第2話

 翌朝、胃の辺りがキュッと締め付けられるような痛みで目が覚めた。たぶん夕べの母との会話のせいだろう・・・。この痛みは前にも何度か経験した痛みだ。アキラが特別な女性と一緒に過ごし、いつ帰ってくるのかわからない夜のベッドの中で、一人耐えていたあの痛み。あれから、何か嫌な事や悩み事があると胃袋で考えてしまう癖がついてしまった。医者からは胃潰瘍と診断され、薬を飲み続けていた。その日はいつもの薬と、強めの鎮痛剤を飲んで会社へと向かった。

 私は、ゼネコン系の会社に勤めていた。会社に勤め、働く事は特に嫌な事ではなかった。毎日何もしないで、一人家にいるよりは、社会との接点があるようで安心できる。ただ、ピラミッドの上の方で、肩書きに寄りかかり胡座をくんでいる人達に、使い走りを頼まれたり、お茶だのコーヒーだのと言われたり、パソコン操作を教えたりするのは仕事ではないと思っていた。男女雇用均等法と言われる時代だけれど、どんな会社でも黙認されている差別はあり、それをいちいち真剣に取り扱ってくれる場所が見当たらない。女性社員の中には、そういった使い走りのような事をしていてお給料をもらえるのならそちらの方が良いと、敢えて問題にしたがらない人もいる。もし、採用案内の仕事内容の箇所に「お茶当番・掃除・コピー・お使い・サービス残業有り」なんて事実を記載していたら、入社を希望した人は今より少ないのでは? と思いながら、パソコンに向かって4月に入社する新入社員の為の研修資料を作成していた。

 今年も、多くの希望を胸に抱いた若者が入社し、肩書きを取られた力ない人たちが背中を丸めて辞めていく。私はその流れを少し離れた所からみつめ、アキラの仕事について思う。不安定でも、給料が安くても、肩書きや役職に執着しない世界で、自分の為にやりたい事をやっている彼は精神的には幸せなのだろうと。

 配属されている総務部には、私を含めて3人の女性社員と、2人の派遣社員の女性がいる。年齢や入社年数から言っても私が一番年上で、いわゆるお局様。子供の頃見ていたテレビ番組の話や、好きな歌手の話、ボーイフレンドの話を聞いていると、生きてきた世代や、考え方の違いをひしひしと感じる。時々、彼女達の輪の中にいると、自分が異星人になったような疎外感を感じるのも当たり前だなと思う。けれど、子供がいる友人達は、彼女達の様な若い世代の人と、公園デビューや幼稚園・PTAなどで、我が子を通して付き合っているのだと思うと、自分に同じ事ができるか自信がない。常識の範囲がとても違う様な気がしているからだ。

 こんなふうに考えてしまうのは、米山さんの影響なのかも知れない。

 彼女は不倫をしながら、他にもインターネットで知り合ったボーイフレンドと付き合っていた。

 不倫している事について、

「奥さんが何もしてくれないんですって。彼が帰ってきても、ご飯の仕度もしていないし、毎日デパートへ買い物に行ったり、スポーツクラブへ行ったりしていて、家庭の事を何もしないんです。だから彼は、時々私のマンションにきて夕飯を食べるのがすごく楽しみだって言うんです。なんでも美味しい美味しいって食べてくれるんです。でも、その後エッチして、シャワーも浴びないで帰ってしまうんです。だから私淋しくってインターネットで知り合った男友達の所へ泊まりに行くんです。でも、一番愛しているのは彼。もうすぐ奥さんと別れるから待っていて欲しいって言われているんです。だから私、待つつもりです。だって彼を愛しているから」

 と、説明をしてくれた。特にこちらから聞き出した訳でもないのに、いろいろとプライベートを語りかけてくる。単に席が隣だから喋っているような感じで『誰かに喋りたい人』なのだ。私は、複雑な思いで聞いている。だって私はその奥さんと同じ立場の人間だったのだから。夫もそんなふうに、外で何らかの不満を言いながら、誰かと何処かで時間を過ごしていたのかも知れない。


 妻が何もしてくれないから、夫は浮気をするのか?

 夫が浮気をしているから、妻は何もしなくなったのか?


「悪いのは奥さんなんです」

 と米山さんは言う。私は、その彼にも奥さんにも会った事はないから、米山さんの話を全部鵜呑みする事はできないけれど、どうしても一番悪い人を決めるのならば、それは「妻と愛人を都合良く使いわけている男」なのではないだろうか。何故それに気が付かないのか? 気が付いていても、何かそれらしい理屈をくっつけて、自分の行為を正当化させていたいのだろうか。そして、一番の問題は、彼女が毎月その彼から一定のお小遣いを貰っていた事。これも「愛」と呼ぶのだろうか?

 この話を和泉にした時、

「その米山さんって子は、不倫ごっこを楽しんでいるんじゃないの? 可愛そうな自分とかを演じてサ。本当に深刻だったら他人にペラペラ喋ったりしないよ。ボーイフレンドもいるんでしょ? そういう子に限って、何もなかった顔をして、全く別の人と結婚しちゃうんだよねエ」

 と言った。

 そうかも知れない。そして、和泉のように、不倫もしてなくて、特定のただ一人のボーイフレンドと5年余りも付き合っているのに、いまだに結婚の話が具体的にならない人間もいるのだ。


 就業時刻になり、私は定時に仕事をきりあげ、かかりつけの山本外科胃腸科医院へ向かった。この病院は地域でも評判が良く、夫婦で治療を行っていて、いつも混んでいた。午前中や昼間はお年よりが多く、夕方の待合室はサラリーマンやOLでいっぱいだった。私は受付で診察券を出し、待合室の黒い長椅子に座り、ペラペラと雑誌をめくっていた。しばらくして名前を呼ばれ、第二診察室へ案内された。第二診察室は奥さんである医師が診てくれる。うっすらと口紅だけをつけ、白髪混じりの長い髪をきりりと一つにまとめ、清潔な白衣を身に着けた知的なこの医師をみると、悪い所は全部直してくれるような安心した気持ちになる。医師はカルテを見ながら、「又何時もの痛み?」と尋ねた。「何かストレスを貯めるような事でもあったの?」と聞かれたので、即座に「はい」と答えた。医師は少し苦笑いをしながら、「じゃあ、そこに横になって」と言い、診察用のベッドを指差した。私はいつも通りベッドに横になり、大きく深呼吸をした。医師の冷たい手が私の腹部を触診し、「少し、荒れていますね」と言った。看護婦がヒンヤリとしたゼリーの様な物を胃の辺りに塗り、医師が超音波機器をあて胃の内部を診察した。前にその超音波機器について、「妊娠している人の胎児の様子をみる物と同じようなもので、身体に害はないから大丈夫ですよ」という説明をしてくれた。画面に映った胃袋を見ながら、荒れている所を説明してくれたのだが、素人の私には良くわからなかった。ベッドからおり、衣服を整えていると、

「ストレスが原因で胃潰瘍になる人は増えているんですよ。なるべくストレスをためないように。潰瘍は一晩でできてしまう事もあるんですからね。癖にもなりますし、ガンの原因になる事もありますからね。刺激のある食べ物を避け、暴飲暴食をしないで、ゆっくりよく噛んで食べるように。それから、今までと少し違う薬を出しておきますから、そちらを試して見て下さい」

 と言われ診察が終った。受付で診察代を払い、新しい薬の説明を受けた。マーズレンS・ナウゼリン・セレキノという3種類の薬だった。消毒薬の匂いや、暖房でこもった空気、病院特有の暗い雰囲気から開放され外に出ると、2月になったばかりの冷たく乾いた風が私の横を通り過ぎ、ひんやりと心地良く感じた。

 途中、スーパーによってお惣菜とプリンと食パンを買い家路へと向かった。私は子供の頃から、風邪をひいたり、お腹を壊し食欲がない時でも、プリンだけは食べる事ができた。母が、牛乳と卵とお砂糖で作ってくれた、少し固めで、甘い茶碗蒸みたいなプリン。だから大人になって体調が悪く食欲がなくなった時でも、一応プリンを食べておこうと思う。食べる事ができなくても、冷蔵庫に冷たく冷やされ、いつでも食べる事ができる状態にしておきたかった。一種のおまじないのようなものだ。

 家に帰り時計を見ると8時だった。食欲がないと献立も思いつかなくなってしまう。それでなくても、毎日お財布と栄養のバランスを調整しながらメニューを考えるのは主婦の悩みどころなのだ。今夜のおかずは手抜きで、お惣菜コーナーで買った焼き魚とサラダとインスタントの味噌汁。いつもの様にテレビを付けながら一人で夕食を食べていると、和泉からラインが届いた。


凪子へ

胃は大丈夫?無理に頑張っていない?だいたい凪子はね、自分では頑張っていないつもりでも頑張っているのよ。だからさ、胃も悪くするんだからね。休養がなによりよ。

それからさぁ、子供の話、「それじゃあ結婚もしていない私はどうなるんだー!」と思うわけよ。私の親も結婚の事でいろいろ探りの電話をかけてくるもの。でもね、フジオはまだ結婚する気がないっていうし、結婚資金の為に作った二人の銀行口座にもフジオは一回も入金してくれない…。それでも今はフジオが一番好きで、一緒にいて欲しいと思うのよ。結婚していても、してなくても、悩み多き年頃だわね。

とにかく無理しないで、病院へ行くんだよ。


 和泉は、いつも程よい距離から、絶妙のタイミングで、励ましたり叱ったりしてくれる。

 私は『フジオ』を写真でしか見た事がない。本名は別にあるのだが忘れてしまった。写真で見た彼の顔が、フジテレビのアナウンサーに似ていたので、私がかってに付けたアダナだ。 

 和泉もそのアダナを気に入って、それからは二人の間ではフジオで通じるようになった。

 大学生の頃から和泉のボーイフレンドを何人か知っている。知らない秘密のボーイフレンドも含めると、結構いろいろな人と付き合っていたと思う。恋多き女なのだ。そして、彼女自身それだけの魅力を備えていたのだと思う。一度結婚式の日程まで決まっていた人がいたのだが、交通事故にあい入院し、生死をさまよう状態から奇跡的に回復したものの、彼や彼の両親から「結婚はなかった事にして欲しい」と言われたり、和泉の両親も後遺症や将来の事を心配し、散々話し合ってその人と別れた。

「結局私達はそれ程お互いを必要としていなかったのかも知れない。彼が何故、親に反対されたくらいで結婚をやめようとしたのかわからない。何か別に理由があったのだろうか? 私は彼に何らかの後遺症が残っても一生添い遂げるつもりでいたのに」

 と、全てが終わった時和泉は、争いに敗れ疲れた人の様に言っていた。外で会う時はいつもきちんと化粧をし、髪もブローして、スーツにヒール姿の和泉が、すっぴんで髪も束ねただけのラフな格好でいた事に、彼女自信が喪失したものの大きさを感じた。私は、和泉を励ます言葉がみつからずただ話を聞くことしか出来なかった」 

 その時和泉は、24才になったばかりだった。 

 その彼と別れてから何年かして、「やっと恋人といえるような人ができました」と言うハガキが届いた。それがフジオだった。私達は、普段の連絡はメールやラインだけど、特別な時は手紙やハガキを利用していたのだ。

 フジオと和泉の出会いは、居酒屋。ちょっと乙女チックにアレンジすると、『ふとその角をまがったら彼がいて、こちらを向いて微笑んでいたの』という感じの出会いだったらしい。けれど、フジオには病弱な両親がいて、何処かのお金持ちの愛人をしている妹が生んだ子供の面倒を見ていたり、職業が居酒屋のアルバイトだった為、二人の間で結婚が具体的になる事はなかった。 

 和泉は、フジオの両親の事は嫌いじゃないと言っていた。フジオがいない時でも家にお邪魔して、一緒に夕食を食べたり、買い物に行ったり、とても良い関係だと。ただ、妹が生んだ子供を育てていく自信はない。その子はまだヨチヨチ歩きのとても可愛い時期で、本当に赤ちゃんがこんなに柔らかくて、暖かい存在とは知らなかったし、守ってあげなきゃとも思うけれど、まず先に自分の子供を産んで育てたい。それに、他人の子と自分の子をまったく区別しないで育てていけるかどうかわからない、と。

 結婚資金用に2人でつくった銀行口座には、毎月和泉だけがお金を振り込んでいた。そして、和泉とフジオも、私たち夫婦の様に、肝心な事をきちんと向かい合って話す勇気がなかったのかも知れない。夏休みの宿題のように、ギリギリまで保留にしようとしていたのだ。

 愛情と言うものには、いろいろな種類があると思う。

 配偶者への愛情

 親への愛情

 兄弟姉妹への愛情

 我が子への愛情

 友達への愛情

 動物への愛情

 植物への愛情

 自己への愛情

 それぞれが違った形・大きさ・色・特長をもっていて、時にはどれが一番大切なのか、順番をつけて何かを決断しなくてはならない時がある。心情的には我が子への愛情が一番の様な気がするし、そうであって欲しいと思うが、最近は虐待とか子殺しとか、恐ろしい事件を頻繁に耳にする。直接暴力を振るう訳ではないが、子供の人生にやたらとレールを引きたがったり、思い通りに育てようとしたり、自分が果たせなかった夢を押し付けようとしたり、そのような精神的な暴力によって子供が持っている何かを消失させてしまう事もあるだろう。「その子の為にしている」という都合の良い言葉を利用して。そして、子供の中の何かが壊れてしまった事に親は気が付かず、いつの間にか我が子がナイフを隠し持つようになったり、自分で自分を傷つけたりしてしまう。親の考え、常識、思想の中で、一人の人格を形成し社会へ送り出す。今の私達にはそんな事をする意欲も勇気も包容力も見当たらない。アキラとの暮らしの中で、今よりも下へ落ちていかない様に、うまくバランスをとる事だけで精一杯。機能不全家庭からアダルトチルドレンは生まれるらしい。


 夕食の後、片付けをして、お風呂に入り、新しくもらった3種類の薬を飲んで眠った。アキラが帰ってきた事に気が付かないくらい、深く深く眠った。

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