第2話 温もりと冷たさ
「ぱぁぱ!」
声が耳を突き刺す。腹のあたりに重みを感じた。目を閉じたまま、手を伸ばす。柔らかく温かい髪の毛に手が行き当たった。
「おりゃりゃりゃりゃ!」
明るい声とともに娘──
「おきた?」
「うん。起きた」
「おそいねぇ」
「ごめんねぇ」
愛心の口調に合わせた言葉を選んだら、愛心は笑う。楽しそうなその姿を見て、感情より先に涙がにじむ。夢の生々しい恐怖がよみがえり、思わずその体を抱きしめた。
「パパ、あまえんぼさんだぁ」
舌足らずな口調に笑みが漏れる。
「そうだよ、あまえんぼだよ」
愛心を抱きしめながら、視線を床に落とす。そこにはハーネスが置いてあった。愛心用の、ハーネスだ。
あのとき轢かれかけていた子供は、助かったのだろうか。助からなかったのだろうか。
一番知りたい答えは、結局わからないままだ。中途半端な理想だけ見せつけて、本当に望んだものは与えない。いっそ夢でだけ、甘い妄想に浸らせてくれればよいものを、実際は現実も夢も厳しい。
「ようし……ようし……」
愛心がそう言いながら、私の頭をなで始めた。小さな手には私の頭は大きすぎるようで、側頭部から後頭部、前頭部と随分ゆっくりたどっていった。力加減もあまりできておらず、なでるよいうより、髪の毛をかき混ぜているようだ。きっと芸術的な髪形になっているだろう。
しばらくされるがままになり、愛心の声を聞く。抱きしめた体から、子供のいっそ熱いくらいの体温が伝わってくる。少なくとも愛心は目の前にいる。こうして抱きしめることも、声を聞くこともできる。愛心の髪の毛に顔を埋め、一息吸う。それから顔を上げた。
「愛心、お外遊び行くか」
「そと? いくー!」
「じゃあお着換えだ」
「はーい」
ベッドから身を起こし、クローゼットを開ける。手早く服を選んで着替えてから、愛心も着替えさせる。床のハーネスに手を伸ばす。逡巡の後、それを掴んだ。手に触れる固定具が、今日は妙に冷たく感じた。
「どうしたのー?」
「ああ、ごめんね」
愛心はハーネスを早くつけろとばかりに腕を広げている。不思議そうに私を見つめる愛心の顔は普段通りの愛らしいものだ。
愛心の前に膝立ちになり、手に持ったハーネスを装着する。背中側のパーツから伸びた紐を掴む。寝室のドアを開けると、愛心は小走りで出て行った。
「成美、愛心と散歩に行ってくる」
台所に立って作業中の妻に声をかける。
「あら、起きたばかりなのに?」
成美は手を止めて、私と愛心の姿を眺める。愛心は早くしろとばかりに、玄関へ続くドアに張り付いていた。成美はおかしそうに笑いをこぼす。その笑顔に何の違和感もない。
「昼間だと暑すぎるし、ちょうどいいよ」
「じゃあお昼ご飯までには帰ってきてね」
「ああ」
愛心を離し、ドアを開ける。
「いってきます!」
「こら、走らない。転ぶよ」
「いってらっしゃい」
声と同時に廊下を走りだした愛心を叱る。成美が笑い交じりに声をかけてきた。
「んしょ、んしょ」
わざわざ声を出して靴を履く愛心を見守る。丸く小さな手が、これまた小さな靴を抱え、小さな足に靴をはめ込んでいる。時間をかけて靴に足を入れ、マジックテープで留める。そこまで見届けたら、私も靴を履く。ハーネスの紐の先をしっかり握り、玄関の扉を開けた。
朝の陽ざしが目を射る。太陽はまだそれほど高く昇っていないが、すでに暑い。愛心の頭に水色の帽子を被せる。庭を横目に玄関を離れ、門扉を押して狭い道路に出る。
「あらぁ、愛心ちゃん、パパとお出かけ?」
「うん! おさんぽだよお」
ちょうど隣家の婦人が玄関ポーチの掃き掃除をしていた。にこやかに話しかけてくる夫人は、愛心の顔しか見ていない。顔いっぱいに笑顔を広げた愛心を見て、婦人も笑顔になる。
「おはようございます」
「おはようございます。朝から暑いわね。熱中症には気をつけてね」
「ありがとうございます。それでは」
「ばいばい!」
愛心が大きく腕を振る。婦人は優雅に手を振り返す。会釈をしてその場を離れた。
向かうのは家からさほど離れていない公園だ。砂場とブランコ、小さな滑り台しかない簡素な場所。だが住宅街に囲まれ、車通りが少ない道沿いに位置しているため、私も成美も愛用していた。
愛心にとっても散歩といえばその公園とわかるようで、迷いなく道を進んでいく。その背には愛らしい容姿とは似つかわしくないハーネスがある。色は明るめの青色で、普段から愛心が好きだと言っている色だ。交差した布の交点から紐が伸び、私の手につながっている。
「あ! おはなだよ!」
愛心が道路のわきに向かって走り出す。私も慌ててついていった。
「きれいねぇ」
愛心はその場にしゃがみ、なんだかませた口調で言っている。私も横に並んで花を見た。アザミだろうか。紫の混じったピンク色の花がアスファルトの隙間から顔を出している。
「綺麗だね。よく見つけたね」
「うん! あ、あっちにもある!」
愛心がまた走りだす。
「待って、愛心。パパと手をつないでゆっくり行こう」
その背に声をかけると愛心は素直に止まる。ハーネスの先の輪を手首に通し、嬉しそうに差し出された手を握る。愛心の手は柔らかく、温かい。私はそのことをよく知っている。
並んで歩きだした私と愛心。道端の花や、虫、空の面白い雲。愛心が気になるものを見つけるたびに立ち止まり、気が済んだら進む。繰り返して公園が視界に入る場所までやってきた。
「こうえんー!」
興奮した愛心が私の手を振り払う。咄嗟にハーネスを引く。胸元の軽い衝撃で愛心は一瞬立ち止まり、その間に私は愛心の手を再度掴む。
「車が来たら怖いぞぉ。愛心、ぺしゃんこかも」
「くるまこわいこわいだ」
「うん。だから道路を歩くときは一緒に、ね」
愛心が丸い頬に手を当て、いかにも驚き恐怖した、という表情になる。私の注意を素直に聞き入れるこの子は本当にいい子なのだ。
「やぁねえ。犬みたい。かわいそう」
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