第162話 暗翳

 真古都さんは一人で花屋を頑張ってる。

僕は家で数真を見ながら仕事をする…


僕が傍にいなくても

何とか大丈夫になってきたから…


でもそれだけじゃない…


僕が…この時間は一人でいる方が

都合がいいから…


こんな…

みっともない姿を彼女に見せたくない…


今も洗面台を赤く染めて喘いでいる…

なんて無様な姿だ…


なんで…僕はこんな病気になったんだ…


彼女と離れたくない…

彼女を独り遺して逝きたくない…



だけど…病気でなかったら…

きっと真古都さんとは逢ってなかった…

日本にも行かなかった…


皮肉だな…病気だったから真古都さんと逢えただなんて…


こんなに苦しい程…

ひとを好きになるなんて思わなかった…


初めて好きになったひと

まさかこんなに強く

想いを寄せるようになるなんて…


先輩には悪いことをしたけど…

僕はどうしても真古都さんが欲しかった…


先輩から奪ってでも、僕のものにしたい程

彼女を好きになったから…

だから…後悔はしてない…



「おーっ おーっ」


数真が騒いでる…


「どうしたのかな…数真」

僕は口に付いた赤い滴を拭いながら子ども部屋に入った。


数真はドアに近いサークルに捕まっていた。


「数真は歩く練習かな?」

そう言って抱き上げようとしたら、

数真の小さな手で思い切り叩かれた…


「あう…あう…」

何かに腹を立てているらしい…


「判った、判った…どうした数真?」

僕は抱き上げて優しく訊いた。


「ああ…お…たん…」


「えっ?!」


「おっ…とーたんっ!」

数真の小さな手が僕の顔を何度も叩く…


聞き間違いか?


「数真、もう一度言ってごらん」

僕は数真の頬を指で軽くつついて促した。


「お…んん…とーたんっ…とーたんっ…」


数真が…喋った!

どうやら “お父さん” と、

続けて言えないらしい


「とーたんっ とーたんっ」

覚えたての言葉を何度も繰り返している。


数真の成長が見られるのが嬉しかった…

どんな小さな事も見落としたく無かった…


「そうだ数真…今日はお母さんのところへ行ってみようか?」

「あう…」


真古都さん…きっとびっくりするだろうな…

びっくりして…その後、絶対悔しがる…


今日は数真とゆっくりしよう…


出来るなら…

一日でも長く一緒にいたいから…


僕は数真を連れて真古都さんの花屋に行く…


店の前に車を駐めると、真古都さんの花屋だと判るのだろう…

数真はもう大はしゃぎだ。


中に入ると、突然の僕と数真にびっくりしてるけど、満面の笑顔で迎えてくれた。


「やだぁ…来るって言ってなかったじゃん」

そう言いながらも嬉しそうだ。


僕は真古都さんの傍に行きキスを交わした。


「あ…あう…」


数真が真古都さんの顔をペチペチ叩いた。


「数真くん痛いよ…酷いな…」


「あう…あ〜」


数真は小さな手を伸ばして僕にしがみついてくる…


「う~ とっと…とーたんっ」


「えっ?!」


真古都さんが狐に抓まれたような顔を

僕に向けてきた。


「うん、 いいでしょう」


ニッコリ笑う僕とは対象的に、

物凄く真古都さんは悔しがってる…


「数真くん、数真くん、お母さんは?」


数真の頬を摘みながら、真古都さんがせっついてる。


「あ〜 あう…うう~ とーたんっ」


どんなにお願いしても今はお父さんだけみたいだ…


悔しがる真古都さんも可愛いが、

数真が初めて話した言葉が“お父さん”なのは

凄く嬉しかった



入口のベルが鳴る…お客さんだ…


真古都さんが店内に出て行く。

どうやら男のお客さんらしい…

真古都さんが辿々しく接客してる…


その時の僕は、数真が言葉を話した嬉しさで注意が削がれてた…


でなければ、

ドアの向こうで笑顔を向けてる相手が誰か…

きっと気付いたに違いなかった…








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