第4話

「あんな小さな粒が、こんなに簡単に人の体に影響を与えるなんて、薬って怖いなあ」と、山本外科胃腸科医院の医師の話を聞いて思った。

 医師は、

「ああ、出ちゃった? あの薬はね、時々そうなる人がいるんだよ。じゃあ、また前の薬に変えますから病院の方へ来て下さい。大学病院へ行っちゃったの? 先にこちらへ問い合わせてくれれば良かったのに~」

 と、明るい口調で言った。

 何だ何だ、そうだったのか。先に山本外科胃腸科医院へ行けばよかったよ。でも、まさか胃潰瘍の薬で母乳がでるなんて思いつかなかったもの…と、気が抜けた。電話をきって直ぐにアキラの携帯に電話をしたが、留守電になっていたのでメッセージを残しておいた。

 後になってネットで調べたのだが、処方された3種類の薬のうちナウゼリン錠という薬について


【主な副作用】

プロラクチン(催乳ホルモンの一つ)の上昇、男性乳房の女性化、月経異常、振戦(ふるえ)などの錐体外路症状、肝障害、下痢、便秘、腹痛、心悸亢進、じん麻疹、発疹などが起こることがある


 と記載されていた。なんだか笑い話のような出来事だったが、何かを考える良い機会だったような気もした。健康とか、病気とか、高齢出産とか、更年期障害とか、精神的な事とか、愛についても・・・・・。

 もし乳癌だったらどうしよう。乳房を切り取るのは嫌だし、癌になるには若すぎるから進行もはやいだろう。他に転移しているかも知れない。もしそうなら医者には告知してもらい、余命も聞いて、心の整理と身辺の整理をしておきたいし、手術するよりもサナトリウムの様な所で静かに逝きたい。葬儀は身内だけで簡単にすませて欲しい。お墓はどうする? 私が死んだ後にアキラが再婚したら私はお墓に一人ぼっちだ。まさか後からアキラとアキラの再婚相手が入ってくる事はないだろうから。死んでからも三角関係に悩みたくないし、アキラの事を考えたら死ぬ前に離婚した方がいいのかも知れない。病に卑屈になって醜くなっていく自分を見られたくない気もするし、見届けて欲しい気もした。

 ほんの一瞬、死という事を真剣に考えた時、こんな思いが頭の中をくるくると巡っていた。


 2月も終わりに近づき、ほんの少し春の足音が聞こえてきそうな頃、淡い黄色の封筒が一通、ポストに入っていた。和泉からの手紙だった。


凪子へ

 元気?

 久しぶりに便箋とペンを使って手紙を書いております。

 先日の母乳の事、病気じゃなくて良かったね。すっごーく心配してたんだから。結果を聞いた時は笑っちゃたけどね。

 さて、私は木曜日から風邪で会社を休んでずっと寝ていたんだけど、日曜日の今日はとても元気になり、まず何をしたかっていうとケンタッキーへ行きチキンフィレサンドを食べました。無性にチキンフィレサンドが食べたかったので、食べたら落ち着きました。

 日曜日の午後の客層は、物件さがしの若夫婦、勉強中の学生、暇そうなおっさん、そして私。

 本当は、木曜日は頑張れば会社へ行ける感じだったの。でもさ、有休も余っていたし、何か「そんなに頑張らなくたっていいじゃん」という気がして、微熱もあったし、休んでみた。昔はさ「私が休んでしまったら困るだろうな」なんて思った事もあったけれど、意外といなければいないなりに、普通に事が運んでいたりするんだよね。会社の中での自分の存在って、自分で思っているより小さいのかもね。

 あーあ、私ってこれからどうなるんだろう。不安な気持ちでいっぱいだよ。これって、36才を目前にしてあせっているからなんだろうか。

                              ケンタッキーにて

                                    和泉


 久々の和泉の弱気な手紙に、フジオとうまくいっていないのかなぁと思った。

 私は、和泉とフジオの結婚はあまり賛成できなかった。相手がフジオだったら、和泉が思い描いているような新婚生活とか、家庭は作れないだろうし、たぶん希望していた寿退社は無理で、一家の大黒柱として定年まで会社勤めをしなければならないだろう。今は良い関係でも、自由で快適な一人暮らしが長かった分、フジオの両親と甥っ子との同居は自由を奪う存在になり、いつか鬱陶しく思うかもしれない。それでも和泉はフジオとの結婚を夢みている。実際、和泉がフジオのどんな所に惹かれたのか、私にはわからなかった。それは、私がアキラのどこに惹かれたのか、和泉には理解できないのと同じだ。


「和泉? 手紙読んだよ。風邪の具合どう?」

「もう平気。バリバリ働いているよ。週末挟んで4日ぶりに会社へ行ったけど、席に書類が山積みになっていないか怖かったよ」

「で、どうだったの?」

「なってたよ。どうでもいいような書類が多くてさぁ、他の人でも処理出来るじゃんと思ったね。「みんな風邪大丈夫?」って、言ってはくれるけれど、仕事の面倒まではみてくれない。その辺はシビアだった。まあ、これが現実なんだって思いながら一つ一つ片付けていったけど」

「そうなんだよね。休んだ次の日の方が会社へ行きたくないよね。ところで、誕生日を目前に、弱気になってない? 大丈夫?」

「私さぁ、自分で36才と言う年齢を何かのハードルにしていたのよ。例えば、フジオとの結婚とか、つぶれそうなこの会社を辞めて、何か資格をとって転職するとか。でも、何も進んでいないし、変わってもいないの。ただ焦っているだけ。でも、時間は経ってもうすぐ誕生日になっちゃう」

「なんで36才をハードルにしたの? そんなの無理にハードルを置かなくてもいいのに。そこに合わせようと無理に走れば、転んじゃうよ。陸上選手じゃないんだから、ハードルなんか置かないで、自分のペースで走ればいいじゃん」

「そうだよね。何故かわからないけど、焦ってた」

「フジオとはどう? うまくいってる?」

「うん。週末は泊まってくけど、平日は私も仕事があるからあまりこない。店も忙しいみたいだし。この間お父さんが入院したんだって。愛人やってる妹も一時的に家に帰ってきたらしいから、子供の面倒はみなくていいみたい、今の所」

「いろいろあるねぇ・・・。そうそう、誕生日プレゼント、何もらうの? 結婚してお財布が一緒になったら、プレゼントも日用品とか電化製品とかになっちゃうから、今のうちに欲しい物をバンバン買ってもらわなきゃね」

 和泉は笑っていた。

 36回目の和泉の誕生日は、朝から雨が降り、夜になると東京でも多摩地区では雪に変わった。たぶんフジオと一緒だと思い、私は和泉に「誕生日おめでとう」とラインを打ちながら、シンシンと降り積もるなごり雪を、窓越しに見つめていた。


 4月に入って、新入社員も各部署におさまり、やっと一段落ついたのに、私が所属している総務部内は慌しく忙しかった。米山さんが、急に体調不良を理由に退職したからだ。

 彼女が妊娠していた事は、気がついていた。以前、「生まれ育つ環境が整っていないのに、無理に子供を生むのはその子にとって良くない事だと思うんです。だったら中絶した方が子供の為だと思います」と、言っていた。もしかしたら、そうしたのかも知れない。「私、結婚して子供が生まれたら、勉強面よりも運動面とか芸術面をのばしてあげたいんです」と、誰もが夢見るような事を、自分だけの理想のように得意げに語っていた事もあった。子供の父親は? 本人はわかっていたのだろうか。彼女がしていた事を思うと、同情する気持ちが湧かない。米山さんが、子供を産むとか産まないとか、どんなふうに育てるとか、そんな事はどうでもいい。だた、回りに迷惑をかけないで欲しい。どうするのよ・・・この書類の山。引継ぎもなく中途半端なやめ方をするから、結局残った者に皺寄せがくる。見かねた上司が派遣社員をもう一人追加しようと提案してくれて、さっそく派遣会社の人が女性を連れてきた。30代前半の落ち着いた感じの人で、結婚指輪をしていた。

 けれど、面接の席で川宮部長が履歴書を見ながら、

「お子さんの予定とかはないんですか? こちらとしては、長く勤めて頂きたいので」

 と、言ってしまった。するとその女性は、

「その事は、ここにくる前に派遣会社の方にも聞かれましたが、子供の予定があれば仕事を申し出たり致しません。そういう事は、面接を設定する前に双方了解済みだったのではないですか?」

 と、強い口調で言った。

 派遣会社の担当者も、川宮部長も、面食らった様子でその女性に謝っていた。結局、後日20代前半の子が面接に来て、翌日から勤務する事に決まった。

 年頃の女の子2人の父親である川宮部長が、あのような軽率な発言をしてびっくりした。もし彼女が何か病気や事情があって妊娠できない身体だったら? あり得ない事ではない。川宮部長の中には「結婚したら女は家に落ち着け」とか「女は子供を産むのが当たり前」と言う考えがあるのだろうか。時として、人は人を年齢や外見で判断する。それがどの程度的確なのか? 未婚で25才の米山さんが妊娠して突然会社を辞めた。既婚者で、36才になる私は妊娠もしないで未だに会社にいる。現実とはそんなものなのに。あの時部長が面接に来た女性に対して言った言葉を、妻や娘が聞いたらどんなふうに思うだろう。また、自分の娘が会社の面接で初対面の人間に同じような事を言われたら、部長はどう思うのだろうか?

 社内の男尊女卑思想はまだまだ残っている。

 産休や生理休暇なんて、あってないような物で、利用すると遠まわしに圧力がかかってくる。

 女性社員の制服がスカートしかないのも、妊婦用の制服がないのもおかしい。

 以前は感じなかった会社組織のありかたに疑問を持つ。何でこんなに幽霊役員が多いのか。

 幹部は定期代をもらいながら、タクシーを利用する。

 打ち合わせと良いながら、食事代を会社経費にする。

 上司が白いものを黒だといえば「はい、黒です」と言う人が多過ぎる。そんな人ばかりではないが、そんな人の方が何故か出世する。

 こんなおかしな、ままごとみたいな仕組みを『会社』と呼ぶのだろうか?

 ああ私、何でこんなに愚痴ばかり思い浮かぶのだろう。イライラしている。すごくイライラしている。何かが足りないのだ。カルシウムとか、ビタミンとか、そういう物ではなく、何かが足りない。

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