第3話 紙コップ二杯の水

 書店の隣にあるチェーン店のカフェに来たのは、初めてだった。コーヒーも紅茶も、それ以外の飲み物も、大体スーパーで買える。わざわざ座席代を払うのはいかがなものかと、春木はしばしば考えていた。

 それでも来店したのは、立っているのがやっとだったからだ。

 入り口から離れたスタッフルームの側にあるエリアまで、足を引きずって歩く。

丸テーブを挟んで、向かい合う形で配置された椅子が並ぶ二人掛けの列のうちの一つに倒れこむようにして座った。

 先ほどの現象は何だったのだろうか。急に、いままでの澱が波になって体の中を逆流した。澱があふれないように、人の少ない資格コーナーの棚でしゃがみ込むしかなかった。少し休憩しないと帰れそうにない。

(つ……つらい)

 コーヒーも紅茶も、冷たいシェイクも飲みたくない。しかし、昨今は座ること、居場所を生み出すことに金がかかる。そこらに座り込むのは、金がない人間か、失うものがほとんどない人間のすることだ。下手をすると警備員を呼ばれてしまう。

 春木には、まだ手放すことができないものがたくさんある。

「う……なにを…」

 椅子に座ってスマートフォンを開き、この店舗で販売されているドリンクメニューの中から、水か緑茶に近い飲み物を探す。

(なんで、ない……)

 探し物に一番近い飲み物は、抹茶シェイクだった。違う。こんなおやつではなく、もっと水分補給のためだけにあるものが欲しい。

「お客様、ご注文はされていらっしゃいますか?」

 つややかな黒髪の店員が、穏やかに尋ねてくる。随分とのんびり座っていたようだ。きっと、注文をしないで椅子に座りに来た客だと思われたのだろう。

「あ、いえ……いま、かんがえて、いて……」

 顔色が悪く冷や汗をかいている春木を見て、店員は少しだけ面食らったようだ。

「お薬用のお水をお持ちしましょうか」

 明らかに体調の悪そうな春木に、店員はできるだけ落ち着いて尋ねた。

「あ、いえ、はい、あの、え……」

 普段は難なく返事ができるのに、今日はそれができない。水をもらって、少し回復したら、一番大きなコーヒーをテイクアウトにして帰ればいい。それだけの計画を実行するために、今「はい。お願いします」と言えばいい。それなのに、呂律が回らない。

「あの、私にもお水をいただけますか」

 静かに近づいてきたのは、先ほど資格本コーナーの棚で声をかけてくれたサラリーマンだった。

 濃いグレーのスーツに白いワイシャツ。少しだけ出た腹が、濃い茶色のベルトの上に載っている。

「彼の注文も私が。お水をいただいてからレジに伺いますので」

 度の強い眼鏡をかけているのか、輪郭が歪んでいるように見える。春木の視界が歪んでいるのでそうなっているのかは、今の春木には判断できなかった。

「失礼しますね」

 春木の隣の二人用の席に、そのサラリーマンは静かに椅子を引いて座った。何が入っているのか分からない、重たそうなビジネスバッグを、自席の向かいに置いたときには椅子のクッションから空気の抜けた音がした。

「お節介でして、すみません。心配でして」

 返事ができずに、何度も首を横に振る。隣に座るサラリーマンは、春木よりも少しばかり年上に見えた。それは髪型のせいだろうか。頭頂部が寂しくなっているように思う。白髪も混じっている。

「ああ、お水、ありがとうございます」

 店員から水の入った紙コップを二つ受け取り、頭を下げたとき顎の肉が二重になるのが見えた。

「どうぞ。二杯ともお飲みになってください」

 春木の前に水がなみなみ注がれた白い紙コップが二つ置かれた。礼もそこそこに、一つを掴み、春木は一気に飲み干した。こぼれた水が喉を伝って、ワイシャツの襟を濡らした。

 やっと、呼吸が少しだけ楽になった。椅子の背もたれに大きく寄りかかり、静かに目を瞑る。

(よかった……)

 澱の逆流が止まった。同時に、隣に座る中年のサラリーマンに、多大なる迷惑をかけたことに気付いた。跳ねるように背もたれから体を起こして、左隣に座る中年に向かう。

「あの、すみませ、すみ、すみまっ」

「ええ、ええ。大丈夫です。何をお飲みになりますか?」

 席料を払わなければならない。逆流は止まったが、正体不明の不調が怖くて、コーヒーや紅茶の刺激物を選ぶことができない。

「私は、はちみつミルクティーにしますね。あなたは、なにかフルーツのジュースでよいでしょうか」

 スマートフォンで見たときには、フルーツジュースの記載がなかった。

「子供用の飲み物です。紙パックなので、飲めなければお持ち帰りになってください」

 そう言って、中年のサラリーマンは行ってしまった。カバンを残したままでいいのだろうか。春木が泥棒を働いて逃走しないとも限らないというのに。

(どこかで……?)

 出入りの業者の人間だろうか。過去に名刺交換をしただろうか。ここまで親切にされる理由が分からず、二つ目の紙カップに目を落とす。透明の水が揺らめいて、妙に安心した。

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