第4話 やさしいおじさん
「お待たせしてすみません」
中年のサラリーマンは、小さなプレートにカップと紙パックのジュースを載せて戻ってきた。
「いえ、すみません」
こども向けの少量のジュースが入った紙パックを受け取り、その軽さに驚いた。こどもはこのくらいの量でも満足なのだろうか。もっと飲みたいとは思わないのだろうか。
首をかしげる春木を見て、サラリーマンはうなずき椅子に座った。
「あちち」
カップの取手が想像以上に熱かったようだ。右手の人差し指を、耳たぶに当てている。
カップの中身がティースプーンでかき混ぜられると、はちみつの香りが立ち上った。
「はちみつが好きでして。メープルシロップなんかも、お砂糖より好きなんですよ」
「そうなんですか……」
頭の中の知り合いのリストをめくるが、この中年男性は見当たらない。声をかけてもらえたことはありがたいが、気味の悪さを感じている。
「私、秋長といいます」
ティースプーンをソーサーに置いて、中年の男性は頭を下げた。
「あ、僕、ぼく、あの、はる……」
名乗っても良いのだろうか。親切な人だとは分かるが、望まない勧誘をする人物が最初は優しいことも知っている。
「ええ、大丈夫ですよ。あちち」
猫舌を隠さない大人を久しぶりに見た。いや、周りにいたのかもしれない。しかし、注視したのは社会人になってから初めてかもしれない。
「春木……です」
「春木さん。いいお名前ですね」
目を細めてはちみつミルクティーの香りを楽しむ秋長は、ずいぶんと穏やかな人間に見える。
「僕、落ち着いたら、帰りますから……」
秋長にも、気にせずに帰宅してほしい。一人暮らしで、仕事と買い物以外の会話がほとんどないせいで、フリートークというものが分からない。よく考えると、学生時代からよくわかっていなかったが、それには今ふたをする。
「はい。顔色がよくなるまでは、座っていた方がいいかと思います」
秋長にそう言われて、春木は手を右頬にやった。水分がなく、かさかさとした手触りと、芯から冷えた温度が手から伝わった。
それでも、もう視界は歪んでいない。随分と楽になり、リンゴジュースも飲めそうだ。大人ならば一口程度の量なので、今飲むと秋長とトーンが合わなくなってしまう。
代わりに紙コップの水を一口飲む。
「秋長さん、迷惑をかけてすみません」
「いえいえ、文字酔いと言いますか、私も本屋さんで目が回ったことがあります」
自分で話し、自分で納得して、秋長はまたはちみつの香りを嗅ぐ。席から見える書店を見て、しみじみと呟いていた。
「最近は買ってないですけど、本屋さんっていいですよね。私、好きなんですよ」
オレンジ色のライトの下から見る書店は、明るく輝いていた。
「はい。僕も好きです」
紙パックに張り付くストローを、袋から出して中身がこぼれないようにしながら突き刺す。一口飲むと、果汁が多く砂糖の少ない、こども向けのジュースの味がした。
「おいしいです」
呟くように言った春木に、秋長は目を細める。強い度の眼鏡をかけているせいで、細く小さな目は更に小さくなっていた。
「よかったです」
秋長も自分の飲み物を楽しんでいるようだ。秋長はどんな社会人なのだろうか。仕事の後に、買うことはない本を見て回るということは、どういう行動なのだろうか。
春木にとってそれはソーシャルネットワークサービスを見ることに似ている。新しい情報と古い情報の混ざる空間を、自分のペースで見ることが好きだ。
秋長はどうだろうか。春木と同じなのだろうか。それとも、既婚者で自宅に居場所がないだとか、そう言った理由だろうか。
ちらりと左手を見る。指輪はない。カップに添えられた左手を観察していると、スーツには合わないプラスチック製の頑丈さがウリの腕時計が巻かれているのが目についた。何の職業をしている人間なのかますますわからない。
「春木さんは、資格の本を買いにいらしていたんですか?」
欲しかった本が買えていないと思われているようだ。首を横に振り、紙カップとパックのジュースを交互に眺める。
「たまたま、です……」
そうですか。と呟き、はちみつが沈殿したのか、秋長はもう一度ティースプーンでカップの中身をかき回していた。
「私は、資格の棚に行くのが好きです」
ぽつりと呟くように言った秋長に目をやると、変わらずに笑い皺を寄せた表情があった。
「なんだか、やればできるんじゃないか。って気になるんですよ」
照れたように笑って、ティースプーンでカップ内をぐるぐるとかき回す姿は、中年にしては随分と幼い行動に見えた。
「わかります……」
資格本の棚には、努力をすれば欲しいものが手に入ると期待させる何かがある。この資格を取れば、違う世界に行けるのではないか。少なくとも、現状が変わるのではないかと期待させる何かがある。
「私の仕事関連の棚で、春木さんが辛そうにしていらっしゃったので、とても気になってしまって。お節介なおじさんですみません」
ティースプーンがソーサーに置かれたとき、かちゃりと音がした。春木にとって、何かのカギが開く音に聞こえた。
「僕は、友達が欲しいんです」
口に出したのは、これが初めてだった。
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