第7話 むずかしいですね

 金曜日になって、突如問題が発生した。

「だから! 昨日客先で緊急の事故検討会があったから参加できなかったんです! 今日、時間外なら参加できるんですから! そのように調整してください!」

 営業事務の女性は、キンキンとした声で春木に言った。ほとんど叫びに近く、他部署の人間が近くを通過がてら顔をのぞかせる。春木が一方的に怒鳴られていると分かると、苦笑いしてその場を離れていった。

「なぜそれが分かった段階で、おっしゃってくれなかったんですか」

 お腹に抱えた卵に澱がかかる。澱に浸かっていたら、卵が死んでしまう。

「緊急でそれどころじゃなかったんです。昨日だって営業部は会社に戻って徹夜でした。今日だって、検討結果を報告しにほとんどが出払っています。春木さんは定時退社でしたよね?」

 自分の仕事を時間内に終わらせて、定時で帰ることをなぜ責められるのだろうか。責められたと感じているのは被害妄想だろうか。

 帰りたい。今日は、あの書店に行くはずだった。

 昨日予定していた営業部の写真撮影は、五名しか参加できなかったようだ。参加者リストを確認したところ、別部署に予定を動かした五名が撮影したらしい。

「ちょっと、営業事務さん」

 見かねた上司が割って入ってくれた。何かを話しているが、頭に入ってこない。なんだか疲れてしまった。昼休み明けすぐにはあまりに重い話だ。何度か強く目を瞑って開く。不意に、フロアに響き渡る声で、彼女が叫んだ。

「その呼び方っていかがなものでしょうか!」

 割って入ってくれた上司は火消しに失敗したばかりか、彼女の名前を呼ばず、『営業事務さん』と呼び続けたために新たな火種を撒いたようだ。

(勘弁してください……)

 今、うなだれたりため息を吐いたりすれば、彼女は余計にヒートアップするだろう。上司が春木の方を見て、「彼女の名前は?」と目で合図をしてくる。

 そこで、はたと思い至った。字面を知っているが、読み方を知らない。

「あの、この件は、営業部の上長の方と相談させてください」

 助け舟を出してもらったはずが、こちらからまた助け舟を出す羽目になった。しかし、上司には感謝している。卵にかかる澱が減った。

 とにかく彼女には自分の部署に帰ってもらうことにした。情熱があって、頼りになるとは思う。しかし、今は感情的になりすぎて話にならない。

 百人近い人間の行動を調整するのも、ある程度の強制力が必要だろう。営業部の課長レベルからの指示が必要だ。

「私では話にならないということですか?」

 彼女は相変わらず大きな声で春木に問いかける。会話に割り込んだ手前、上司もその場にいるが、心はここにないようだ。

「いえ、私たち担当者間の調整では難しいので、部署間の調整が必要かと思います」

 日頃、希望を通すまで話を続ける彼女は、春木の言葉を聞いて憎しみを露わにした。表情を変えられても、無理なものは無理だ。

「営業課長の本日のご予定は? 三十分ほど打ち合わせの時間をお願いしたいです」

 舌打ちでもしそうな勢いで、彼女は春木を睨みつけた。そして、意趣返しでもするように口を開く。

「午後いっぱい外出です。本日中にお話しされたいなら、定時後にお戻りになるのでお待ちいただければいいと思いますよ」

 それだけ言い残して彼女は行ってしまった。部内に、今後の撮影についての周知をどのようにするつもりなのか分からない。

「春木。営業課長には私が連絡するから、残ってもらえるか?」

 残業禁止が叫ばれて久しい。春木の所属するような売上のない部署は、コストを下げることが最大の貢献だとされる。

「はい。彼女と……営業課長には、日程を再調整して決まり次第お知らせする。と、営業部に周知をしてもらうよう、メールしておきます」

 澱が混ぜ返されて、卵を覆う。カバンに入れてきた映画のパンフレットを一瞥して、深呼吸した。

ひとときの、楽しい夢だった。そう思って、諦めることにした。秋長は、疲れた自分が見た幻想だったと、卵に言い聞かせた。

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