第7話 完

 当日は、とても良く晴れていた。

 私達は予定通り川崎駅の改札口で待ち合わせ、そこからJRで藤沢駅まで行き、藤沢駅で江ノ電に乗った。江ノ電では「のりおりくん」という一日フリー切符を買った。これを利用すれば、藤沢から鎌倉までの間、何回でも途中下車する事が出来る。

 車内は、座る事は出来なかったが、想像していた程混んでいなかった。初めて乗る江ノ電に、和泉は少しはしゃいでいた。

 手すりに捕まりながら、左右に見える家々の軒先の、よく手入れされた可愛らしい庭や、洗濯物とか、普通の暮らしが届きそうなくらい近くにある素朴な景色は、子供の頃にタイムスリップしたような気持ちになる。

 鎌倉高校前を過ぎると電車は海辺沿いを走り、そして鎌倉へと向かう。私達は、長谷で下車し、長谷寺と高徳院の大仏を見た。緑の生い茂った美しい境内を歩きながら、目の高さで咲いている草花の香りや、美しい色彩に体が包まれ、少しずつ心が開放されていくのを感じた。高徳院から長谷までの間、紅芋ソフトクリームを食べながら歩き、まだ江ノ電に乗り、鎌倉へ向かった。

 終点の鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ続く小町通りに入り、まず手打ちそばで有名な「なかむら庵」で蕎麦を食べた。お昼時間を過ぎていたせいかそんなに並んでいなかったので、10分くらい待って店内に入る事ができた。和泉はとろろ蕎麦を注文し、私はそばがきを頼んだ。

 小町通りに並ぶ店をあれこれ見たり、試食したりしながら、鶴岡八幡宮までの道のりを、のんびりぶらぶらと歩いた。途中私達は、若い男の人に声をかけられた。それもかなりしつこかった。サーファー風の彼は、人力車を引く人で、つまり勧誘だったのだ。丁重にお断りしたあと和泉が「女2人で歩いているのに、声をかけてくるのは勧誘か、携帯の撮影ボタンを押して下さいっていう人ばかりだね」と小声で笑いながら言った。

 鶴岡八幡宮では、何組かの結婚式をしていた。白内掛けに身を包んだ美しい花嫁さんを2人で眺め、パンパンとかしわを打ち「幸せがあやかります様に」と頭を下げた。

 帰りも、小町通りを通り、和泉は鳩サブレを買い、私は漬物と、鎌倉ハムのハムを買った。そして、また江ノ電に乗り、隣駅の和田塚で下車し、「無心庵」であんみつを食べた。店内は畳で、田舎の祖母の家に遊びに来たような懐かしい雰囲気の店。あんみつを食べたのは久しぶりだった。手作りの寒天や小豆の素朴な甘さが口いっぱいに広り、もうすぐ夏なんだなあと思った。

 和田塚からまた江ノ電に乗り稲村ヶ崎で下車し、七里ヶ浜海岸に出て砂浜を歩いた。5時を少し過ぎた頃で、「いつもだったらまだ仕事している時間だね」なんて言いながら、今ここにいる幸せを確かめ合ったりした。

 私達は、途中で写真を撮ったり、立ち止まって夕焼け色に染まってゆく海を見つめたりしながら江ノ島を目指して歩いた。

 歩きながら和泉は、ポツポツとフジオとの事を話した。

 

 あれから一度、フジオから電話があったの。私の部屋に置き忘れていた物を取りにきたいって。「郵送するよ」って言ったら、「けっこう重いし、近くにいるから」って言うから、「じゃあどうぞ」って言ったの。しばらくして玄関のブザーがなって、久しぶりに彼の顔を見たの。私は玄関先で荷物を渡して、なるべく普通に「じゃあね」って言ったの。そしたらフジオが「なんだよ、これで終わりなの? 俺は別れるつもりじゃなかったし、ただ喧嘩しているだけだと思っているんだけど」って言った。でも私は「もう、終わり。あなたは私と結婚するつもりがないんでしょ? もう疲れたの。さよなら」って言ってドアを閉めたの。そしたら携帯がなって、フジオが「わかった。でも、俺ずっと和泉の事が好きだったし、今も同じ気持ちだから。でも、幸せにしてあげられないから・・・ごめん」って言ったの。今、玄関の扉を開ければ、またフジオがいる生活に戻れると思ったけれど、私はドアを開ける事ができなかったし、それで良かったと思っている。でも、涙が止まらなくて、何も言えなかった。


 和泉の言葉が、砂地を吹く穏やかな風に包まれ、波に飲み込まれて行った。そして、広い広い海に漂い、消えていった。

 今日和泉は、この湘南の海に、一つの恋を葬ったのだ。


「大学生の頃は、こんな自分を想像した事もなかった。私は、25歳で結婚して、3LDK位のマンションにすんで、子供もいて、PTAとかカルチャーセンターとかに通ったりして、月に一回は夫と二人で食事に行ったり、映画を見に行くつもりだった。どこでどう間違っちゃったのかなぁ。25歳は大人だと思っていたし、30歳はおばさんだと思っていた。40歳の私はどんなふうに暮らしいるのかなあ。今日の事を思い出しながら、あの頃はこんなふうになるなんて思ってもいなかったなんて、又言うんだろうか・・・。凪子は? 思い描いていた通りの道を歩いてる?」

「ううん、私個人の計画では、今ごろは二児の母になっている予定だったし、アキラとも、もっと仲良く暮らしていた。私の理想の結婚生活はクリムトのTHE KISSっていう絵画みたいなイメージだったの」

 お花畑の中で愛する人に抱きしめられ、幸福感に浸りながら目を閉じる一人の女性がいる。けれども、お花畑の先は崖。愛とはそんなものなのだろうか・・・。それでもいい。たった一人の人に、あんなに風に優しく包み込む様に一生愛してもらえたらいい。と、私は思っていた。

「ふーん、クリムトかぁ。絵画の事はよくわかんないなぁ・・・。アキラくんとはうまくいってないの?」

「そうじゃないけど・・・前とは違う。私自身の気持ちが。前は、何でもアキラ中心だったから。それがアキラの重荷だったのかも。今は、自分が楽しめる様に時間を使おうと工夫している。でも、仲が悪いわけじゃないんだよ。少しずつ信頼を取り戻そうと、お互いに努力はしていると思う」

「凪子もアキラくんも、石のように頑固だもんね。まだ、セックスしてないんでしょ? ここまで意地張り続けるなんて、すごいよ」

「ん・・・・でも、こないだしちゃったんだ・・・」

「えっ? えっ、えっ、えっー! おめでとう!」

 和泉が抱きついてきた。何で「おめでとう」になるのかわからなかったが、一応めでたい事だったのかも知れない。

「あれ以来、4年ぶりだった」

「で、どうだったの? 私に遠慮はいらないから、言いたい事があったら言ってごらん」

 と、和泉が冗談ぽくお姉さんぶって言った。私の方がお姉さんなのに。

「痛かったよ。4年もしていないと、処女膜が再生されるのかと思うくらい。次の日はスースーしてたもん」

 本当に痛かったけれど、自分が女としてきちんと反応できた事に、安心した。

 あの夜、なぜそういうふうになったのかは良くわからない。

 金曜日の夜で、正確にいえば土曜日になっていた。私は、明日は仕事が休みという事もあって、お風呂から出て音楽を聞きながら、雑誌を読んだりしてリラックスしていた。アキラが帰ってきて、作っておいたおかずをチンして、味噌汁を温め、ご飯をよそって私はリビングでゴロゴロしながら何枚かの住宅販売のチラシを見比べていた。住宅を買う予定も計画もお金もないのだが、間取り図を見ながら「もしここに住むならどんな風に暮らそうか」と、家具の配置や、カーテンの色などを想像して楽しんでいたのだ。食事をすませ、シャワーを浴びたアキラが、バスタオルで頭をふきながら私の横にきて私の空想遊びに参加してきた。やっぱり南向きが良いよね。キッチンは絶対カウンター式にしてね。このマンション、お風呂にTVがついてる! ペット可だって。犬も飼いたいね。電源は多い方がいいし、遮音効果がしっかりしていないとギターが弾けない。駅から徒歩20分までが限度だよ。一戸建てもいいけど、マンションは鍵一つだから出かける時にラクだよね。でも、庭があれば花や野菜を育てる事ができるし、バーベキューもできるよ。ここにすんだら近くに何がある? と地図までひっぱりだして盛り上がっていた。何枚目かのチラシに、とても気にいったマンションがあった。お風呂場がベランダに繋がっていて、キッチンと居間が南向きにあり、大きな窓がついている。「ここが私の部屋で、こっちがアキラの部屋ね。そしてここが客間」と言ったら、アキラが「寝室一緒にしようよ」と真顔でいった。「ハッ?」私には、アキラがどんな意味を込めて言ったのかわからなかった。ただ何となく言ったのかも知れない。「どうして? あなたは誰にも干渉されない一人の時間がたくさん欲しいんでしょ? 自分がいないと生きていけないような私の弱さが鬱陶しいと言ったじゃない。だから私は一人に耐えていたのに・・・」と言いながら、不覚にもポロポロと涙が零れてしまった。悔しいのと、びっくりしたのと、悲しいのと…いろいろな思いが混ざっていた。アキラは、「ごめん、ごめん、泣くな、泣かないでくれ」と言いながら引き寄せて私の頭をなでた。そしてそのまま・・・。なんとなく・・・体が重なりあっていった。初めての時のような恥じらいや初々しさはなかったけれど、気持ちは素直になっていた。それはとても優しい時間で、私は余計な事は考えず、抱かれる事に集中した。

 

 江ノ島に着いた時は、6時をまわっていた。

 私達はお腹も空いていたし、歩き疲れていたので、えのしま小町を一通り見て、江ノ島食堂で江ノ島丼とビールを頼んだ。

 和泉は、

「今日は、初めてがいっぱいだったよ。鎌倉でしょ、江ノ電でしょ、それからこの江ノ島丼。凪子、ありがとう」

 と言いながら私にビールを注いでくれた。それから二人で、今日食べた蕎麦が美味しかった事や、江ノ島にきて江ノ島丼を食べた人は何人位いるだろうか? と言うような話をしながら、ビールを追加注文した。

 食事をすませ店を出る頃には人の数もまばらで、今日という日の終わりを告げるように、夜の闇が辺りを覆っていた。打ち寄せる波の音と夜景を見つめながら弁天橋をゆっくり歩き、私達は江ノ島駅へ向かった。


 終点の藤沢駅に着いたのは8時を少し過ぎていた。私達は藤沢駅で別れ、和泉はJRの改札口へ向かい、私は小田急線の改札口へ向かった。

「今日はいろいろありがとう」

「こちらこそ、楽しかった。また行こうね」

 別れ際、和泉はよく目を潤ませる。何だかわからないけれど、寂しい気持ちになるのは私も同じだった。別に永遠の別れでもないし、しょっちゅうラインや電話をしているのに。たぶん、私達は別れ際が苦手なのだろう。

 和泉と私は、かなり価値観が違う。一緒に買い物をしても、私が気に入った物を和泉は「何処が? こっちの方が良いよ」と言うし、和泉が気に入った物を私は「何処が? こっちの方が良いよ」と言う。趣味も違うし、好きになる男の人のタイプも違う。だからライバル意識も湧かないし、自分とは違う相手の見方を面白いと思えるし、意見も言いやすい。そして、お互いの一番惨めな時期をよく知っていて、悩みどころも解っている。これから先、どちらかに子供ができたとしても、この友情は続けていけるのだろうか? 大丈夫。子供がいてもいなくても、結婚出来ても出来なくても、悩みは尽きないはずだから、お互いを必要とするだろう。


 あと2ヶ月もすれば私は37回目の誕生日を迎える。

 女の37歳。そんなに若くもないけれど、中年でもない、中途半端な年齢。

 世間一般では、結婚して、子供がいて当たり前と思われている年齢。でも実際にはいろいろな生き方があって、いろいろな考えもあって、いろいろな37歳がいる。みんな自分の人生を自分なりに生きている。それで良いと思う。そうする事しかできないのだから。


 子供の事は、まだ考える余裕がある。考えても答えが出ない事もあるだろうし、考える間もなくできてしまったって事も、無きにしもあらずだ。もしかしたら妊娠できないかも知れない。けれど、一生考え続けていられる問題ではないから、いつか、ここ数年のうちには答えを出さなくてはいけないのだろう。

 

 時々ふと、思う。 

 私は、自分自身の事がよくわからないのに、一つの命を育てる事ができるのだろうか?

 イジメや非行、いろいろな事件が多いこの世の中に生まれる命は幸せなのだろうか?

 自分が嫌っていたレールを、私もまた引いてしまうのだろうか?

 子供に、間違った愛情をそそがないだろうか?

 考えたらきりがない。でも、一つだけ、答えがあるのなら教えて欲しい。


 生まない事は、罪ですか?


                   完

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生まない事は罪ですか? みずえ @wpw

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