせに…

棄てた女が惜しくなったのか?


〘あ…あの…〙

その声で慌てて彼女の方を見る…


〘昨日貰った無花果でパイを作ったから…嫌いでなければ少しもっていく?〙

彼女が俯きながら俺に訊く。

〘勿論!〙

俺は即答した。


二人ですぐ横にある彼女の宿舎へ向う。


〘あの…タオルのお礼だから…

わたし…貴方のこと赦してないし…

だから…もう付き纏わないでね…〙


そう言って彼女は家の中へ入って行った。


あの彼氏から俺たちはどんなふうに写るんだろうか…

棄てた女に会いに来てヨリを戻そうと思ってるのか…

随分都合のいいヤツだな…


そんな事を考えていたらドアが開いて彼女が包みを持って出てきた。


〘あ…エリくんだ…真古しゃんのパイ貰いに来たの?〙

彼女の後ろから顔を出して坊ずが話しかけてくる。

〘真古都さんがくれるって言うから貰いに来たよ〙

俺はしゃがんで坊ずの頭を撫でて答えた。


〘真古しゃんが作るのはみんな美味しいよ…お菓子も…ごはんも…〙

坊ずが得意げに話す。


〘もう数真くん!余計な事言わないの!〙


俺は立ち上がると、少し頭を傾けた顔を彼女に近づけた。


〘な…なに?〙

彼女が変な顔で俺を見る。


〘いや…もう鼻水は大丈夫かと思って…〙

すると忽ち彼女の顔が紅く染まった。


〘ちゃ…ちゃんと拭いたから大丈夫よ!〙

〘なら良かった…パイありがとう…

次は是非とも坊ず自慢のごはんが食べたいね…〙

俺は彼女の手からパイを受け取って言った。


〘何言ってんのよ!〙

〘じゃあな、坊ず〙

〘エリくんまたねー〙


俺は否定する彼女の言葉を受け流し、坊ずに手を降って歩き出した…


可笑しくて笑いだしそうになる…

俺が彼女に顔を近づけた様子…


離れたあの屋上からはまるでキスしてるように見えただろうな…


あの男の顔を想像したら笑いが止まらない…






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