第5話

 ゴールデンウェークが近付いてきた。ニュースでは「11日間の大型連休になる会社もあるそうです」と言っていたが、私の会社はカレンダー通りの休みだった。それでも、土曜日を含めて5日間の連休になる。何をしようか、どこへ行っても混んでいそうだし、今ごろ旅行の計画をしても遅いだろう。そう思っていたら母から電話がきた。お互い、いつかの電話での嫌な思いなんてケロッと忘れたように会話ができる。良いのか悪いのか、これが親子なんだなぁと思う。

「ゴールデンウィーク、帰ってこない? 家を新築するのよ。2階を湊(みなと)達が使って、1階は父さんと母さんが使うの。だから凪子の荷物を1階に下ろしたいんだけど、わからないから整理して欲しいのよ。何か予定ある?」

「へえ、すごいじゃん。じゃあ、その家で過ごすのも最後になるのかもね。だったら帰る。アキラは仕事だからたぶん一人で帰るよ。土曜日、新幹線に乗るとき電話するから、兄さんに駅まで迎えに来てって言っておいて」

 新築かあ。

 私は、実家の自分の部屋から見える景色を思い出した。南向きの明るい6畳の畳の部屋。赤いギンガムチェックのカーテン越しから見える海。本棚に並んだ漫画や小説。小さなドレッサーと勉強机。かわいがっていたぬいぐるみ。今でも実家に帰るとそこで寝起きをする。義姉(あね)も気を使って、あの部屋だけはそのままにしておいてくれていた。部屋を思いだしたら少し淋しい気持ちになった。何だか帰る場所を失ってしまった様な感じだ。いずれは、兄の子供である二人の甥っ子のどちらかがあの家を継ぐのだろう。世代交代は仕方がない事だけれど、私の思い出の置き場所は何処にすれば良いのだろうか。

 

和泉へ

ゴールデンウェークはどうする? 私は仙台へ帰るよ。実家を新築するんだって。だから部屋の整理をしにね。お土産に萩の月買ってくるから連休明けに合おうね。


 東京駅から仙台駅まで、東北新幹線で約2時間。さすがゴールデンウィークだ。どこの駅も混んでいたし、乗車率120%で、駅弁やアルコールの匂いと、浮かれた人々の気配が充満した車内は息苦しかった。

 仙台駅に着き、改札口へ降りていくと、兄と甥っ子の健一君が迎えに来てくれていた。

「アキラくんは?」

「仕事。彼は休日の方が忙しいのよ」

「何だ、アキラおじちゃんこないの」

  と、健一君がつまらなそうに言った。「音楽してます」という感じのアキラの雰囲気が子供には珍しいのか、アキラは甥っ子の健一君と裕ニ君にはうけが良い。この前アキラと一緒に帰省したのはお正月。母は電話では何かと小言を言うが、二人で帰省すれば温かく迎えてくれる。父も兄夫婦も。でも、アキラにはちょっと敷居が高い様だ。行かなくて良ければ行きたくない場所なのだろう。だいたい自分の実家へ帰るのも面倒くさがる人なのだから。

 夕方近くに実家に着いた。父は近くの港へ行ったらしく、母と義姉が夕飯の仕度をしていた。私は2階の自分の部屋へ上がり荷物を置き、窓を開けた。オレンジ色の西日が部屋の壁を照らし、懐かしい匂いがした。私の部屋の匂い。窓から夕焼けを眺めていると、トラックの音がして父が帰って来た。

「凪~! 魚もってきたぞ~」

 と、相変わらず大きな声で、窓の下から父が言った。この家で暮らしていた頃に、時間が戻った様だった。

 女3人で小さな台所に立ち、夕食の仕度をした。確かに狭い台所だ。こんな狭い所に主婦が2人、毎日一緒にいたら大変だろう。

 両親と、兄夫婦、甥っ子、私。7人で食べる夕食は賑やかだった。そのうち近所に住む親戚や、父と母のカラオケ友達が来て、歌い始め、もっと賑やかになった。子供達はお風呂に入り、義姉と私が食事の片付けを始め、兄はテレビをつけた。時計を見ると8時。近くにある小さな商店街はシャッターを降ろし、ここでの8時は都会の真夜中の様だ。窓を開けても、明るすぎる街のネオンや、マンションはないし、車の音も聞こえない。暗闇の中、小さな街灯の明かりだけが、ポツンポツンと間隔をあけて光っている。

 2階の自分の部屋に上がると、階下の楽しげな宴の様子が聞こえてくる。

 今年67才になる父と、64才になる母。2人の子供もなんとか無事結婚し、家庭を持ち独立した。役所に勤めている公務員の兄は大きな転勤もなく、お嫁さんも同居を望んでくれた。かわいい孫もいる。気がかりな我が儘娘が一人いるものの、まずまずの老後をむかえる事ができるだろう。近所の人達とカラオケをしたり、旅行に行ったり。あとは、健康に気をつけて、楽しい毎日を過ごして欲しいと思う。離れて暮らしている分、親不幸している分、いっそうそう思う。

 階下から聞こえてくる歌は演歌ばかりだったので、携帯で音楽を聞きながら、部屋に置いてある荷物を片付け始めた。あらかじめ兄が用意いておいてくれた段ボールに、「いる物」と「いらない物」を分別して入れる。学生の時に使った教科書やノート、テストや成績表、雑誌の切り抜き、映画のパンフレット、長く編んだリリアン、お菓子の缶の中に入ったビー玉やおはじき、母が作ってくれたお手玉、リカちゃんハウスまで出てきた。古いアルバムのページをめくるように、子供の頃の思い出が蘇ってくる。このまま、どこまで時間を逆戻りできるのだろうか。押入れの中の懐かしい過去。

 しばらくすると、ガタガタと音が響いたのか、健一君と裕二君が「凪ちやん、何してるの?」と覗きにきた。押入れから出した古い物の中から、なにやら興味を引く物を見つけた様子で2人で遊び出し、後から義姉がコーヒーを持ってあがってきた。

「ごめんなさいね、子供達が邪魔しているでしょ? コーヒー煎れてきたの、どうぞ」

「ありがとう。邪魔じゃないから、大丈夫だよ。」

 私は、コーヒーを受け取って、一口飲んだ。義姉が丁寧に煎れてくれたコーヒーはとても美味しかった。

「家の事、ごめんなさいね。凪ちゃんの思い出の部屋を壊してしまう事になって」

「いいの、いいの。でもこれから大変だね、ローンの返済とか」

「そうなのよ。私も裕二が小学校にあがって落ち着いたら、また仕事を始めようと思っているの」

「幼稚園の先生に復帰するの?」

「在宅の保育所を考えているのよ。一日に四人くらい。そうすれば、家を空ける事もないしね。だから今度の家は、保育用の部屋も考えているのよ。そうだ、図面見る?」

「見る、見る」

 義姉が製本された図面を持って来てくれたので、2人でそれを眺めながら新しい家の間取りの説明を聞いた。

 一階にはキッチンと広めのリビング、そして保育用の部屋、それから父と母が使う畳の部屋と寝室、収納スペース。どの部屋もバリアフリー施工で段差がなく、浴室・脱衣室・トイレは広めに設計されていた。2階は、兄夫婦の寝室と、広めのウォークインクローゼット。その他に洋室が3つと、トイレと浴室。天井部分は屋根裏部屋になっていて、そこは収納部屋にするそうだ。

「この部屋は、健一くんと、裕二君の部屋?」

 と、何気なく聞いたら、義姉は少し恥ずかしそうに、

「そのつもり。本人達は屋根裏部屋がいいって言っているんだけどね。それと、できればもう一人子供が欲しいの。だから一応洋室を3つにしたの。壁が動かせるから、多少のリフォームはできるのよ」

 と言った。

「頑張るなぁ。女の子希望なの?」

「そうなの、あと一人女の子が欲しい。でも、湊さんは非協力的なのよ。女の子は心配だって。嫁に行っても心配は続く。一生心配が続くから嫌だって。私が冗談で「じやあ、婿養子にすればいいじゃない」って言ったら、そうか、それなら良い。一緒にバージンロードも歩けるしなあ、って言うの。凪ちゃんの結婚式を思い出して笑っちやったわ」

 と、義姉が可笑しそうに言った。

 兄は、年の離れた私の事を、とてもかわいがってくれた。そして、私の結婚式の時、まわりが誤解しそうなくらい一番泣いていたのは兄だった。

 父は、初めて訪れた教会の真っ白いバージンロードを歩く時、右足と右手が一緒に出てしまいそうなくらい緊張していた。母は、父が転ばないかと冷や冷やしている様子で、静寂な教会の中、オルガンの音と、兄が鼻をすすっている音だけが響いていた。私は、純白のウェディングドレスに身を包み、父の足取りに呼吸を合わせるのと、兄の様子に笑いをこらえるのが必死だった。

 兄は今年42歳。義姉は38歳。友達の紹介で知り合って結婚したのだが、今でもラブラブで見ていて微笑ましい夫婦だ。

「女の人って、体力的に幾つくらいまで出産に耐えられるのかな」

 と私が言うと、

「そうねえ、人にもよるし、最近の高い医療技術の力を借りれば45歳くらいまではまだまだ平気じゃないかしら。この間新聞で読んだんだけど、アメリカで52歳の女性が自分の娘の代理母をして、出産したとかって書いてあったわよ」

「52歳で自分の孫を出産かあ。すごいねえ。障害の事とか、子育てに使う体力の事とか、経済的な事とか考えなかったら、幾つくらいまで出産できるんだろう。女の人の身体って、未知の世界だね」

「凪ちゃん達は子供、どうするの? 健一達が使ったベビーベッドと、ベビーカーや赤ちゃんグッズ、いろいろとってあるのよ。その時がきたら、使ってね」

 義姉は優しくそう言った。

 義姉が微笑んだ時にできる目じりの薄い皺は、何故か人の心を惹きつける。きっと義姉もいろいろな事を経験し、そしてこの優しさを得たんだろう。

 私は、アキラとのセックスレスの話しをしようかと思った。何故そうなってしまったのか、これからどうしたら良いのか? 和泉はいつも私の見方になって慰めてくれる。期待通りの言葉をくれる。だから私は和泉に愚痴をこぼし、自分は悪くないという被害者意識に浸り心を軽くしようとする。でも、義姉なら何と言うだろうか? 私にとって兄は兄で、配偶者としての兄を知らない。もしかしたら幸福そうにみえる夫婦だって、何らかの愚痴や不満や疑惑があって、みんなそういう物を飲み込みながら生活しているのかも知れない。人はそれをどうやって飲み込むのだろうか? 何か特別な方法があるのだろうか? 時々、すべてのわだかまりを誰かに聞いてもらい、楽になりたいと思う事がある。聞いてもらって楽になれるのかどうか解らない。話した事を後悔し、もっと落ち込んでしまうかもしれない。私の事を知らない誰か、例えば病院の精神科のような所で幾らかのお金を払ってカウセリングを受けるとか、インターネットでまったく知らない人に聞いてもらうとか。御伽噺の様に穴を掘って言葉を吐き出すとか。

 王様の耳はロバの耳

 王様の耳はロバの耳

 でも、それが出来ないのは、最初の言葉をはきだしたら、それがきっかけで恐ろしい言葉が滝の様に流れ出て、自分の醜さを痛感してしまいそうで怖いからだ。

 誰でも他人を寄せ付けない心のテリトリーを持っていると思う。私の場合はその領域が広く、周りを強力な壁で囲んでいる。もしかしたら、アキラはその壁の向こう側で淋しさを感じていたのかも知れない。アキラが壁をぶち壊し、ズカズカと入ってきて黙って強く抱きしめてくれたら…私は幸福になれるのだろうか?

 片付けながら、どのタイミングで義姉に話しを切り出そうかと考えていたら、兄が階段をのぼってくる足音が聞こえてきたので、やめた。

「どうだ、片付け終わったか?」

 と、缶ビールを片手に部屋に入り、私が折角整理し、箱にしまったアルバムを取り出しながら、

「俺の子供の頃の写真、見たいだろう?」

 と、義姉や子供達を誘っていた。白黒の、兄の子供の頃の写真は、今の健一くんと裕二君にそっくりで、皆で笑いながらページをめくっていった。

 東京の、あの狭いマンションで、一人で過ごしているのとは違う種類の、暖かい時間がゆっくりと過ぎて行った。

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