第8話 ひとりで過ごす夜

 仕事が終わって会社を出るころには、辺りの街灯が煌々と光っていた。駅に向かう道中、一次会を終えた酔っ払いが千鳥足で道をふさいでいる。

(厳しかった……)

 結局、営業事務の女性が自分で何かをやり遂げた手柄が欲しくて、突っ走っていただけだと分かった。

 しかし、それが分かるまでに、営業部の課長の帰社を待ち、打ち合わせをしなければならなかった。営業課長の「そういうのは、できれば総務さんと彼女で対応してもらえると助かるんですけど……」という、苦笑いが忘れられない。

 お腹の卵が呼吸をしているのか分からないが、もし呼吸しているならとても苦しかったろうと思う。優しくお腹を撫でで、酒臭い電車に乗り込んだ。

(お酒って、いつになったらおいしくなるんだろう)

 春木にとっては、冷えたビールよりは麦茶の方がおいしいし、レモンサワーよりレモンスカッシュの方がおいしいし、ワインよりぶどうジュースの方がおいしい。とにかく、アルコールを含まない飲み物の方がおいしい。

 舌が子どもなのかとも思ったが、サラダのトマトが苦手だとか、ピーマンが嫌いだという歴代の上司たちを見てきた。そして、酒が飲めないことと何が違うのか分からなくなり、どうでもよくなった。

 ただ、何かを忘れたいときに、酒というものは便利だと思う。きっと、余計なことを考える、脳の良く動く部分を麻痺させてくれるのだろう。その恩恵にあずかれることは、羨ましいと思う。トマトやピーマンは、脳を麻痺させてくれない。

「すみません、降ります。降ります」

 いつもと違う時間の電車に乗ったせいで、開く扉が通常とは反対側だった。ターミナル駅で降り、改札を抜けて商業ビルに入ろうか迷う。時間は夜の八時半だ。ビルの扉には九時閉店と書かれている。

 ビルの入り口で、営業時間を見て立ち尽くす。カフェのラストオーダーはもう終わってしまうだろう。

「うまくいかないな……」

 今日がもし木曜日なら、残業をしても構わなかった。きっと、営業事務の彼女にももう少し優しくできたはずだった。優しく、というと語弊がある。丁寧な対応ができたはずだった。少なくとも、怒らせたり、怒鳴らせたりしなかった。

(帰らなきゃ……)

 踵を返して、改札口の中に戻った。十分に一本来る私鉄の各駅停車に乗り込み、晩御飯を食べていないことを思い出す。打ち合わせ中にお腹が鳴らないように必死だったのに、いつの間にか空腹を忘れていた。

 自宅の最寄り駅近辺にある飲食店を思い出し、何を食べようか考える。

(明日、引きこもろう……)

 また、明け方から夕方まで寝て、遅い時間から家事をして、終わったころにはスマートフォンを触るしかない休日が来る。仕事に行かなくていいのは嬉しい。

(出かけなくてできること……)

 ふと車窓に目をやると、赤とオレンジに光る中華料理店の看板が見えた。

(餃子、食べようかな)

 決めてからは早かった。最寄り駅まで眠り、到着したら電車から飛び出るようにして降りた。

 最寄り駅にある二十四時間営業のスーパーに向かい、冷凍食品の棚から油を使わなくても焼ける冷凍餃子を選び取る。

 どうせ出かけないなら、家でできることをしてやろう。

 ついでに、インスタント食品の棚でわかめスープを手にした。油の多い食べ物を受け付けなくなって久しいが、中華の気分なので、味噌汁ではなくごま油と鶏ガラの効いたものが飲みたい。それから、中華と言えばウーロン茶だ。二リットルのペットボトルをかごに入れると、かごの中でペットボトルが転がった。

(おお……危ない)

 両手でかごを抱えて無人レジで会計を済ませた。野菜を買い忘れたことに気付いたのは、店を出てからだった。お腹の卵に、野菜は必要だろうか。そっと触れてみたが、答えはなかった。

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